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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
塔68 11/1 670–671ページ

読者からの質問

● 使徒パウロはかつて結婚したことがありますか。

聖書はこのことに直接触れていません。しかし,パウロの手紙から見て,彼がクリスチャン生活を送っていた間,やもめであったことが考えられます。

パウロがコリント人へ手紙を書いたとき,自分の使徒権を弁護したことばの述べ方はこの結論の根拠となっています。彼は,それまで使ったことのない,ある権利を所有することを指摘しました。一例として,パウロは兄弟たちの負担で食事をする権利があったにもかかわらず,彼らから個人的に経済上の援助を受けませんでした。(コリント前 9:4,11-15)同様に彼はこう言っています。「我らは他の使徒たち……のごとく姉妹たる妻を携ふる権なきか」。(コリント前 9:5)ある事柄をする権利があってもそれを使わなかったことを概略した際に,パウロがこのことばを語ったことは,当時彼が明らかに妻帯していなかったことを示しています。

パウロが男やもめであったと結論することに関して,コリント前書 7章8節の彼のことばに注目してください。「我は婚姻せぬ者および寡婦に言ふ。もし我が如くにして居らば,彼等のために善し」。このことばの直前で,パウロは結婚している人に助言を与えています。それから,既婚者に関係のある他の事柄を述べる前に,彼は「婚姻せぬ者および寡婦」に話を向けました。ここで「婚姻せぬ者」と訳されているギリシャ語のことばは,結婚していない人すべてに当てはまるのであり,結婚したことのない人と,結婚はしたがそのときには配偶者を失なっていた人を指しています。「寡婦」と訳されているキリシャ語の意味は明確で,以前結婚していた婦人を指しています。パウロがそのような人々に,彼と同じ立場を取るよう勧めていることから,パウロ自身が男やもめであったことは十分考えられます。

彼には結婚の経験があるという見解を支持する別の論もあります。たとえば結婚問題への彼の見識から見て,彼自身が結婚の経験者であったと論じる人がいます。あるいはそうかもしれませんが,パウロは霊感を受けて記述しているので,それは決定的な証拠にはなりません。―ペテロ後 3:15,16。

パウロは以前にサンヒドリンの成員であり,結婚していることがユダヤ人のこの最高法廷の成員となるために要求されていたという理由で,彼は結婚していたにちがいないと論じる人もいます。こう論じる人は使徒行伝 26章10節を指摘して,パウロはかつてサンヒドリンの成員であったことを確証しようとします。その聖句は次のように述べています。「聖徒たちを獄に閉じ込め……る時には,それには賛成の意を表しました」。(口語訳)しかし,彼がサンヒドリンの成員として実際に投票したのか,それとも単に ― 処刑を個人的に支持する旨を表明したのか,その点ははっきりわかりません。たとえ彼が成員だったにしても,成員になるための資格がいつも同じではなかったようです。あるときには,一人の妻と子供のある者だけが受け入れられましたが,パウロに子供があったことを確証するものは何もありません。そのように,サンヒドリンの成員になる資格に関して詳しくわかっていないので,彼が成員であったという仮定に基づいてパウロが結婚したことがあると論じるには根拠が不十分です。

ゆえに,聖書そのものに従うなら,パウロは一時は結婚していたかもしれないが,宣教旅行中には結婚していなかったと考えるのが妥当と思われます。

● ヨセフはマリヤとまだ結婚していなかった以上,マリヤが身ごもったことを知ったとき,どうして離婚を考えたのでしょうか。―アメリカの一読者より

このことに関して,マタイ伝 1章18,19節にはこう書かれています。「マリヤ,ヨセフと許嫁したるのみにて,いまだ偕にならざりしに,聖霊によりてみごもり,そのみごもりたること顕れたり。夫ヨセフは正しき人にしてこれを公然にするを好まず,ひそかに離縁せんと思ふ」。

モーセの律法の下では,婚約した女子は結婚することになった男子と法的には結ばれた者と見なされ,結婚した者として扱われました。このことは,独身の女を誘惑して犯した男は,もしその女の父が許せば,その女性と結婚しなければならなかった事実からわかります。しかし,男が婚約している女を犯したなら,二人とも石打ちで殺されました。(申命 22:23-29。出エジプト 22:16,17)同様に,結婚したイスラエル人の女で姦淫の罪を犯した者は,その女をけがした男とともに石打ちの刑に処されました。(申命 22:22。エゼキエル 16:38,40)しかし,石打ちの刑に際しては,罪状を確定するために,二人の証人が必要とされました。―申命 17:6,7。

さて,マリヤの場合,明らかにヨセフには,マリヤが不道徳をしたと証明する二人の証人がいませんでした。そのうえ,彼は事を無理に公にして,マリヤの不義を示す二人の証人を捜し出すのは不適当なことだと考え,その代わり,婚約を解消する道を選んだのです。アルフレッド・エダーシャイム博士はこう述べています。「婚約した時から,女子は実際に結婚した者のごとく取り扱われた。結婚関係は正式の離婚による以外解消できなかった」― 「キリスト当時のユダヤ人社会生活の概要」,148ページ。

そこでヨセフは,実際には婚約したにすぎなかったのですが,マリヤに離縁状を渡すこともできました。律法により,もし何かみだらな点が妻にあれば,夫は妻を追い出せました。(申命 24:1,2)イエスの時代には,その種の離婚を成立させる理由はいろいろありました。姦淫の罪が確認された場合,離婚によって事態の結末をつけることもできたようです。(マタイ 5:32; 19:9)しかしどんな理由に基づいて事を運ぶにしても,ヨセフは明らかに問題を公にしようとはしませんでした。むしろ『ひそかに離縁しようと思い』,マリヤに不当な恥をもたらすことなく合法的に事態を処理できるよう,恐らくただ二人の証人の前で離縁状を手渡すつもりだったのでしょう。

ヨセフが当惑していた事実を見のがすことはできません。彼は「正しき人」であって,マリヤが貞淑な婦人であることを知っていました。だが,マリヤの身ごもったことがはっきりしたのです。マリヤがいとこのエリサベツを訪問したのちに,マリヤの身ごもったことを知ったなら,ヨセフは天使がエリサベツに現われたこと,うまずめのエリサベツがヨハネを身ごもったこと,そしてマリヤがエリサベツに近寄った時,エリサベツの胎内で胎児が奇跡的に喜びおどったことについて,あるいは聞けたかもしれません。(ルカ 1:5-25,39-45)しかしそのことについて,聖書は何も触れていません。天使がヨセフに現われたからといって,何かのうわさによりマリヤの妊娠した理由をヨセフがすでに知っていたことを確証するものではありません。天使が訪れるまでマリヤの不義を証言する証人は一人もなかったため,ヨセフは,「正しき人にしてこれを公然にするを好まず」と聖書に述べられているとおり事を運ぼうとしたのです。―マタイ 1:19。

● ユダヤ人の祭司は宮で奉仕する際,頭にかぶり物をつけていたのに,使徒パウロが,後日,男は頭にかぶり物をつけるべきではなく,むしろ女がかぶるべきであると書いたのはなぜですか。

それら二つの指示はそれぞれ異なった取り決めの下にある事柄です。キリスト教の取り決めにおけるかぶり物に関して神の望まれる事柄をパウロが説明したのは,ユダヤ教の取り決めが,祭司,犠牲および宮における崇拝の制度とともに終わりを告げてからのちのことでした。(ヘブル 9:26)エホバは真の崇拝の手続きを変更する権利を持っておられると同様,だれがかぶり物をつけるべきかに関して変更することもできました。―ダニエル 4:35。

イスラエル人の祭司が頭にかぶり物をつけるのは,自分勝手に決める事柄ではなく,神の命令による事柄でした。大祭司は特別の頭巾をかぶらねばなりませんでした。そして,「エホバに聖し」という文字の彫り込まれた小さな金の板がその頭巾の前に着けられ,頭巾をかぶると金の板が大祭司の額の上に置かれるようになっていました。(出エジプト 28:4,36-38)従属の祭司たちは少し違う形の頭巾をかぶりました。(出エジプト 28:40)いずれの場合でも,かぶり物はエホバへの服従のしるしであり,「ほまれと栄光」を表わしました。(出エジプト 28:2,40)このように,祭司たちは彼らの神で律法の与え主であられる方に対する従順のゆえに,かぶり物を頭につけたのです。

しかし使徒パウロはクリスチャン会衆における正しい秩序を説明し,クリスチャン会衆において,普通男子が行なうべき祈りや預言を女が行なう場合,頭にかぶり物をつけるべきであると述べました。会衆内で男子の補佐のしもべがかぶり物をつけるのはふさわしい事ではありません。それは,男の頭であるキリストをはずかしめることです。(コリント前 11:3-16)しかし,ここに問題の相違があることに注目してください。ユダヤ教の取り決めの下では,女性は宮や幕屋で祭司の務めを行なわなかったので,男女を区別する必要はありませんでした。ところがクリスチャン会衆においては,男も女も奉仕できます。それでパウロは霊感の下にクリスチャン婦人はある状況の下では,「御使たちのゆえによりて頭に権のしるしを戴く」べきであると適切に指摘したのです。一方,キリストを直接代表する男子はかぶり物をつけずに奉仕することになりました。

ユダヤ教の祭司制およびキリスト教体制のいずれにおいても,かぶり物は服従のしるしでした。しかし,クリスチャン会衆で奉仕する婦人が頭にかぶり物をつけることには,二つの理由があります。それによって,婦人はキリストに対する会衆の服従を表わし,また,かぶり物をつけることにより,神の取り決めにおける男の頭の権を認めました。―コリント前 11:8,9。エペソ 5:21-24。

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