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  • 神の目的とエホバの証者(その14)
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  • 忠実な僕を見分ける
  • 反逆の種はまかれる
  • 「完成した奥義」の発表は爆弾となる
  • 支配権を得ようとする最後の必死の努力
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 3/15 187–190ページ

神の目的とエホバの証者(その14)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

忠実な僕を見分ける

トム: 当時の会衆全体の上にきびしい試練の時ののぞんだ事を示す事態がブルックリンの本部において発展し始めたと,ジョンさんは前に言われましたね。ここで特に問題となったのはルサフォード個人あるいはその強化した奉仕のプログラムに対する内部からの反対でしたか。

ジョン: そうですね,その焦点は管理機構の変化にあったようです。それは個人の問題に終始し,野心に根づいていました。ジェイ・エフ・ルサフォードはシー・ティ・ラッセルとは全く違う型の人でした。ラッセルは進歩的,精力的でまた積極的でもありましたが,制度内の他の者と接するとき親切で暖かく,またきわめてたくみでした。ルサフォード判事はその同僚に対して暖かく,また寛大でしたが,同時にかざり気のない率直なタイプの人でした。法律家としての以前の経験から,彼は兄弟たちと交渉を持ち,また問題に対処するときにきわめて率直でした。そのためある人々は怒りを感じたのです。ラッセルはわざに携わった当初から重きをなしていたため,当時,制度内の多くの人がラッセルを制度全体の代表者と見るよりは一個人としてのラッセルを仰ぎ見ていたことは自然のなりゆきでした。ルサフォードはこの事実を認め,また協会の会長は神の僕である制度全体を維持し,その委ねられたわざを遂行する備えをととのえるために用いらる器に過ぎないと理解していました。

トム: ラッセルはこの事についてどんな見解を持っていましたか。

ジョン: キリストの体であることを主張し,天でキリストと共になることを期待するクリスチャンすべてに責任が委ねられていると,ラッセルは認めました。制度という点についてラッセルは早くも1881年に次のことを理解していました。すなわち神が御自分のわざを遂行するために選ぶと言われた僕は,イエス・キリストの油注がれた追随者の全部であるということです。その年のものみの塔の中に彼は次のように書きました。

キリストのこの体の成員全部が,信仰の家の者に折にかなった食物を与える祝福されたわざに直接あるは間接に携わっていると我々は信ずる。時機にかなった食物を与えるため「主が家人の上に任命した忠実で賢い僕とは誰か」。それは聖別された僕たちの「小さな群れではないか。彼ら ― キリストの体 ― は献身の誓を忠実にはたしている。体全体が個人的にも集合的にも時機にかなった食物を信仰の家の者 ― 信ずる者の大群衆に与えているではないか。

主が来るときそのようにしているのを見られる僕(キリストの体の全部)は幸いである。「誠にわれ汝らに告ぐ。主人はその持ち物全部をその僕に支配させるであろう」「彼らにはすべてのものを相続させる」。a

時がたつうちにこの見方は見失われてしまい,1人の人にもっぱら注意が向けられました。b マタイ伝 25章45-47節にある「忠実にしてさとい僕」はパストー・ラッセル自身であるというのが一般の考えでした。この考え方のために,少なからぬ困難が何年かにわたって生じたのです。ラッセルが「あの僕」であったとの主張に影響されて多くの人がラッセルに対して抱いた考えは事実上,人間崇拝とも言えるものでした。神が御自分の民に啓示するのを良いと見られた真理はすべてラッセルに啓示された,そして「あの僕」が死んだいまこれ以上の啓示はないと,その人々は信じたのです。この態度を見て,ルサフォードは制度内に残された人間崇拝の痕跡を全くとりのぞきました。このゆえに彼は人間の恩恵を求めず,また以前に多くの人のとった行動を知っていたので,彼にとりいろうとする人々に警戒したのです。この態度をとったゆえにルサフォードは自分と交わる人々と交渉を持つ際には普通以上に率直でした。

ルサフォードが会長に選ばれてから間もなく,制度内にはこのとりきめに賛成しない人々のいることが明らかになってきました。ある少数の人々は自分がこの地位につくべきであると考え,ルサフォードの手から管理と支配の力を奪い取ろうとさえしました。ルサフォードが選ばれてから二,三ヵ月たった1917年のはじめ頃に,この気配は濃くなり始めました。

反逆の種はまかれる

トム: これは一種の共謀でしたか。それとも「各人ばらばら」の論争でしたか。

ジョン: 反逆の種は1人の人の中で芽を出したように見えましたが,間もなくひろがって遂には本当の共謀にまで発展しました。これは次のように始まりました。

第一次世界大戦の勃発後,パストー・ラッセルは協会の本部から誰かが英国に行って兄弟たちを強める必要を認めていました。そしてP・S・L・ジョンソンを派遣することを考えていました。ジョンソンはユダヤ人で真理を知る前はユダヤ教を捨ててルーテル教会の宣教者になった人です。彼は協会を代表する講演者として奉仕し,その才能は人に認められていました。このすぐれた才能が遂には彼の転落を招いたのです。

ルサフォードの選ばれる前に奉仕した委員は,ラッセルの明らかな意志に沿って意図されたわざのためジョンソンを英国に派遣しました。ロンドンに着いた彼は協会から与えられていない権威をふるい始め,協会の方針やロンドンの事務所にいる協会の支部の僕に反対し始めました。彼は英国の兄弟たちの前で彼ジョンソンがパストー・ラッセルの後継者であるという意味の話をして,預言者エリヤの上衣がエリシャの上に落ちたようにパストー・ラッセルの上衣が彼の上に落ちたことをほのめかしました。

その後の何週間かの間にジョンソンは英国における支配を完全に自分の手中におさめて英国で最も重要な者になろうと努めました。彼はそうする権威を持たないにもかかわらず,ロンドン・ベテルの家族のある人々をベテルから出そうとさえしました。わざは分裂して混乱がひどくなる一方なので,やむなく協会の支部の僕は協会の会長であるルサフォード兄弟に苦情を訴えました。ルサフォード兄弟は直ちに,本部のメンバーではないロンドンの重立った兄弟数人を委員に任命し,この事件の事実を審理してルサフォード兄弟に直接,報告するように命じました。委員は会合してよく考慮した結果,英国におけるわざの益のためジョンソンをアメリカに召喚することをすいせんしました。

ルサフォード兄弟はこのすいせんを受け入れ,ジョンソンに帰国を命じました。しかしジョンソンは応ぜず,手紙や費用のかかる電報を打って委員を批評し,委員の考えは偏見であると非難したほか自分の行動を正当化しようと努めました。英国における自分の地位を固くするため,彼は英国に入る際に協会から与えられたある書類を使ってロンドンの銀行にある協会の資金をおさえました。後日この資金を協会の使用にあてるためには法律上の手続をとることが必要でした。

しかし,ジョンソンは何時までも抵抗をつづけることができず,遂にニューヨークに帰る必要を認めました。彼はルサフォードを説き伏せて再び英国に派遣してもらい,自分の地位を固くしようとの努力をしつようにつづけました。ルサフォード兄弟が拒絶したとき,彼は理事の助力を求めました。ルサフォード兄弟は協会の会長として不適であると見せかけることによって,彼は4人の理事を自分の側に引き入れました。理事は7人だけで成り立っていますから,理事の過半数がルサフォード会長,ピアソン副会長,ヴァン・アンバウ会計秘書に反対する側にまわったことになります。これによって協会の役員はこの問題の一方の側に立ち,会長から管理と支配の力を奪いとろうとする理事が他方の側に回ったわけです。

トム: 彼らはどのようにそれをしようとしたのですか。

ジョン: 彼らは会長の地位を理事の下におき,会長の権威を相談役のものに制限しようとしたのです。それは法人の定款を変えることになります。そして最初の憲章の定めを全く越えることですから,重大な難問題を予想させました。

パストー・ラッセルの時代には会長と協会の他の役員が新しい出版物を決定し,理事は全体としては相談に与りませんでした。ルサフォード兄弟が会長になってからもこの方針はつづけられました。やがて3人の役員は「第七巻」の出版を決定しました。これは長いあいだその出版を期待されていたものでラッセル自身が死の前に書こうと望んでいたものです。役員たちは本部の2人の兄弟C・J・ウッドワースとG・H・フィッシャーがこの本を編集することをとりきめました。この本の最初の部分は黙示録,後半はエゼキエル書の注釈となるはずで,これら二つの聖書の本についてラッセルの書き残したものを,共同編集者が集め,編集して,「完成」した奥義あるいは「聖書研究」第七巻cと題して出版することになりました。従ってこの第七巻には主としてパストー・ラッセルの生前の考えと注釈がおさめられていたのです。

「完成した奥義」の発表は爆弾となる

1917年7月17日の正午,この本はベテルの食卓で発表されました。ラッセル兄弟が習慣としていたように,ルサフォード兄弟はベテルの家族の各人にこの本を贈りました。これは爆弾のような大さわぎをひき起こしました。この発表にどぎもを抜かれた反対派の理事たちは直ちにこの問題をとりあげ,協会の運営に関して5時間にわたった論争を始めたのです。

ロイス: しかし,パストー・ラッセル自身が第七巻の執筆を望んでいたのであれば,その人々はなぜ反対したのですか。これはパストー・ラッセル自身が書いたものの編集だとおっしゃいませんでしたか。その人々の議論はとるに足りないものであったと思いますが。

ジョン: 事実その人々が争う理由は全くないのです。ラッセル自身が次のように述べていました。「私は鍵を見つけ次第,第七巻を書くであろう。主が他の誰かに鍵を与えられるならばその人がこれを書くであろう。」d 彼らは相談に与らなかったので反対を始めたのです。しかし本は完成して発表されました。つづいて起こった5時間の論争には,P・S・L・ジョンソンが反対派の4人の理事と共に加わりました。彼らは本部の人々全部の前で公然と口をそろえて不平を述べました。この論争から,ルサフォード兄弟の下にある協会の運営には,ベテルの家族の中にも反対に共鳴する者の多いことが判明しました。これがつづくならば,ベテル全体の運営は支障をきたすでしょう。そこでルサフォード兄弟はこれをただすための処置をとりました。e

使徒パウロがはっきりと述べたように,私たちは分裂をおこす者を注意して避けなければなりません。聖書のこの明確な原則と一致してルサフォードはこれら不満を持つ人々と和解するか,あるいはその人々に去ってもらうことが必要となりました。その人々は理事の更送を不可能と考えていました。しかしラッセルの生前にも弁護士であるルサフォードはこれらの理事が正当に選挙されていないことをラッセルに指摘していました。彼の指摘した如く,ペンシルバニアの憲章によれば,理事の空席をみたすためにラッセルがある兄弟を任命した場合,その任命はピッツバーグにおける次の年次総会で投票により確認されねばなりません。しかしラッセルはこの事をしていませんでした。それで毎年定期的にピッツバーグで選ばれていた役員だけが正当に理事会のメンバーであるという事になります。他の4人はラッセルから任命されていただけで,投票による任命の確認を受けていませんでした。従って法律の上で理事会のメンバーではありません。

困難な事態の生じたはじめからルサフォードはこの事を知っていましたが,彼らが反対をやめるとの期待から,この問題を持ち出さなかったのです。彼らが反対をやめようとしないことが明らかになったとき,それは彼らを法律の上で解任する時でした。ルサフォードはこの事をしました。いまや解任された理事たちはこれを知って大いに怒り,ルサフォードが新しい理事を任命するのを阻止するため法律上の手段に訴えようとしました。彼らの弁護士もルサフォード兄弟の立場を確認しました。すなわち彼らは法的には理事会のメンバーでなく,従ってルフサォードは彼らを理事と認めなくても協会の会長として正当にそうする権利がありました。ルサフォード兄弟は直ちに他の4人を任命して空席をみたし,その任命は1918年に開かれる次の法人の総会で確認されることとなりました。

しかしサルフォード兄弟はその人々を直ぐ去らせるようなことをせず,巡礼としての高い地位を与えようと申し出ました。しかし彼らは拒絶してベテルを去りました。不幸にも,そして予想されたことではありましたが,本部での奉仕をやめたその人々はエホバの制度と和解しませんでした。その代りに彼らはベテルの外でアメリカ合衆国全土,カナダ,ヨーロッパにわたって話と手紙による広範囲な反対運動を始めました。その結果1917年の夏の終る頃には全世界の会衆の多くが内部で二つの派に分かれるようになりました。この期間に多くの人は霊的なねむけにおそわれていたため,反対者の巧みな弁舌に乗せられたのです。そして彼らは当時,御国の良いたよりの伝道の復興に目ざめつつあった人々と協力することを拒絶しました。当時アメリカ合衆国は第一次世界大戦のさなかにありました。牧師の反対も強く,一般の敵意も高まっていたので,神の制度を認識しなかった兄弟たちは,これら消極的に傾いた反対者の言葉に耳を傾け,次第にその活動は低調となって遂には反対者の群れとひとつになりました。f

支配権を得ようとする最後の必死の努力

しかし,これらの群れはいっさいの活動をやめてしまうほど眠りこんではいませんでした。伝道の活動をつづけて神の御心を行なおうと熱心に努めていた人々の手から会衆の支配を奪おうとした彼らの努力は,極端に熱心なものでした。聖書に預言されていたように,彼らはエホバの食卓から主の羊を養うことに関心を持っていなかったのです。彼らは仲間の奴れいを打ちたたき,ののしることをもっぱらにしていました。1917年の夏に起きたこれらすべての出事がはじまりとなって,これらの反対者と,ラッセル兄弟の管理した時代にラッセル兄弟の行なったとりきめそしていまルサフォード兄弟の手で強化されたこのとりきめに従ってエホバに奉仕していた人々との間に明白な区別がしるしづけられました。

1917年のはじめ,協会はその年の8月にボストンで大会を開くことを計画していました。反対派の群れはこの大会の主導権を握ることができると考えましたが,ルサフォード兄弟は彼らにそうさせまいと決意しました。彼らの動きを制するため,ルサフォード自身が協会の会長として大会の司会者を終始つとめました。このようにして彼は全部のプログラムを管理することができ,反対派の者たちは一度も大会で話すことができませんでした。その結果,大会はまったく成功してエホバに賛美が帰せられましたが,御国のわざに反対する者にとっては全くの失敗に終りました。

協会に反対する,これら野心にもえる者たちの次の企ては,1918年の1月にピッツバーグで予定されていた法人の会合を支配することでした。この法人の年次総会ではルサフォード兄弟の任命した新しい理事が選出されてその任命が法的に確認されることになっていたのです。総会は,協会に反対する者たちにとって支配権を奪う最後の機会になると,ルサフォード兄弟は知っていました。大多数の兄弟がこのような動きに賛成でないことは,当然に確信できました。しかし大多数は選挙にさいして意志を表明する機会がありません。これは法人の問題であって,「ものみの塔聖書冊子協会」の法律上のメンバーだけが参与できるからです。

エホバに献身した僕のすべてに意志表明の機会を与えるため,1917年11月1日号の「ものみの塔」は各会衆が一般投票をすることを提案しました。g 12月15日までに813の会衆が票を送りましたが,その結果は送られた1万1421票のうち1万869票がルサフォードを会長として支持していました。野外にいる兄弟の大多数が真実にルサフォード兄弟とその管理を支持していることが,疑問の余地なく証明されたわけです。そのうえ,この非公式の一般投票によって,1917年の7月に再任命された理事会のメンバーが5人の反逆した者たちに代って支持を受けていることも明らかになりました。h

兄弟たちのこの投票は一般的に言って法人のメンバーの態度とも一致していることが判明しました。ルサフォードと他の理事たちは法的に再選出され,反対者たちは一人も理事に選ばれなかったのです。i

この頃までには二つの群れのあいだの分離がきわめてはっきりしたため,和解の可能性はもはやありませんでした。1月における協会の総会後,反対派は彼らのいう「七人委員会」の下に別の組織をつくりましたj。1918年3月26日の記念式の時までには完全な分離が生じました。反対者たちは,協会の忠実な会衆とは別にキリストの死を記念することにしたのです。

ロイス: 彼らの組織は大きくなりましたか。

ジョン: それとは全く反対です。この反対に加わった者たちが一致していたのは数ヵ月に過ぎませんでした。1918年の夏に彼らの開いた大会のおり,不和が更にこうじて分裂が生じました。ジョンソンは一方に,他の4人は他方にそれぞれ追随者を連れて離れ去りました。ジョンソンは自分自身の別の組織を作ってフィラデルフィアに本部を設け,死ぬまで「地上最大の大祭司」と称していました。その時以来,不和がつのっていっそうの分裂が生じ,重大な裁きの時に協会から分離した最初の群れは遂に多数の分裂した派に崩壊してしまいました。

ロイス: そのとき協会から分離した人々は大勢いましたか。

ジョン: 正確な数を知ることは困難ですが,協会の受け取った部分的な報告からある程度のことがわかります。従来,協会では全世界にわたる記念式の出席者数の部分的な報告を発表していました。これは色々な会衆から送られてきたものです。しかし,1918年には制度の内外に生じた難事のためにこの報告が集められませんでした。1917年には4月5日の記念式の出席者数の部分的な報告から見て2万1274人が協会と交わっていました。1919年4月13日の記念式に出席した人の数は外国を除く部分的な報告から見て1万7961人でした。これらの数字は完全なものではありませんが,これから見ると以前の忠実な仲間と共に歩くことをやめた人の数は4000人をはるかに下回ることが分ります。k

しかしイエスが預言されたように,奉仕の特権に忠実を保った人々には仕事が与えられました。何十年前にパストー・ラッセルの始めたわざに忠実だったこれら神の僕たちは,1917年の末から1918年にかけて「完成した奥義」を熱心に配布しました。新しい管理が始まってから7ヵ月以内に,協会外部の印刷所で85万部が印刷されました。1917年の「ものみの塔」には次の報告が載せられています。「同じ期間をとって考えれば,第七巻の売れ行きは聖書を除く他の如何なる本の売れ行きをもしのぐ。」l

御国のわざを進める機会に霊的に眠っていた人々にとっても,また人々の霊的な指導者と偽る者たち,キリスト教国の教職者にとっても,この本は争いの種となりました。この本はこれら偽りの羊飼を痛烈に暴露していたのです。

内部からのこの反逆は制度にとって痛手ではありましたが,外部の敵が一致して制度に加えた攻撃にくらべればとるに足りないものでした。過去何世紀にもわたってサタンが神の制度に対して抱いてきた憎しみは数ヵ月の短期間に結集されて,いまや御国の証者を一人残らず地上から抹殺しようとサタンが決意しているように見えました。エホバのあわれみと忠誠な愛がなければ,次の二,三ヵ月間に起きた出来事はものみの塔協会の命とりとなったことでしょう。

[脚注]

a (イ)1881年「ものみの塔」10月,11月号5頁。

b (ロ)「ハルマゲドンの戦い」(1897年の613,614頁。「完成した奥義」(1917年)の53,125,237,416-423頁。1916年「ものみの塔」377頁。1917年「ものみの塔」323-324頁。1919年「ものみの塔」103頁。1923年「ものみの塔」67,68頁。

c (ハ)1917年「ものみの塔」372頁。

d (ニ)1917年「ものみの塔」226頁。

e (ホ)「収穫の時の分離」(1917年8月1日)1-24頁。

f (ヘ)1918年「ものみの塔」79頁。

g (ト)1917年「ものみの塔」330頁。

h (チ)右に同じ。375頁。

i (リ)1918年「ものみの塔」23頁。

j (ヌ)反対派の雑誌「キリストの御国の告知者」(1919年7月1日号)197頁。

k (ル)1917年「ものみの塔」157頁。1919年「ものみの塔」151頁。

l (ヲ)1917年「ものみの塔」373頁。

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