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  • 「互いの間で平和を保ちなさい」
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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「互いの間で平和を保ちなさい」

「あなたがた自身の中に塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」― マルコ 9:50。

1 一緒に仕事をするグループのメンバーが互いに平和を保つのはなぜよいことですか。

一緒に仕事をしているグループのメンバーが互いに平和を保つのは,どんな場合でも良いことです。口論,対抗意識,不一致などは,彼らに任された共通の事業を危険にさらす恐れがあります。互いの間でくり広げられる凶器なしの「冷い戦争」は,全員が敗北する結果になりかねません。逆に互いの間に平和があると,仕事がうまくいってみんなが勝利者になり,利益を得,幸せになる,という結果を生むでしょう。

2 「互いの間で平和を保ちなさい」と言ったのはどんな教師でしたか。

2 チーム仲間,社会の成員,夫婦,家族などが,「互いの間で平和を保ちなさい」という言葉に従うなら,益を受けることはまちがいありません。この言葉を口にしたのはだれでしたか。それは,最後に世界平和が訪れることを見通していた,遠い昔のある教師でした。その教師はどこかの学校または大学の教室に閉じこもるようなことをせず,実際に野外に出て人々と交わり,個人的に,また公開の集まりで,人々を教えました。教科書としては,聖なる書物を集めたもの,すなわち彼の母国語であるヘブライ語で書かれた霊感による聖書を用いました。彼の教えは19世紀以上存続して今日に至っており,千を上回る言語に翻訳されています。以上の事実から,この有名な教師が,仏陀でも孔子でもなく,ダビデ王の「子」,族長アブラハムの「子」,イエス・キリストであることは明らかです。

3 互いの間で平和を保つようにイエスから言われたのはだれでしたか。それはなぜ驚くべきことですか。

3 イエス・キリストが,あなたがたの間で平和を保ちなさい,と告げなければならなかった相手はどんな人々だったのでしょうか。驚いたことにそれは選ばれた人々のグループで,旅をしながら教えるイエスに二年以上も同行していた人々でした。イエスはこの12人のグループをご自分の使徒として指名しておられました。「使徒」という語は「遣わされた者」を意味しますから,この指名によって,イエスが彼らを選ばれた目的が示されました。彼らはイエスのように教える者となる人々でした。そしてイエスは,彼らを自国の国境の向こうにまで遣わして,諸国民をご自分の弟子とすることを意図しておられました。イエスのお考えは,ご自分の弟子たちの世界的会衆を組織することでした。使徒たちはその会衆の土台石のようになることになっていたのです。

4 使徒たちは平和に関するイエスの教えをすでによく知っていたのに,なぜまた平和に関するこの助言が与えられたのですか。

4 平和の問題に関するイエスの教えに使徒たちは精通していました。前の年に彼らは,ガリラヤの海にほど近いところで,イエスの有名な山上の垂訓を聞いていました。その中でイエスはある幸福について語られました。その一つは,「平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」というものでした。(マタイ 5:9)ではなぜイエスは海辺の町カペルナウムで,このえり抜きの弟子たちのグループに,「互いの間で平和を保ちなさい」と言わずにいられない気持ちになられたのでしょうか。(マルコ 9:50)なぜ最も親密な仲間に今さらそのようなことを言われたのでしょうか。この助言を与えざるを得ない何事かが起きていたにちがいありません。共通の目的を果たすのに不利となる何事かが互いの良い関係を損なっていたのにちがいありません。イエスがその鋭い言葉を出された理由を知るには,その時のことが記述されているマルコの福音書第9章に戻る必要があります。そうすれば,使徒たちに対するイエスの言葉が今日のわたしたちにとっても良い助言である理由が分かります。

5 カエサレア・フィリピに近い高い山の上でどんなことが起きましたか。またその後,悪霊につかれたどんなケースが処置されましたか。

5 イエスとその使徒たちは,北部のカエサレア・フィリピのあたり,つまり南流してガリラヤの海に注ぐヨルダン川の上流に近いところにいました。そこではイエスは,アンティレバノン山脈のヘルモン山と思われる高い山の上で,奇跡的な変ぼうを経験されました。その変ぼうは,定めの時にイエスが神の王国において受けることになっていた未来の栄光をかすかに示すものでした。使徒のペテロ,ヤコブ,それにヨハネだけが彼らの師のその変ぼうを見ました。山を下りたときにイエスは悪霊につかれた者にお会いになりました。その者は,イエスがいなかった間,他の九人の使徒がいやせないでいた者でした。その苦しむ少年のために必死になっていた父親の頼みで,イエスは特別にがん強な悪霊を追い出されました。こうして,イエスに対するその父親の信仰は大いに報いられ,強められました。―マルコ 9:14-29。ペテロ第二 1:16-18。

6 カペルナウムに着いた後,使徒たちはイエスの質問にどのように反応しましたか。

6 そのあたりから南に下ってガリラヤを通りカペルナウムの町に行くまでの道のりはおよそ40キロでした。イエスと十二使徒は,イエスが本拠にしておられた都市,そのために「ご自身の都市」と呼ばれるようになっていた都市に向かって,彼らだけで静かに歩いていました。(マタイ 9:1)その海辺の町まで徒歩で行く途中でどんなことが起きたか,マルコの福音書の記述から推測することができます。その内容は次の通りです。「それから彼らはカペルナウムにはいった。さて,家の中におられた時,イエスは彼らにこう質問された。『あなたがたは途中で何を議論していたのですか』。彼らは黙っていた。途中で彼らは,だれのほうが偉いかと,互いに議論したからであった」― マルコ 9:33,34。

7 彼らの議論には当然王国の事柄が関係していましたが,それはなぜですか。

7 道中,使徒たちが彼らの指導者イエスの後ろを歩いていたことは明らかです。それでもイエスは彼らの間に議論が持ち上がったこと,しかも興奮して議論していたことをなんらかの方法で見抜いておられました。その論争が弟子たちの間で解決するようにイエスが心を配られたのは正しいことでした。この問題を取り上げられたときの様子から推すと,イエスは弟子たちの議論の的になっていた事柄をご存じのようでした。マルコ 9章30-32節によると,彼らはイエスが以前自分たちに話しておられたことから,自分たちの指導者にかかわる物事が頂点に達しようとしていることを知っていました。彼らはイエスがメシアであること,将来イスラエルの王となる方であることを信じていました。王国に関するたとえ話をイエスが数多くされたのを聞いていました。また,高い山で変ぼうされる直前にイエスが十二使徒全部に対して,「あなたがたに真実に言いますが,ここに立っている者で,神の王国が力をもってすでに来ているのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」と言われたのを聞いていました。―マルコ 9:1。

8 その事に関連してなぜ使徒たちは互いに自分を他と比べることに夢中になっていましたか。

8 使徒たちはメシア王国が早く樹立されることを望むと同時に,自分たちが指導者と共に働くその王国における自分たちのそれぞれの公の地位について考える理由を有していました。ついでに言えば,政治に関心を持つ人は,自然の傾向として,対立候補もしくは競争相手の候補者たちよりも自分のほうを立派な人物に見せようとします。それと同じく,使徒たちも互いに自分を他と比較するようになりました。議論は,だれがこの地位またはあの地位に最もふさわしいかということだけでなく,だれがメシアご自身に次ぐ最高の地位につく資格があるか,という点をめぐってなされました。

9 イエスの質問にどの使徒も答えなかったのはなぜですか。

9 それは,だれがメシアの真価を最も深く認識しているか,したがって王国においてメシアの最も近くにいることを望んでいるか,ということではなかったのです。だれがメシアに次ぐ最高の位を望んでいるかという問題だったのです。不完全な人間の間でそのような議論が行なわれるとき,そこに入り込むのは利己心以外の何ものでもありません。野心を抱いていた使徒たちが,「あなたがたは途中で何を議論していたのですか」とイエスに聞かれたとき,「黙っていた」のも不思議ではありません。使徒たちは自分たちのしていた議論がどんなおほめにあずかる価値もないことを感じていました。自分たちがこの問題において,利己的で,自己本位で,いかに自負心が強いかを示していたことを感じていました。それで彼らのうちイエスの問いに答えた者はひとりもいませんでした。

10 その問題の取り上げ方によってイエスは何を明らかにされましたか。またどんな支配的原則を述べられましたか。

10 しかしイエスはだれの告白も必要とされませんでした。使徒たちの意味深長な沈黙は,彼らがきまりの悪い思いをしていること,恥ずかしく思っていることを示していました。しかし,人々が何を考えているかをある程度理解し得たイエスは,彼らの議論の根拠,問題になっている点が何かを見抜いておられました。イエスがそれに気づいておられたことは,その問題の処置の仕方に示されていました。「そこでイエスは腰を下ろし,十二人を呼んでこう言われた。『第一でありたいと思うなら,その人はみんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者とならねばなりません』」。(マルコ 9:35)この言葉によってイエスは,ご自分の王国における,地位に関係した問題を支配する原則がどんなものであるかを明らかにされたのです。

11 したがって,イエスの王国でイエスに加わる人々は,どんな点で,この世の王国の政治家とは異なっていなければなりませんでしたか。

11 イエスの王国はこの世の王国とは異なったものになります。この世の王国では政治家は利己的な野心に動かされます。また,目指す地位につくと他の人々に奉仕するよりも奉仕させる傾向があります。この種の行為は,尊大な気持ち,謙そんさの欠如を無意識に表わすものです。イエスご自身はそのような気質を示されませんでした。イエスの王国でイエスに加わることになっていた弟子たちは,イエスと同じ精神態度を示さねばなりませんでした。そういう理由から後に使徒となったパウロは,将来天の王国の相続者となる見込みのある人々に手紙を書き,次のように述べたのです。「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなど考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」― フィリピ 2:5-8。

12 イエスはご自分が使徒たちに述べられた支配的原則をどのように実例によって示されましたか。

12 イエスにとっては,これは『みんなの最後となり,すべての者に対して奉仕者となる』ことではありませんでしたか。人間の側の謙そんさの模範としてこれ以上立派な模範がありうるでしょうか。しかしイエスは,そういう低い立場を取り地上での命を犠牲にすることになる奉仕の務めを行なうことによって,全創造物の中の第一の地位を報いとして与えられたのです。神のみ子はこうして高められて,創造者ご自身に次ぐ者となられました。そのことは,イエスが天の父,至高の神と同等になるよう強い取ることなど全くお考えにならなかったことと一致します。イエスがそれをされなかったのは,一つには,それが成就しがたいものであることをわきまえているだけの良識を持っておられたからです。―詩 148:13。

13 イエスの支配的原則によると,会衆内で最も貴重な成員になるのはどんな人ですか。なぜですか。

13 このようにイエスは,ご自分が使徒たちに示した原則に対してご自分を例外とするようなことはされませんでした。天の王国でご自分に加わる者たちが見倣えるように,身をもって完全な範を垂れたのです。事実,イエスの王国の地的臣民となる人々もすべて,イエスの謙そんさと有用さを見倣わねばなりません。では真の価値と重要さについて言えば,会衆内で第一位を占めるのはだれでしょうか。それは,どんな種類の奉仕でも引き受けて行なうほどに謙そんな人,また他のすべての人に仕えることに努める人ではないでしょうか。だれにせよもし利己的な気持ちで第一になろうと思うなら,その人は会衆内のすべての人に対するあらゆる種類の奉仕を行なうために身を低くするようなことはしないでしょう。すべての人に,最も目立たない仕事をしてでも進んで仕えるためには,自分を会衆内で「みんなの最後」にある者とみなさねばならないでしょう。しかしそれによってその人の本質的な価値が下がるわけではありません。例外なしにすべての人に奉仕するので,その人は最も貴重な成員になります。

14 なぜそういう有用な人はみんなの中で事実上「第一」ですか。

14 ですから,その謙そんで有用な人がやむをえず欠席するようなことがあると,非常に寂しく,その人の奉仕のないことが感じられるでしょう。有用さを尺度にして評価するなら,その人は地位の上では第一でないにしても,実際にはすべての人の中で「第一」の人でしょう。もしわたしたちが神の目にそのように評価されるとすれば,そのことのほうが,この世の高位の人々の間で自分がどう評価されるかということよりもはるかに重要です。

キリストの名によって他の人を迎える

15 イエスは,人が他の人を迎えることにつき,幼い子供を例えに用いてどのように話されましたか。

15 外見がどんなに劣っているように見えても,そういうことにかかわりなく他の人々に思いやりを示すということは,互いに仲良くやっていく上で重要な役割を果たします。この点を強調するためにイエスは例えを示されました。イエスがそれをどのように示されたかは,マルコ 9章36,37節に次のように記述されています。「そしてひとりの幼子を連れて来て彼らのまん中に立たせ,両腕をその子にかけて,彼らにこう言われた。『だれでも,わたしの名によってこのような幼子ひとりを迎える者はわたしを迎えるのです。そして,だれでもわたしを迎える者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです』」。

16 イエスはナザレのご自分の家の中でも,子供への愛をどのように表わされましたか。

16 イエスが幼い子供たちを愛しておられたことを示すケースが幾つか記録に残っています。イエスはご自身の地上の家族の長男でしたから,ガリラヤのナザレで,年下の異父弟(ヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダ)や二人かそれ以上の異父妹の世話をするのに,多くのことをしなければならなかったに違いありません。(マタイ 13:53-56)イエスは,その兄弟たちが不完全であり欠点を抱えているからといって彼らを軽べつするようなことはされませんでした。また,家族を養う手助けをせずに兄弟たちをつまずかせるようなこともされず,腕のたつ大工として勤勉に働かれました。(マルコ 6:3)イエスは子供たちの無邪気な性質と,成人した人々にある子供のような特質の評価の仕方を学ばれ,子供をうまく用いて例えを話されました。

17 自分が近づきやすい者であるかどうかの問題に関連して,子供のような人々に関しどんな質問が生じますか。

17 仕事に没頭しているときには子供にわずらわされたくないかもしれません。自負心の強い人,あるいは自分の責任ある地位の重みと威厳を感じている人は,あどけない子供たち,または子供のようなおとなたちに注意を向けるのは,自分のような偉い者のすることではない,と考えるかもしれません。しかし,もし子供のような人がクリスチャンであるなら,あるいはクリスチャンになりたいと思っている総明な人であるなら,どうでしょうか。すでにキリストの弟子であるわたしたちは,自分をその人たちが近づきやすい状態にするでしょうか。またその人たちの必要によく気を配るでしょうか。

18 そのように迎える人はなぜイエスをも迎えることになりますか。

18 もし子供のような人たちを助けようとしないなら,わたしたちは大きな特権と祝福を失うことでしょう。イエスの使徒たちのような円熟したクリスチャンたちが,新しくバプテスマを受けたクリスチャン,つまりひゆ的に言ってイエスが腕に抱いて例えにお使いになった幼い子供のような人たちを迎えようとしないなら,彼らはイエスご自身を迎えていないことになります。なぜそうなりますか。なぜならイエスは,だれでも「このような幼子ひとり」を迎える者はイエスをも迎えるのである,その人は「[イエス]の名によって」そうするからである,と言われたからです。これは次のことを意味します。つまりイエスはそれをあたかもご自分がメシアすなわちキリストとして迎えられたかのようにみなされるということです。その逆もまた真です。

19 子供のような人をそのように迎えることは,だれとの関係に影響しますか。なぜですか。

19 人を謙そんにする仕事を,「[イエス]の名によって」,つまりイエスの名を重んじて行なうなら,それによってその仕事はより容易に,より気持ちよく行なえるようになります。その行為の動機は高潔です。さらに,その行為はわたしたちとイエス・キリストとの関係のみならず,イエスの天の父との関係ともかかわりを持ちます。そのことは,イエスがつけ加えられた次の言葉に示されています。「だれでもわたしを迎える[すなわち「このような幼子ひとり」を迎えることによって]者は,わたしだけでなく,わたしを遣わしたかたをも迎えるのです」。(マルコ 9:37)メシアとなるべくイエスを地に遣わしたのは,イエスご自身の天の父エホバ神でした。イエス・キリストとその天の父を引き離して考えることはできません。おふたりは目的において,また活動において一つですから,密接な関係にあります。したがって,人がみ子に対して行なうことをエホバ神は自分に対しても行なわれたこととして受け取られます。そういう待遇をご自分が受けたかのごとくに受け入れることを,そういう待遇をした人を祝福することによって示されます。

20 この原則は,わたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際にどのように当てはまりますか。王国にあずかるためにはどんな性質が必要ですか。

20 これはわたしたちが仲間のクリスチャンを扱う際に覚えておかねばならない重要な原則です。聖書を理解する点で,あるいは会衆の成員という点で,いわば「みどりご」のような人々を扱う場合には取りわけ重要です。使徒ペテロは,霊感によって第一の手紙を書いたとき,それを受け取る人々に次のように述べました。「生まれたばかりの幼児のように,みことばに属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを培い,それによって成長して救いに至るようにしなさい。ただしこれは,主が親切なかたであることを味わい知っているならばです」。(ペテロ第一 2:2,3)わたしたちはこの「生まれたばかりの幼児」のような人々と「みことば」を分かち合うことができます。それは彼らが成長して救いに至り,円熟したクリスチャンとしてその立場を保持するようになるためです。したがって,自分が近づきやすい者であることを示し,「[キリストの]名によってこのような幼子ひとりを」進んで迎える人は,自分自身が子供のようであることを示すのです。彼らがそういう者であることは,どの部分であろうと王国にあずかるのには必要です。―マタイ 18:2-4。ルカ 18:16。

21 思いや態度が謙そんであること,対抗意識や競争がないことは,会衆にどんな益がありますか。

21 人間の実の家族におけるように,会衆の成員が思いや態度において幼子のように謙そんであれば,互いの関係は穏やかさを帯びてきます。自己中心的な対抗意識や,激烈な競争のないところには,神経を和らげ落ち着かせるふんいきが生まれます。もしわたしたちが,ごく目立たない仕事を行なってでも奉仕する気持ちまた用意があるなら,わたしたちはその通りに他の人々の必要に,また他の人々を元気づけるために,仕えることができます。それは全会衆を築き上げかつ強めて,良い仕事を積極的に行なう方向に動かします。

22 「互いの間で平和を保つ」ようにさせる強力な要素は何ですか。

22 こうして,最も若い人だけでなく,非常なはにかみ屋の人,あるいは聖書の真理を学ぶ点で,またクリスチャンとしての経験を積む面で遅れている人々も大目に見られ,「[キリストの]名によって」会衆の胸に温かく抱擁されます。そのような環境の会衆には,主なる神エホバの霊が満ち渡ります。それは会衆の成員が『互いの間で平和を保つ』のを助ける強力な要素です。結果として兄弟の一致が生まれます。

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