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  • ユダ・イスカリオテを弁護する余地がありますか
  • 目ざめよ! 1978
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目ざめよ! 1978
目78 12/22 27–28ページ

聖書の見方

ユダ・イスカリオテを弁護する余地がありますか

1977年の復活祭のこと,新教徒のあるグループに対する話の中で,スイス人の一教授はイエスを裏切ったユダ・イスカリオテを弁護する言葉を述べました。同教授は,裏切りは“有害なもの”にも“健全なもの”にもなり得ると述べ,ユダの裏切り行為は,“救いのきっかけを作った”という点で“健全なもの”であったと主張しました。その教授の意見によれば,ユダは「身代りのやぎとしての役割から自由にされるべきである」。

同様に18世紀には,ドイツの作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは,イエスをしてローマの支配者たちに対し自己を主張させ,ユダヤ人の王としてのその正当な地位を主張させるためにユダは信仰を持って行動した,と理論づけました。ユダによって設けられた機会を,イエスが進んで活用しなかったため,その裏切りが否定的なものになってしまったというのです。

他の人々は,霊感によるヘブライ語聖書が予告していた事柄を成就したことで,ユダを有罪とするのは間違いだと述べています。(詩 41:9; 55:12,13; 69:25; 109:8。使徒 1:16-20)わたしたちがユダを弁護するのは正当なことでしょうか。

イエスは十二人の使徒たちを選ぶ前に,『夜通し神に祈りをしておられました』。(ルカ 6:12,13)邪悪な人々や信仰の弱い人々が,使徒職のような責任ある地位を委ねられるということはあり得ませんでした。ですから,十二人の一人としてユダが選ばれたことは,神もイエスもその時点で,ユダを好意的に見ておられたことを示唆しています。その上ユダは,イエスと十二人の共通の財政を世話することを任されました。特にマタイが金銭や計算に関して経験を持っていたにもかかわらず,そうした割当てを受けなかったことから,そうした任命は,当時のユダの信頼性を物語るものです。―マタイ 10:3。ヨハネ 12:6。

しかし,ヨハネ 6章64節は,イエスが彼を十二使徒の一人として選んだ時から不忠実であったことを示してはいないでしょうか。その聖句はこう述べています。「イエスははじめから……だれがご自分を裏切る者かを知っておられた」。しかし聖書は,悪魔は「初めから」罪を犯してきたとも述べています。(ヨハネ第一 3:8)後者の場合,それは,神の忠実な子として創造された時からという意味ではなく,神に対する反逆の道の始めからという意味です。ユダ・イスカリオテの場合も同様に,イエスは「はじめから」つまり,ユダの悪の道の始まりにおいて,ユダがご自分を裏切る者であることを知っておられました。ところが他の人たちは,そのことに気付いてはいませんでした。裏切りの起きる少し前でさえ,十一人の忠実な使徒たちは,ユダが裏切り者になる可能性のある人物だとは認めていなかったからです。―ヨハネ 13:27-30。

ユダは祭司長に近付き,銀30枚でイエスを彼らに引き渡すことを申し出ました。祭司たちがそれに同意すると,ユダは「どうしたらイエスをうまく裏切って引き渡せるかを探るようにな(り)」ました。(マタイ 26:15。マルコ 14:10,11)ですから,裏切りは前もって計画された故意のものであって,つかの間の弱さから衝動的に犯したものではありませんでした。ルカ 22章3節は,「ユダにサタンが入り込んだ」と述べていますが,この不忠実な使徒が悪魔の意志に屈し,自らをサタンの手先として用いられるようにしたという意味で,そう言えるでしょう。予告されていた裏切り行為は,真のメシアを識別するのに役立ちましたが,それは,“救いのきっかけを作る”ために必要なものではありませんでした。人類の救いはユダの裏切り行為にではなくイエスの血が流されることにかかっているのです。

ユダはのちに自分の行なったことを悟り,イエスを裏切ったことに対して受け取った銀30枚を返すことをむなしく試みたのち,それらを神殿に投げ込み自殺しました。もしユダが良い事柄を成し遂げようと思って忠実に行動したのであれば,自分の奉仕に対して支払いを求めるようなことをしたでしょうか。十二人に諭しを与える際に,イエスは「あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」と述べて,金銭的な報いを期待せずに良い事柄を行なうという原則を強調しました。(マタイ 10:8)また,自分が何か有益なことを行なったと確信している人が,自殺することなどまず考えられません。事実ユダは祭司長に対して,「わたしは義の血を売り渡して罪をおかした」という点を認めさえしました。―マタイ 27:1-5。

他の使徒たちも裏切り者でしたか

この記事の冒頭で述べたスイス人の教授は,実際には他の使徒たちも有罪であると述べて,ユダの行為の重大さを軽く見ようとし続けました。同教授は,使徒たちがクリスチャンになるため,ユダヤ教にそむいたので,彼らもまた裏切り者である,と主張しました。それは事実ですか。

使徒たちはユダヤ人で,モーセの律法の下に生まれ,律法を守る義務がありました。どんな時にもイエスは,律法をないがしろにはされませんでした。イエスはこう言われました。「わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです」。(マタイ 5:17)イエスの死と復活ののちに,ユダヤ人がモーセの律法を守る義務はなくなるはずでした。(コロサイ 2:13,14)使徒たちは,神がイスラエルに与えた真の宗教にそむいたのではなく,進歩的な知識についてゆくよう努力していたにすぎません。

一方ユダは,確かにモーセの律法に対する不敬を示しました。律法は,ユダが盗人であることを決して見過ごしにしてはいませんし,その貪欲さ,わいろを受け取ったこと,無実の人間を裏切ったことなどを是認しているのでもありません。(出エジプト 20:15-17。申命 27:25)ユダヤ人の律法に対してさえ裏切り者となったのは,他の使徒たちではなく,ユダでした。

聖書はユダの思いを去来した事柄について,すべての詳細を明らかにしているわけではありません。ユダは政治的な野望を抱いており,イエスが地的な王国を樹立し,そこで自分が卓越した役割を果たすことができなかったことに失望したのだと言う人もいます。そうであったとしても,何らかの仕方で利己主義と貪欲が関係していたに違いありません。それはイエスの死の二日前に起きた出来事をみても分かります。その時,ラザロの姉妹であるマリアは,労働者の一年分の給料に相当する300デナリもする香油を,イエスに注ぎました。(マタイ 20:2)ユダは,香油を売って,その金を貧しい人々に施すべきだとして強く反対しました。ヨハネによる福音書は,「だが彼がそう言ったのは,貧しい者たちを気にかけていたためではなく,彼が盗人であり,金箱を持っていたが,そこに入れられる金を常々くすねていたからであった」と述べています。―ヨハネ 12:2-6。

聖書の明らかにするところによれば,ユダの人格は,彼が神の忠実なしもべから,利己的で貪欲な欺きに満ちた偽善者に変わったことを示しています。イエスがご自分の地上での最後の夜にユダについて「その人にとっては,むしろ生まれてこなかったほうがよかったでしょう」と言われたのはもっともなことです。(マルコ 14:21)聖書によれば,ユダ・イスカリオテを弁護する余地はありません。

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