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  • 山上の垂訓 ― 六番めから九番めまでの幸い
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1978
塔78 6/1 28–30ページ

山上の垂訓 ― 六番めから九番めまでの幸い

イエスは山上の垂訓の六番めの「幸い」を次のように述べられました。「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです」― マタイ 5:8。

「心の純粋な人たち」とは内面的に清い人々のことです。それらの人々の愛情や欲望,認識や動機などは純粋なものです。それは,単なる外面的な,あるいは儀式上の清さとは著しく対照的です。(マタイ 23:25-28。マルコ 7:3,4)聖書は,敬虔深そうな様子を誇示するのではなく,「清い心と正しい良心と偽善のない信仰とから出る愛」を示すよう勧めています。―テモテ第一 1:5。

心の純粋な人たちは,とりわけ「神を見る」ので幸いを享受します。それは必ずしも,人間の目で文字通り神を見ることを意味するわけではありません。『人は,神を見てなお生きていることはできない』からです。(出エジプト 33:20,新。ヨハネ 1:18。ヨハネ第一 4:12)しかし,地に住む,正しい動機を持つ崇拝者たちが,現在「神を見る」ことのできる方法がほかにあります。例えば,忠誠さを示した人のために神が行動を取られるのを観察することは,「神を見る」一つの方法です。(ヨブ 19:26; 42:5)崇拝のためにエルサレムの神殿に行くことは,人が「エホバの顔を見るために」,あるいは神の前に姿を現わすために行くこととして述べられています。―出エジプト 34:24,新。申命 31:11。イザヤ 1:12。

マタイが用いた「見る」というギリシャ語には,「思いで見る,知覚する,知る」という意味があります。イエスは神の性格を完全に反映されたのですから,次のように言うことができました。「わたしを見た者は,父をも見たのです」。(ヨハネ 14:7-9)イエスをメシアとして受け入れイエスに聴き従った人々は,神の性格を深く知ることができました。それらの人々は,罪を贖うイエスの犠牲に信仰を働かせることにより,罪を許され,神との関係に入り,神のみ座の前で是認される崇拝をささげることができました。(エフェソス 1:7)そのような意味で神を知るということは,霊により油そそがれたクリスチャンの場合,天に行く時にその最高潮に達します。彼らはそこで実際に神とキリストを見るからです。―ヨハネ第一 3:2。コリント第二 1:21,22。

しかし,正確な知識と真の崇拝によって神を見るという機会は,心の純粋な人々だけのものです。罪をならわしにする者は,神とみ子を見たことがなく,また知るようになったこともない,と聖書は示しています。「悪を行なう者は神を見たことがありません」。―ヨハネ第一 3:6。ヨハネ第三 11。詩 24:3,4。

「平和を求める人たち」は神の子となる

イエスは山上の垂訓の七番めの幸いについてこう述べられました。「平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」― マタイ 5:9。

「平和を求める人たち」は,彼らが避けるもの,またならわしにするものによって明らかになります。平和を求める人々は,攻撃的でも好戦的でもありません。また,不当な扱いを受けても悪に悪を返したりもしません。(ローマ 12:14-21)しかし,それらの人々の性格には積極的な面もあります。

平和を求める,というギリシャ語には「仲裁人」という意味があります。平和を求める人々は,穏やかに振る舞うだけでなく,めんどうを忍んで,争い合う人々の間に平和と一致を確立することもします。それらの人々は,『親密な者たちを引き離す』ような事柄に加わったり,そうしたことを大目に見たりしません。(箴 16:28; 17:9,新)そして,言葉と模範とによって,クリスチャン会衆の内外で平和を求めるよう励まします。―ローマ 14:19。ヘブライ 12:14。

平和を求める人々は,『「神の子」と呼ばれるので』幸いです。それらの人々は,神の子としての神との親密な関係を享受します。しかし,この関係を保ち続けるには,神の性格の特質に倣わねばなりません。それには平和を求めることも含まれます。(コリント第二 13:11。フィリピ 4:9。テサロニケ第一 5:23。ヘブライ 13:20。ヤコブ 3:17)仲間に対して愛を示さず敵意を抱き続ける人は「神から出ていません」― ヨハネ第一 3:10。

イエスの時代のユダヤ人たちは,自分たちは神によって造られた人間なのだから神の子だと信じていました。(イザヤ 64:8)しかしイエスは,たとえ彼らがアブラハムの生来の胤であっても,その考えが正しくないことを示されました。(ヨハネ 8:39,41)事実,ある人々に向かってイエスはこう宣言されました。「あなたがたは,あなたがたの父,悪魔からの者で(す)」。(ヨハネ 8:44)全人類は,地的な「神の子」として創造されたアダムから罪を受け継いでいるので,自動的に神の子としての関係に入れるわけではありません。―ローマ 3:23; 5:12。ルカ 3:38。

イエスをメシア,また罪の担い手として受け入れる,平和を求める人々だけに『神の子どもとなる権限が与えられました。その者たちが,彼の名に信仰を働かせていたからです』。(ヨハネ 1:12。イザヤ 53:12。ペテロ第一 2:24)りっぱな羊飼いイエス・キリストの,平和を求める「ほかの羊」の「大群衆」は,千年王国の間,イエスを「とこしえの父」としていただくでしょう。しかし,その終わりにイエスは,神の子たちとなるようそれらの人々をご自身の天の父に返されます。―啓示 7:9-17。ヨハネ 10:14-16。イザヤ 9:6,新。コリント第一 15:27,28。

迫害されても幸い

イエスはこの一連の話の中の八番めの幸いについて次のように言われました。「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(マタイ 5:10)イエスはこの点についてさらに詳しく述べながら,九番めの幸いについて語られました。「人びとがわたしのためにあなたがたを非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなたがたに言うとき,あなたがたは幸いです。喜び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいからです。人びとはあなたがたより前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」― マタイ 5:11,12。ルカ 6:22,23と比べてください。

「迫害されてきた人たち」とは,「義のために」あるいは「人の子のために」非難や中傷を受けたり追放されたりしてきた人々のことです。それらの人々が苦しみに遭うのは,エホバを崇拝し,イエス・キリストの名を担い,イエスの歩みにしっかり従うためです。―ペテロ第一 2:19-21。

喜ぶ理由としてここで挙げられている事柄は,「天の王国はその人たちのもの」という,最初の幸いの中で述べられている理由と同じです。(マタイ 5:3と比べてください。)それが,非難を受けたり地域社会からのけ者にされたり,またある場合には死をさえ意味するとしても,クリスチャンは,神の天の王国でキリストと共に支配する「喜び」,あるいは王国の地上の臣民として完全な人間の命を享受する喜びが,それを補って余りあることを知っています。―マタイ 25:21,23。ヘブライ 12:2。啓示 21:1-5。

この『天での報い』(つまり神からの)は,なされた仕事に対して受け取る賃金といった意味においてではありません。いかなる事情の下であろうと,罪深い人間が神の恵みを報酬として獲得したり,自分たちを祝福する義務を神に負わせたりすることはできません。(ガラテア 2:16。ヤコブ 2:10)王国の祝福という報いは,「言いつくしえぬ無償の賜物」,つまり神の深い思いやりと寛大さの証拠です。(コリント第二 9:15。ヤコブ 1:16-18)それは,神への破れることのない献身ゆえに,非難や迫害,また自分たちに対して言われる邪悪な偽りなどに忠実に耐えたことに対して,クリスチャンに与えられる報いです。

イエスはまた,これら最後の二つの幸いと対照をなすものとしてこう言われました。「災いです! すべての人があなたがたのことをよく言うときには。そのようなことは,彼らの父祖が偽りの預言者たちに対して行なったことなのです」。(ルカ 6:26)古代イスラエルの「偽りの預言者たち」は,神の真理を宣明するのではなく,人々が聞きたいと思っていた事柄を語り,人々は『それを愛しました』。(エレミヤ 5:31,新)しかし,そうした人気は,決して神の恵みを示すものではありませんでした。エホバ神の是認は,神のみ言葉と一致して語り行動する人々の上にだけあります。(詩 15:1,2)しかし,そのようにする人々は迫害を予期しなければなりません。イエスがこう言われたからです。「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなたがたをも迫害するでしょう」― ヨハネ 15:20。

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