今年の最大の祝いにご出席なさいますか
イエス・キリストの死を記念する式に心からご招待いたします。1973年4月17日,火曜日,午後6時以降
エホバの証人のすべての王国会館や200以上の土地の他の場所において
入場無料 寄付は集めません
出席者350万人以上が見込まれている公式の祝いが行なわれるとすれば,それは確かに非常に重要な祝いにちがいありません。しかも,そのような祝いがまさしく行なわれるのです! ところで,そのような祝いに今まで一度も出席したことなどはない,とおっしゃるかたもおられるでしょう。そのようなかたは,その行事についてもっとよく知りたいと思われるに違いありません。だれがその祝いを主催するのですか。その祝いにはどんな意義があるのですか。出席するのはなぜそれほど重要なのですか。
歴史上の記録によれば,西暦33年の春(の木曜日の晩,もしくはユダヤ暦でニサン14日のこと),主イエス・キリストはご自分の12人の使徒とともに過ぎ越しの祝いを行なわれました。その後,使徒たちがなお過ぎ越しの食卓のまわりによりかかっていた時,イエスは新しい事がら,つまりその時以来今日に至るまでイエスの忠実な追随者によって守られてきた事がらを創始されたのです。それは「記念式」もしくは「主の晩さん」と呼ばれており,イエスの贖いの犠牲の「記念として」年ごとに祝われています。―マルコ 14:22-26。コリント前 11:23-26。
1940年前のその歴史的な夜のでき事の詳細の幾つかには非常に興味深いものがあります。目撃証人である使徒マタイはわたしたちのために,その晩のでき事を次のように述べています。「彼らがなお食べていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。『取って,食べなさい。これはわたしの体を表しています』。また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。『あなたがたはみなそれから飲みなさい。これは私の「契約の血」を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。しかしあなたがたに言いますが,わたしの父の王国であなたがたとともにそれの新しいものを飲むその日まで,わたしは今後決してぶどうの木のこの産物を飲みません』。最後に,賛美を歌ってから,彼らはオリーブ山に出て行った」。―マタイ 26:26-30,新。
表象物 ― それは何を意味するか
欽定訳によれば,『これはわが体なり…これはわが血なり』と言って,パンとぶどう酒をご自分の弟子たちに手渡したイエスは,どういう意味でそう言われたのでしょうか。(マタイ 26:26,28)ここでイエスが語ったことを述べるにさいして,マタイは一般に「なり」もしくは「である」と訳されているギリシア語,エスティンを用いています。しかしながら,ここではその語を,「意味を表わす」「表象する」「表わす」もしくは「意味する」という意味で使っています。ですから,新世界訳(英文)ではモファット訳と同様に,「これはわたしの体を表わし…これはわたしの『契約の血』を表わして(います)」と訳しており,チャールズ・B・ウィリアムズ訳は,これは「わたしの体を表わし…これはわたしの血を表わします」と訳しています。a
そのパンはイエスの文字どおりの肉のからだを適切に表象もしくは象徴するものでしたか。そのとおりです。というのは,それはパン種のはいっていない過ぎ越し用のパンだったからです。そのパンには,時に罪や偽善を表わすのに用いられているパン種つまりイーストははいっていませんでした。(マタイ 16:6,11,12。ルカ 12:1。コリント前 5:7-11)パン種のはいっていないパンは適切にも,『悪なく,汚れなく,罪人より遠ざかり』,あらゆる偽善から離れておられた神聖で完全なかたであったイエスを表わしました。―ヘブル 7:26。ルカ 1:35。ペテロ前 2:22。
イエスの忠実な使徒たちがそのパンをともに食べたとき,彼らはそのパンから栄養を得ていたのです。栄養は生命と生存とに関連を持っています。したがって,そのパンが表わしているものを受け入れることは,命をささえる食物にあずかることに比べられます。ですからイエスは,ご自分の肉のからだの犠牲のもたらす益に関して,ご自身について次のように言われたのです。『我は命のパンなり。…天より下るパンは,食う者をして死ぬることなからしむるなり。我は天より降りし生けるパンなり,人このパンを食はば永遠に生くべし。わが与うるパンは我が肉なり,世の命のためにこれを与えん』― ヨハネ 6:48-51。ヘブル 10:10。
しかしながら,この年ごとに守られる祝いにさいしては,イエスのからだのことだけでなく,さらにほかにも思いおこすべきことがらが含まれていました。ですから,イエスは次にぶどう酒の杯を弟子たちに回して,「これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」と言われました。(マタイ 26:27,28,新)古いモーセの律法契約の場合と同様に,キリスト・イエスの仲介によって結ばれた「新しい契約」も,血が流されることによって初めて発効するのです。また,その新しい契約に関しては,イエスのあの尊い血が注がれないかぎり,人類は罪の許しを受けることはできなかったのです。(ヘブル 9:17-20,22。出エジプト 24:7,8)記念式のぶどう酒の杯は,主イエス・キリストの犠牲の死によって,またそれを通して,エホバが人類の救いのために設けられたこのすばらしいご準備を表わしており,またわたしたちにそのことを思い起こさせるものなのです。―ヘブル 9:12,14,15; 10:28,29。
象徴物にあずかる人が少ないのはなぜか
招待に応じて,毎年行なわれる記念式に出席してみると,表象物のパンとぶどう酒にあずかる人がだれか出席しているにしても,ごく少ないことに気づかれるでしょう。たとえば,昨年全世界で行なわれた記念式では,出席者1,000人につきわずか3人足らずの人が表象物にあずかったにすぎません。それでは,だれが表象物にあずかる資格を持っているのでしょうか。それには,まず第一に,バプテスマを受けたエホバの崇拝者で,『忠実な証人』であるキリスト・イエスとその使徒たちに見ならい,エホバの証人として活発に奉仕していなければなりません。このことは,エホバのクリスチャン証人のすべてが表象物にあずかるという意味でしょうか。そうではありません。証人たちのほんの少数の人びとだけが表象物にあずかるにすぎません。―黙示 1:5; 3:14。ヨハネ 18:37。
このことは,西暦33年に記念式が創始された時のできごとを考えてみるとわかります。その場には,イエスがご自身との王国契約にはいるよう招いた,わずか11人の忠実な使徒たちが居合わせていました。イエスはこう言いました。「『しかし,あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします』」。また,次のようにも言われました。『われ汝らのために所を備えに行く…わが居るところに汝らも居らんためなり』。(ルカ 22:28-30,新。ヨハネ 14:1-3。マタイ 19:28)天でキリスト・イエスの提携者また共同相続者となるこの「小さな群」を構成する人びとは,ついには合計14万4,000人に達します。―ルカ 12:32,新。黙示 14:1-3。
今日,この天の命を受ける人びとの級の地上に残っている何千人かの少数の人びと,つまり少数の残れる者がいます。表象物にあずかる資格があるのはそれらの人たちだけです。それとは対照的に,14万4,001人の支配者を持つ王国の臣民として地上で永遠に生きる希望をいだいている150万余の「大群集」がこの残れる者と交わっています。(黙示 7:9,10,新)地的な希望を持つそれら大勢の人びとは,この年ごとに行なわれる記念式に出席することを非常にうれしく思っています。というのは,それらの人びとは,神の意志が地上で成し遂げられるよう取り計らう政府に関心をいだいているからです。しかし,彼らは,自分たちが王国契約にはいっていないことを知っているゆえに,表象物にはあずかりません。
ぜひご出席ください
考えてみてください。地球が地軸を中心として1回転し終えないうちに,160以上の言語を話す,200以上の土地の人びとが,このすばらしい記念式を祝うのです。エホバの崇拝が禁じられている多くの国では,何万人もの人びとがひそかにこの祝いを行ないます。しかも,自分たちの自由を失う危険を冒してまで,場合によっては命そのものを犠牲にしてまでそうしているのです!
ところで,それらの人びとは,出席者の大多数があずかることさえしない物質の食事のためにそれほどの危険をおかすと考えられますか。もちろんそうではありません。この重大な祝いにかかわる霊的な事がらに促されて出席するのです。出席者全員の注意は,命の源であるエホバご自身と,その愛するみ子であり,わたしたちの主また救い主であるイエス・キリストの贖いの犠牲を通してもたらされる永遠の命を得るためのエホバのすばらしいご準備に向けられます。刑柱上で遂げられたイエスの死は,人類のための贖いを備えるものとなっただけでなく,エホバに対する愛と献身と従順を明らかに示すものであったゆえに思い起こされるのです。こうして,イエスは,エホバのみことばとみ名を立証して,悪魔が偽り者であることを証明しました。
[脚注]
a ジョージ・W・クラーク及びJ・M・ペンドレトン共編,「新約聖書」(1884年初版,1947年再版ジュダソン・プレス出版)のマタイ伝 26:26の脚注は次のように述べています。「26. これはわたしのからだである: 文字どおりに取ることはできない。なぜなら,キリストは肉身のままで居合わせており,割いたパンは明らかにその肉身の一部ではなかったからである。これはわたしのからだを表わすというのが,その意味である。ゆえに,イエスはご自分のことを門(ヨハネ 10:9),ぶどうの木(ヨハネ 15:1),星(黙示 22:16)と呼び,またパウロは,『その岩はキリストなり』(コリント前 10:4)『ハガルは…シナイ山にして』(ガラテヤ 4:25)と語っているのである。こうした象徴的な表現はあらゆる言語に共通に見られるものであり,容易に理解できるものである」。