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賢人はどんな意味で述べたかものみの塔 1977 | 12月15日
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に関する真理を,人は理解できないことを悟った。彼はそれを得ようと努め,そのために昼も夜も眠らずに捜し求めるが,それを見いだすことはの決してない。賢人はその秘密を見付けると考えるかもしれない。しかし彼でさえそれを見いだすことは決してない」― 伝道 8:16,17。
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キリストの頭の権から益を得るものみの塔 1977 | 12月15日
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キリストの頭の権から益を得る
どんな人あるいはグループの人々でもなくてイエス・キリストのみ,クリスチャン会衆の頭です。イエスはこの誉れを勝手にご自分のものにしたのでもなければ,人々の同意によってそれを得たのでもありません。ほかならぬイエスの父が彼にそれを賜わったのです。エフェソスにいる仲間の信者に書き送った言葉の中で使徒パウロは,神が「会衆に対して彼をすべてのものの頭とされました」と述べています。―エフェソス 1:22。
イエス・キリストが会衆に対して頭の地位を占めるのは全く正しいことです。イエスの教えと生涯,とくに彼の犠牲の死は,会衆の存在そのものの基礎をなしています。イエス・キリストを離れて会衆の成員となることのできる人はひとりもいません。イエスはこう語られました,「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」― ヨハネ 14:6。
キリストの頭の権は果たして圧制的なものですか。それとは正反対です。人間として地上を歩まれた時にイエスが事を行なわれた仕方は,その権の行使が愛と憐れみに富んだものであることを証明しています。イエスは難しい事柄を根気よく弟子たちに説明し,彼らの理解力を超えたものを与えて困らすようなことはされませんでした。イエスは弟子たちの必要とするものを愛情深く顧み,彼らが必要な休息やプライバシーを得られるように努めて取り計らわれました。「食事をする暇もなかった」ある時に,イエスは弟子たちに告げてこう言われました,「さあ,あなたがたは自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」。(マルコ 6:31)遂にはイエスは弟子たちのためにご自分の命を与えることをされました。イエスご自身語られたように,「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」― ヨハネ 15:13。
イエス・キリストの頭の権の行使には,弟子たちに不信を抱いていたことを思わせるものは全くありません。弟子たちがイエスの父の業と意志を行なうのを望んでいることを信じたイエスは,そうした信頼を表明されています。例えばイエスは次のように言われたことがあります。「わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかもそれより大きな業をするのです」― ヨハネ 14:12。
この言葉を聞いた弟子たちはなんと心強く感じたことでしょう。個人として見れば,イエスの弟子のだれにせよ,その業は,彼らの主の成し遂げた事柄にとうてい及びません。それでも全体として見れば,彼らはイエスよりも大きな業を成し得たのです。神の定めの時に,彼らはイエスが宣べ伝えたユダヤ,ガリラヤ,ペレアを越えてはるか遠くにまで「良いたより」を携えることができました。彼らは,イエスが3年半にわたる地上の宣教期間に弟子としたよりもはるかに多くの人々を弟子にすることにあずかって力がありました。イエスが真の弟子たちを信頼したことは,少しも誤っていませんでした。
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