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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
塔76 8/15 483–487ページ

霊的な必要を満たされることから得る喜び

喜びにあふれている人を見るのはこのごろ非常に少なくなったことにお気づきですか。人々は生活に何か物足りないものを痛切に感じていますが,それが一体何であるのか分らないでいます。あなたご自身にもこうした経験がありますか。もしそうであれば,霊的な必要が満たされていないためかもしれません。

わたしたちは衣食住だけで幸福になれる訳ではありません。これは否定できない事実です。さもなければ,物質面で豊かな人は不幸を知らないはずです。ところがそうではありません。他方,物質的には恵まれていなくても,大きな喜びを味わっている人がいます。なぜですか。そのような人は聖書の次の言葉が根本的な真理であることを悟ったのです。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」。(マタイ 5:3)霊的な必要に気づく時,人はそうした自覚に促されてそれを満たすための手段を講じるようになります。こうして得られた霊的な満足は最高の喜びを与えるものとなるのです。

しかし人は霊的な食物をどこに見いだせますか。キリスト教世界の大きな宗教組織の一つに見いだせるでしょうか。それとも熱心なクリスチャンたちの比較的小さなグループの中にそれは見いだされますか。

これらの質問の答えを得るため,イタリアにおいて最近起きている出来事に注意を向けてみましょう。そこでは次のような言葉が聞かれます。「わたしたちは聖書の勉強を始めたばかりですが,世界でただ一つのこの真理をさらに深く窮めたいと心から願っています」。「次のことをお知らせしたいと思います。わたしは宗教からますます遠ざかりましたが,真の信仰の光を見いだした,ひそかな喜びを抱いています」。「あなたがたの仲間の伝道者と話し合ったのはこれが三度目です。わたしはカトリックですが,あなたがたのしていることを十分に認識しており,それから霊的な益を大いに受けています。わたしは聖書研究の勧めを受け入れました。それで主のみことばを広めるうえであなたがたの成し遂げているわざに深く感謝したいと思います」。これらはものみの塔聖書冊子協会のローマ支部に毎日寄せられる感想の二,三の例に過ぎません。

多くの人がキリスト教の発祥地とみなすイタリアにおいて,霊的な必要を自分の教会で満たされず,エホバの証人と聖書を学ぶことを望む人がいることは不思議に思われるかもしれません。しかし興味深いことにポレッティ枢機卿は,カトリック教会に対する人々の関心が衰えているという理由で,最近ローマのことを「宣教師の活動の分野」と呼びました。そのことはイタリア全体についても言えるでしょう。

霊的な必要に目ざめつつあるイタリア人は確かにますます増えています。特に過去30年間,高等教育がいっそう重視されるようになってきました。そのためイタリアの人々は読書をすることが増え,その一つの結果として多くの人は宗教指導者から聖書教育を受けていなかったことに気づくようになりました。事実,ごく最近までカトリック教会は聖書を読むことを奨励していませんでした。

身体障害者も答え応ずる

聖書の音信はあるゆる種類の人に訴えるものです。例えば重い身体障害者もその例外ではありません。その人々も霊的な必要が満たされた時に大きな喜びを味わいます。

交通事故のため若さの盛りに両手両足が麻ひしたイタリアのある若い人の例を考えてごらんなさい。その後ひとりの友人が彼に聖書のことを話し,「とこしえの命に導く真理」と題する聖書研究の手引きとともに聖書を贈りました。二か月たたないうちにこの若い人はそれらを通読し,エホバの証人と聖書を勉強し始めました。間もなく彼は学んだ事柄を他の人々に分かつ重要さを悟りました。その時はまだエホバの証人でなかった義理の兄弟が彼を車に乗せ,そのようにして彼は聖書について他の人々に語ることができました。手足の麻ひしたこの人は寝ているか,さもなければ車椅子に乗らなければならなかったので,訪ねてくる人に話す機会を常に活用しました。また手首にペンを結びつけて手紙を書くことを試みましたが,これは字がきたなすぎて成功しませんでした。そこで彼は電動タイプライターを買い,また手首につけてキーをたたく補助具を考案しました。

バプテスマの六か月後,この若い男の人は聖書を学ぶよう他の人々を助けることに毎月およそ100時間をささげるようになりました。そして六つに上る聖書研究を司会して,自分と研究した人々の中の三人がエホバの証人の巡回大会でバプテスマを受けるまでに進歩したのを見る大きな喜びを味わいました。

身体上の境遇にもかかわらず,この人は他の人々を霊的に助けることに幸福を見いだしています。その手紙の中の一通に彼はこう書いています,「聖書に対する心からの関心を培う可能性と,エホバに仕えたいとの願いを与えてくださったことに対し,わたしはエホバに感謝しています」。

おしで耳の聞こえない一夫婦も同様に聖書を学んだ結果,人生に真の満足と喜びを味わうように助けられました。身体的な障害のほかにも彼らには深刻な問題がありました。その結婚生活は非常に不幸でした。

夫は毎晩,酒に酔って帰宅しては時に妻を打つこともしました。彼らは経済的にとても困っており,しかも十三歳をかしらに一番下は六歳の四人の子供を養わねばなりませんでした。健康がすぐれないために妻は次の妊娠に不安を抱いていました。妊娠した時,彼女は自殺をはかったのです。しかしすぐに病院に運ばれて命をとりとめました。この時,やはりろうあ者で,エホバの証人と学んでいた友人が,神の王国について彼女に伝えました。この婦人は聖書研究の勧めを喜んで受け入れました。間もなく夫も討議に加わりました。

霊的な必要を満たされた結果,二人の生活は改善されました。夫はたばこをやめ,妻を打つことも酒に酔うこともなくなりました。金のかかる習慣から解放されたため,家族の経済状態は著しく改善されました。その後,1974年に妻はエホバの証人の巡回大会でバプテスマを受け,夫も1975年夏,「神の主権」地域大会においてバプテスマを受けました。今では二人ともイタリアのろうあ者が真理の正確な知識に至るのを助けるために忙しく励んでいます。

いっそう幸福な新しい生き方

スポーツおよびその類の事に夢中になっていた人のみならず,盗人,麻薬中毒者,売春婦も霊的な事柄の価値を認識するようになっています。その訳で彼らは今ではずっと幸福な生き方を追い求めているのです。

どろぼうであった人が霊的な必要を顧みるようになったきっかけを作ったのは証人であるひとりの母親でした。彼女は期せずしてそのことをしたのです。彼女は赤ん坊に聖書を読んで聞かせるのを習慣にしていました。ある晩,彼女はエフェソス 4章28節の次の句を最後に読みました。「盗む者はもう盗んではなりません。むしろ,ほねおって働き,自分の手で良い業をなし,窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい」。それから聖書を閉じてベッドのわきのテーブルに置き,明かりを消して寝ました。翌朝起きて見ると,聖書はどこにもありませんでした。家の人に聞いてもだれも知りません。聖書はどうなったのでしょうか。

何か月か後,サルジアのカグリアリで開かれたエホバの証人の地域大会の会場でひとりの男の人が彼女に近づいてこう尋ねました,「わたしがどこで真理の知識を得たかご存じですか」。「いいえ,知りません」と彼女が答えると,男の人はこう言いました,「あなたのベッドの下でそれを知ったのです」。その証人は聞いた事が信じられませんでした。その人が持っていた聖書を見せられて,彼女はそれがベッドのわきのテーブルから消え失せた聖書であることをすぐに識別できました。男の人は彼女の家に盗みに入ったこと,しかし物音がしたのでベッドの下に隠れ,彼女が聖書を読み終え,明かりを消して寝入るまでそこにじっとしていたことを説明しました。「あなたが寝入ったことを確かめるが早いか,わたしは,『盗む者はもう盗んではなりません』という句をあなたが読んだその聖書を取ってその場を去り,家に帰りました。わたしが盗みをしたのはその聖書が最後です」。一方でその人はエホバの証人を捜し,聖書研究を始めました。

また福音書を研究して他の人にそれを説明しようと努めていた若いイタリア人の婦人がいました。しかし彼女は麻薬の効いている時にそのことをしたのです。後に彼女はエホバの証人に接し,夫と一緒にエホバの証人との聖書研究を始めました。学んだ事柄に基づいて二人は不道徳な生活と麻薬をやめました。今では二人共に他の若い人々を助け,神は麻薬の使用によってではなく,聖書に説明された神のご意志を行なうことによって近づけることを理解させようと努めています。

神のことばという霊的な食物を豊かにとり入れる人々は,全く異なる見地から物事を見るようになることがあります。霊的な事柄が生活の中でいちばん大切なものになり,かつては非常に大事であったものを捨てても惜しく思わなくなります。

円盤投げの最優秀選手になった若い女性の経験があります。「毎日わたしはスタジアムに来て練習しました。雨の日も風の日も休みませんでした。わたしはこのスポーツでイタリア新記録を出すことを目ざしていました」。しかし聖書を学ぶようになってこの女性は競い合うスポーツに熱中することがクリスチャンの正しい精神を培う上で妨げになり得ることを悟りました。そこで彼女はスポーツをやめることを決意し,そして遂に彼女自身書いているように「かつてはスポーツの選手としてしばしば表彰された,ローマの同じスタジアムでバプテスマを受けました」。

人生に対して違った見方を持つようになった別の人に,柔道と唐手の道場を所有していた人がいます。聖書を勉強するようになったこの人は良心に動かされ,腕力のための訓練に対して違った見方をするようになりました。彼はこれら「武道」との関係を絶つことに決めたのです。良心に従って行動したいま,この人はクリスチャンの平和の音信を他の人々に喜んで知らせています。

驚くべき解放

全くのところ,神のことばから得られる霊的な食物は人々にとって助けとなってきました。クリスチャンの生き方と調和しないことをみずから悟るようになった生活から人々は離れ去ることができたのです。イタリアでもある人々は超人間の諸勢力に悩まされていましたが,それからの解放を経験しています。

これは九歳のひとりの少女に起きたことです。ある日のことおばを訪れた少女は,こうこつ状態になっている千里眼の人の前に連れて来られました。その結果,少女は麻ひにおそわれました。目は見開かれて生気を失い,顔面はひどくそう白になりました。その時から少女は幻を見たり,声を聞いたりするようになり,明らかないやしを行ない,人々の死を予告できました。眠れない夜を過ごしては彼女は非常に心を乱し,恐れのためによく叫びました。またつかみ合いでもしたかのように汗びっしょりになりました。彼女の胸には十字架の形が現われました。彼女の胸は切り開かれたかのように見えました。

両親は少女の身に起きている事に大変心を痛めました。牧師も全く助けにならず,その一人は少女が“霊的清浄”への道をたどっている可能性があるとさえ,ほのめかしました。しかし子供は非常な苦しみを味わっており,少しも幸福ではありませんでした。彼女は他のすべての少女と同じように遊んだり,跳んだりはねたりすることを切望したのです。

父親は絶望のどん底にあったその時にエホバの証人に接し,娘のことを話しました。すると娘の身に起きている事柄は神のご意志ではないことを,聖書から示されました。家族そろっての聖書研究が始まりました。エホバのことばが偶像を非としていることを悟った時,彼らは偽りの崇拝と関係のあるものを一切,家の中から除きました。聖書の勉強に進歩するにつれて少女は元気を取りもどし始め,間もなく“声”を聞くことも幻を見ることもなくなりました。胸の十字架も消えました。彼女は生きる喜びを取りもどし,家族一同,エホバ神の過分のご親切に喜びました。間もなく彼らは,あわれみの神エホバへの献身を象徴するバプテスマを受け,自分たちの感謝を表わしました。

宗教家を職とする人々

宗教家を職とする人々でも霊的な必要が実際に満たされていないことを示す証拠は,注目に値します。イタリアの雑誌や新聞に相変わらず報道されているところによれば,僧職を志す若い人々が少ないために,閉鎖されたり,ほとんど学生のいなかったりする神学校はますます増えています。また司祭,修道女,修道士で修道会をやめて他の職につく人も増える一方です。そして意外なことにエホバの証人の中にも,以前,修道女,修道士,司祭であった人が多くなっています。これらの人々は霊的な必要にどのように気づきましたか。

ある修道士は僧院の入口に腰をおろしていた時,そこへやって来た一人の婦人から,彼女の家にエホバの証人が来て「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌を置いていったことを聞きました。彼はその雑誌を彼に渡してはどうかと言いました。その2冊の雑誌を読んで汚されないようにとの考えからです。しかしこの修道士は後で雑誌を読み,福音書にはイエスに異父兄弟のあったことが記されていることを知って大そう驚きました。それで早速,図書館に行き,ようやく聖書を見つけました。雑誌に出ていた聖句を聖書から読んで,彼は雑誌に載せられている事柄が真理であることを確信しました。

彼は知った事柄を自分にできる範囲で他の修道士たちに話し始めたのです。そのために彼は叱責されて他の僧院に移され,おまけに精神異常者にされて病院に連れて行かれました。退院を許されると彼はすぐ家に帰り,自分が修道院を出た訳を家族に説明しました。家の者は彼のことを大変怒りましたが,彼は勇気を失いませんでした。そしてエホバの証人を見つけて聖書を勉強し始めたのです。

かつて修道士であったこの人は,もうすでに何年かの間,聖書の真理を他の人々に宣明しており,そうする事に大きな喜びを見いだしています。

別の適切な例は,十七年間,教区牧師を務めていた一人の人の場合です。彼は教会の戒律を守ることに非常にきちょうめんでした。しかしその教えのあるものは彼の心を苦しめました。彼は愛の神が,みずから造られた理知ある人間を永却の火の責め苦に遭わせることなど,どうしてあり得るのか理解できませんでした。後に彼は聖書研究の手引き「とこしえの命に導く真理」また他にもものみの塔の出版物を読む機会を得ました。

何か月間か思案した末,彼は教区牧師の地位を捨てて世俗の仕事を捜すことを決意しました。彼はその土地のエホバの証人の会衆と定期的に交わり始め,遂に水のバプテスマによってエホバ神への献身を表わすまでになりました。そして今では以前の教区民のある人々と聖書研究を司会して大きな喜びを見いだしています。

小さな始まり

現代におけるエホバの証人の聖書教育のわざは,初め非常に小さなものでした。イタリアも例外ではありません。1946年当時,聖書の音信を隣人に広めていたのは120人に過ぎませんでした。1950年までにその人数は1,211人にまで増加しました。25年後の1975年には5万6,264人が忙しく働いており,聖書を学ぶことを人々に勧めていました。

さらに大ぜいの人々が,王国会館におけるエホバの証人の集会に出席しています。その会衆と交わる証人の二倍の人が出席していることも珍しくありません。例えば,1975年4月7日の主の夕食の記念には,イタリア各地の会衆に12万31人の人が集まりました。

イタリアにおけると同様,他のどこにおいても社会のあらゆる階層の人々がエホバのクリスチャン証人と聖書を学び,その集会に出席して大きな益を得てきました。自分自身の霊的な必要がひとたび満たされると,人々は学び知った事柄を他の人に熱心に分かちます。この事は聖書の次のことば通り彼らの喜びを増し加えます。「受けるより与えるほうが幸福である」― 使徒 20:35。

あなたも霊的な必要を満たされることから得る喜びを望まれるならば,あなたの家あるいはご都合の良い他の場所で無料の聖書研究を司会するようにエホバの証人を招いてはいかがですか。霊的に養うための定期的なプログラムがいかにあなたの生活を豊かにし,はかり知れない喜びをあなたに与えるかをご自身で経験してください。

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