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謝罪は弱いしるしですかものみの塔 1961 | 9月15日
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謝罪は弱いしるしですか
謝罪ということについては,非常に異なった見方があります。「賢明な人で謝罪した者はひとりもいない」と言った作家のように,ある人はそれを弱さと見ます。また他の作家は,「謝罪は,その人の品格を高める」という意見をもっています。クリスチャンは謝罪をどのように見ますか。「ウエブスター新国際辞典」によると,謝罪とは,「誤まった,または侮辱的な言動のつぐのいを意味する自白。悪いことまたは失礼なことをしたことを相手に白状し,悔い改めたことを表わすこと」となっています。
ところで,人間関係においてはまちがっていたことを認めるという問題を,神はどのように見られるでしょうか。神がよしとされることは正しい道です。
まず,つぎのことを認めなければなりません。すなわち,クリスチャンが神にゆるしを祈り求めることは,結局神におわびしているということです。人間関係においてはクリスチャンは,イエス・キリストの定めた指導原則に従います。彼はこう言いました,「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」。(マタイ 7:12,新口)何か悪いことをされた時,その悪いことをした人が自分のところにきてわびるなら,どんなにかうれしいことでしょう。そのような謝罪は,どんなにか平和な関係をとりもどすことでしょう! 行いを悔いた人に対して,無礼なこと,悪いことをされるまえよりも,もっと親しみを感じるようになるのはしばしばあることです!
それで,ある行為の価値を認めるなら,自分もそれと同じ親切を他の人に示すべきではないでしょうか。これは,愛とけんそんさの問題です。私たちが隣人を愛するなら,自分にしてほしいと思うことを隣人にもします。もしあやまちを犯したなら,愛の心をもって,イエスが正しいこととしてすすめた道をとるべきです。けんそんさも関係があります。人にわびるにはけんそんでなければできません。誇りは障害物です。誇りの高い人は,自分がまちがっていたことが分かっていても,わびにくかったり,とてもそんなことはできないと思います。
イエスは他の聖句の中で,あやまちを犯した者が,わびるのは正しい行いであることを示しました,「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,彼をいさめなさい。そして悔い改めたら,ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し,そして『七度悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば,ゆるしてやるがよい」。(ルカ 17:3,4,新口)あやまちを犯した者が,感情を害した兄弟のところへきて,「悔い改めます」という言葉で示されているようにあやまったなら,その人をゆるさねばなりません。クリスチャン会衆の中の平和と一致のために,あやまちを犯した者を愛をもってゆるさねばならないのと同じく,謝罪ということも同じ理由のためになされねばなりません。
最高の神は,平和と一致ということを非常に重要視しておられます。このことは,マタイ伝 5章23,24節のイエスの次の言葉から確かです,「だから,祭壇に供え物をささげようとする場合,兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを,そこで思い出したなら,その供え物を祭壇の前に残しておき,まず行ってその兄弟と和解し,それから帰ってきて,供え物をささげることにしなさい」。
ここでイエスは,ユダヤ人が宮の庭にささげ物をもってきて,祭司がそれを受け取りにくる時を待つ習慣について述べています。ささげ物をもってきた者は,祭司がそれを受け取って殺し,犠牲の祭壇にささげられるまで待ちました。これは,イスラエル人が身を投げ出して神のあわれみを請い,その犠牲を通して神のゆるしを求める厳粛なしゅん間で,この時には,兄弟との間にどのような問題も残っていてはなりませんでした。もし兄弟になにか悪いことをしたのを思い出したら,どうすべきだったでしょうか。『このささげ物を神にささげたら,さっそく兄弟のところへ行って,おわびをしよう』といってもよかったでしょうか。そうではありません。つぎのことをするまえに ― つまりささげ物をそなえるまえに ― ささげ物を祭壇のまえに残しておいても,先ず和解を求めるべきでした。兄弟と和解しないなら,どんな犠牲をささげても,クリスチャンと神との間に平和はありえないことをイエスはその時示されたのです。
クリスチャンはこれから何を学ぶべきですか。神と和解するということは,目に見える神の会衆のメンバーと和解しなければならないということです。ですから,クリスチャンとクリスチャンの兄弟たちとの関係は,全能の神とクリスチャンとの関係を表わします。まず神の地上の制度と和解しなければ,神と和解することはできません。ですからイエスの助言はすこぶる明確で,エホバ神の制度およびそのメンバーすなわちクリスチャンの兄弟たちと和解せよということです。兄弟たちと和解し,それによって神と和解するには,問題を清算する必要のある時があります。そしてそれには,必然的に謝罪が必要となるでしょう。
では,どうして,あやまることを弱さのしるしと見ることができるでしょうか。もし人が,神の霊をもち,愛,けんそん,平和,一致に関する神の要求を理解しているなら,そのような見方はできません。
心からの謝罪は,弱さどころか,強さのあらわれです。神の御言葉は述べます,「怒れる兄弟はかたき城にもまさりて説き伏せがたし,兄弟のあらそひはやぐらの貫木のごとし」。平和,一致,親しい関係をはばむこの強い障害物は何によって取り除かれますか。誇りや,誇りを態度に表わすことによって,問題が解決するでしょうか。それはありえません。しかし,親しい関係の再現をはばむ,城の鉄の貫木のように強い障害物を除くに十分の力をもつものがあります。それは謝罪です。
また,公平と正義という問題もあります。心から出た謝罪は,義ということを心にかけていることを示します。兄弟と不和の間柄である時に神にささげる犠牲が無価値であるのと同じく義を行なわない者のささげる犠牲も無価値です。神聖な規則は,「正義と公平を行ふはいけにへよりもまさりてヱホバによろこばる」です。(箴言 21:3)行なったかも知れない悪い事に対して謝罪をする人は,正義という問題に対して正しい考えをもっていることを示します。
多くの俗人の意見とは反対に,謝罪は弱さのしるしではありません。それは,一致をはばむ障害を打ちくだく力であり,義を行なっている一つのしるしです。愛とけんそんさで満ちた心をもつ人は,謝罪の力から益を受けます。
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風紀の代りに建物ものみの塔 1961 | 9月15日
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風紀の代りに建物
「現代の宗教は,信仰の強さと『きびしさ』を『肉体の柔弱と快楽」という祭壇の上に犠牲にしてしまつた。……とニューヨークの一ラビは語つている。……ウイリアム・エフ・ローゼンブラム博士は,「教会とユダヤ教会堂の熱烈なる欲望」を評して,『霊のことを重んずる品位ある人々』の育成のかわりに荘大な建物の建築に熱を入れていると評した。『人々の風紀に気を配ることを怠って,荘大な建物のために富と精力を浪費した国民はおとろえ,多くの場合滅びた。これは歴史の教える明白な教訓である』。」― 1960年10月2日付ニユーヨーク・タイムズ。
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