全き心をもってエホバに仕える
「あなたは,あなたの心全体をもって,あなたの魂全体をもって,あなたの思い全体をもって,あなたの神エホバを愛さねばならない」― マタイ 22:37,新。
1,2 (イ)全き心をもってエホバに仕えることの重要性に関して,ダビデ王はむすこソロモンにどんな重大な忠告を与えましたか。(ロ)イエスは完全な心をもってエホバに仕える必要をどのように示しましたか。
彼は余命いくばくもない老人でした。人々の集まっている前で,彼は自分のむすこに語りかけ,次のように言いました。『わたしのむすこよ,あなたの父の神を知り,完全な心と喜ばしい魂とをもって彼に仕えなさい。あらゆる心をエホバは探り,考えのすべての意向を彼は識別しておられるからです。もしあなたが彼を捜し求めるなら,彼はご自身をあなたに見いださせてくださるでしょう。しかしあなたが彼を離れるなら,彼はあなたを永久に捨て去られるでしょう』― 歴代上 28:9,新。
2 その老人と彼のむすこ,それにそのことばを聞いた人たちは,はるか昔にこの世を去りました。しかしダビデ王がむすこソロモンに語ったこのことばは,とこしえに変わることのない,また今日のわたしたちにとって肝要な助言と真理とを含んでいます。神の子であるキリスト・イエスの奉仕の記録をも含む聖書全体は,主権者エホバ神が全き心をもって仕えられることを望んでおり,さもなくば仕えられることを少しも望んでおられないという事実をはっきり示しています。「律法の中で最も大きな戒めはどれですか」と尋ねられたイエスは,こう答えました。「あなたは,あなたの心全体をもって,あなたの魂全体をもって,あなたの思い全体をもって,あなたの体力全体をもってあなたの神エホバを愛さねばならない」。(マタイ 22:36-38,マルコ 12:28-30,新)わたしたちの中で,神から「永久に捨て去られる」ことを望む人はだれひとりとしていないのではありませんか。では,わたしたちの心がエホバの探っておられる心の中にはいっている以上,どうすればわたしたちが「全き心」,「心全体」をもって彼に仕えていることを確かめられますか。
3 心と思いとの区別を明確に認めることはどうして肝要ですか。
3 聖書が思いと心との間に区別を設けている点を明確に認めるなら,心を守り,エホバに全き心をもって仕えることにおいて助けを得られるでしょう。聖書についての優秀な知識を持ち,数多くの問題点に答えることができ,出版された最新の情報にも“遅れをとっていない”ように見える男女がいます。しかし,そういう人でも重大な危険に陥っているかもしれないのです。なぜなら,「命の源」は頭からでも,脳または思いからでもなく,箴言 4章23節(新)が告げているように,『心から』出ているからです。この点を認識しないかぎり,容易に自らを欺くことになりかねません。ご存じのように,真理に逆らって背教者となった人たちでさえ,聖書の知識を全部一度に失うわけではありません。彼らの心は神の道をきっぱりと退けたにしても,知識は思いの中に残ります。もっとも,それは時とともに薄れてゆきはします。ですから思いにある知識だけでは霊的な健康に対する確かな導きとはなりません。
4 全き心をもってエホバに仕えるとは何を意味していますか。
4 では,次のように自問してみてください。私は「心のうちの隠れた人」においてはどんな人間だろうか。私は今「全き心」,「心全体」をもってエホバに仕えているだろうか。「全き心」をもって仕えるとは,中途半ぱな心(詩 119:113,新)ででも二心(歴代上 12:33,詩 12:2,新)ででもなく,その動機において一方向に全く傾倒している心をもって仕えるという意味です。心全体をもって仕えているのであるなら,エホバを喜ばせることがわたしたちの生活の中の最大事,心の喜びとなり,わたしたちは詩篇記者のようにこう祈ります。「おゝエホバよ,あなたの道についてわたしに教示してください。わたしはあなたの真理のうちに歩むでしょう。あなたの名前を恐れるようわたしの心を一つにさせてください」。(詩 86:11,新)こうして,わたしたちの心は一つにされ,一つの目的に対してひたむきになります。(箴言 23:19,新)そうした心は一つの方向,エホバの道へとわたしたちを着実に動かします。
行なうことすべてにおいて良い動機が肝要
5 全き心を持つと,わたしたちは神の奉仕のさまざまな面に対してどのような見方を持つようになりますか。
5 全き心をもって仕えることは同時に,神の奉仕が包含する全範囲あるいは全域に対してわたしたちの心が正しくあることを意味しています。それには,結婚関係,子どもの訓練,世俗の仕事,隣人との関係,個人研究,クリスチャンの集会と大会,兄弟たちに対する関心,会衆での割り当てや責任を果たすことなどが含まれています。わたしたちの心がエホバの意志とただ部分的に一致するということは不可能です。
6,7 (イ)イスラエル人は心に動かされて寛大にふるまいましたが,それから少ししかたたないうちに,多くの者はどんな心の状態を暴露しましたか。(ロ)それはわたしたちに対するどんな戒めとなりますか。
6 たとえば,幕屋すなわち集会の天幕が建てられようとしていた時のことを考えてみてください。聖書は,イスラエル人が心に動かされて惜しみなく寄付をしたため,差し出されたものは ― その大部分を彼らは手で作らなければならなかったのですが ―『足りて且余あるほどになり』,事実モーセは,もう持ってこないようにと彼らに告げねばなりませんでした。(出エジプト 36:4-7)それはりっぱなことだったのですが,それから少ししかたたないうちに,この同じ民が自分たちの状況についてつぶやいたり不平を言うようになりました。(民数 11:1-6,10)モーセの姉ミリアム(パロの軍勢が紅海で滅ぼされた後エホバの賛美をたいへん喜ばしく歌った)は弟アロンと組んで,イスラエル国民を導く監督としてエホバに任命されたモーセを非難しました。(民数 12:1-8)カナンに送られた斥候からの悪い報告を聞いて,民一般は恐れをいだいて信仰の欠如を示し,モーセとアロンを石打ちにしようとしたほどです。(民数 13:1,2,25-33; 14:1-10)彼らは以前に物品や労働をささげはしましたが,「全き心」,自分たちの「心全体」をもってエホバに仕えていたでしょうか。―ヤコブ 3:13,14,新。
7 わたしたちの中にそういう人がいますか。資産を喜んで提供し,大会とか王国会館の建設などといった重要な仕事を成し遂げるため大規模な努力が必要な時には,りっぱな働きをしておきながら,後になって,自分の望みどおりに物事が順調に進展しないせいかもしれませんが,つぶやいたり不平を言ったり,反抗の精神をさえ示したりしますか。
8 わたくしたちは心が終始正しく自分を動機付けるものであると考えてはならず,いつも心を守らねばなりません。なぜですか。
8 クリスチャンは自分の心が不信を働きうることを忘れず,たとえ真理を知っており自分は絶対に安全だと考えていても,自分の心をエホバへの奉仕に『全く』保つにはそれを守らねばなりません。自分を誘惑の道に置かないよう大いに注意する必要があります。使徒パウロは,はなはだしい淫行をも含め,イスラエル人の数々の罪を引き合いに出してこう述べています。「したがって,立っていると思う者は倒れないように注意すべきです」。(コリント前 10:6-12,新)さらに,霊感を受けた箴言の記述者は次のように述べています。「自分自身の心に信頼している者は愚かであるが,知恵のうちに歩んでいる者はのがれる者である」― 箴言 28:26,新。
全き心を持つための備え
9 どのようにして「心の考えと意向」とを確かめることができますか。
9 『知恵のうちに歩む』ためには,定期的に自分の心を調べ,動機を検査し,弱点を捜し出してそれを改善する努力をする必要があります。落ち着いて次のように考えることは有益です。「思いの言うことはわかるが,私の心の中には何があるのか。なぜ自分はこれが,あるいはあれがしたいのか。私をかり立てているのはどんな動機か。自分の推理は確かに誠実なものか。それとも,実際には“自分の目をごまかして”言い訳をしようとしているのではないか」。心の不信を考えると,わたしたちには助けが必要です。神はご自分のことばを通してそれを備えてくださっています。「神のことばは生きていて,力を出し,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,魂と霊…とを分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるからです」― ヘブル 4:12,新。
10,11 (イ)わたしたちが善良で全き心を持つのを助けるため,エホバはどんな備えを設けておられますか。(ロ)全き心は個人にどの程度依存していますか。
10 しかし聖書を通して,心が決めた考えに意向を見分けてもらい,その結果から益を得るためには,わたしたちは自分の務めを果たさねばなりません。自分に与えられる助言に対して『心を和らげ』,それを受け入れるために『心を傾ける』必要があります。わたしたちは『耳をもって知恵に注意を払い,心を分別に傾けるよう』神の見える組織から霊的な食物を豊かにいただいており,それはわたしたちが『理解の鈍い』心を持つことがないよう,むしろ『心の目』が啓発されるようにするためです。「理解力のある者の心は知識を習得し,賢い者たちの耳は知識を求める」のですから,わたしたちが出席するための定期的なクリスチャンの集会が設けられており,その集会での教えや交わりは健全で人を建て起こします。また,わたしたちには,監督として奉仕している円熟した人たちの「心の中にある助言」もあり,エホバの律法を実際に適用する点に関して彼らの持っている経験の井戸から,その助言を深い水のように明敏に「くみ上げる」ことができます。―歴代下 34:27,箴言 2:1,2; 18:15; 20:5,マルコ 6:52,エペソ 1:18,新。
11 しかしわたしたちはそうした益を得るよう,心を建て起こしかつ守る上でそれらを勤勉に用いるよう努力を払わねばなりません。ヨシャパテ王は『真の神を捜し求めるよう心を備えた』ことで,エホバにほめられました。(歴代下 19:3,新)「理解のある心は知識を捜し求める心である」。(箴言 15:14,新)ダビデは,「[自分]のうちに純真な心をさえ創造してくださ(る)」よう神に祈りました。しかしエホバはそれを奇跡的に行なわれるのではありません。「地に住む人間に,心を整えることは属する」からです。―詩 51:10,箴言 16:1,新。
12 真理を思いで理解するだけでは不十分です。なぜですか。
12 思いでの理解を得るだけでは十分でなく,わたしたちは学んだ事柄によって動かされ,それを心の中で感じる必要があります。霊感を受けた記述者を通してわたしたちの天の父はこう言われました。「わたしの子よ,わたしのことばにぜひ注意を払いなさい。わたしの言うことにあなたの耳を傾けなさい。それがあなたの目から離れることがないように。それをあなたの心の真中に保ちなさい。それは,それを見いだす者たちの命であり,彼らの肉すべての健康だからである。守るべき他のすべてのもの以上に,あなたの心を守りなさい。命の源がそこに発しているからである」。(箴言 4:20-23,新)そうです,わたしたちは学んだ事柄を『わたしたちの心の碑』にしるす必要があります。(箴言 3:3; 7:3,新)そしてそれは,心がわたしたちを正しい道へと動機付けるよう,時間をかけて神の真理をわたしたちの心の中に,まさにその真中に入りこませることによってのみ可能となります。(詩 37:31,新)これが,家で個人研究をしたり集会に出席したりする時に,あなたの行なうことですか。
13 (イ)詳しく調べてみると,思いがさまよっている代わりに,何がさまよっていることがわかってきますか。(ロ)ヘブル書 3章12節にはどんな警告が与えられていますか。「信仰の欠けたよこしまな心」の最初のきざしは,しばしばどのように表われてきますか。
13 わたしたちは個人で読書をしている時や集会の時などに,気がついたら“思いがどこかをさまよっていた”と時々言います。そうかもしれません。子どものすることや何かほかのことのために注意が一時的にそらされる場合があります。しかし,自分に対して完全に正直であるならば,さまよいだしたのはわたしたちの思いではなく,心ではありませんか。気がついてみると,物質的な事柄,買おうとしている物,興味を持っている家での計画,金銭の問題などを考えてはいませんか。あるいは肉の事柄,すなわち食物,娯楽,異性のことを考えてはいませんか。そうした事柄のほうが神のことばやそのすぐれた助言を熟考することより自分には興味深く思われたり,あるいは,集会が終わってくれればよい,そうすればそうした他の事柄に専念できるのに,などと願うようになったりするなら,それは問題です。心は脂肪でおおわれたかのように無感覚になるか(詩 119:70,新)またはかたくなになって,神の指導に抵抗するようになる危険に陥っていることになります。(ヘブル 3:8,新)それは,エホバのいつくしみに対して,わたしたちの忠実な献身をエホバが報いてくださることに対して信仰の欠如を示していることになります。また,報いをどこか別の所に求めはじめたことを示しています。クリスチャンは,「あなたがたのうちのだれでも,生ける神から離れ去って,信仰の欠けたよこしまな心を発達させることが決してないように,気をつけなさい」と警告されています。(ヘブル 3:12,新)そうした悲惨な道に進む最初のきざしは,神のことばに対するわたしたちの態度や,それを読んだり聞いたりした際にわたしたちの示す認識のほどに表われてくるのが普通です。
14 クリスチャンの集会に対する認識と出席という問題に心がどう関係してくるか,例を使って説明しなさい。
14 集会の出席それ自体,あるいは宣教に携わることにしても同じです,時おり病気になり,その病気が重くて家から出られない場合があるのは自然なことです。また,疲れきってしまい,集会や野外奉仕に行くにも精力が尽き果ててしまっている,というような場合があるのも珍しいことではありません。霊は熱していても肉体は弱いのです。そのため,わたしたちは時としてむりやりに自分をスタートさせねばなりません。そうすれば後になって喜べることを知っているからです。このように,心や堕落した肉の利己的な欲望に同調することを避けるには訓練が必要です。この点を例で説明してみましょう。きょうは,聖書の教えを受けるため晩に王国会館に行く日であるとします。その時間が近づいたとき,ひとりの兄弟は行こうにもどうしてもからだが自分の思うようにならないことを悟ります。どんなにか行きたいことでしょう。でも無理です。からだがいうことをききません。しかし彼の心はどこにありますか。他方もうひとりの兄弟は,一日じゅう一生懸命働いて帰宅します。彼の心はこうかつにも,“今晩家にいることができたら,さぞかしすばらしいだろう”と彼に告げます。(心は欲望と動機の座であることを思い起こしてください。)しかし,集会に出ないで家にいるには何か理由がなければなりません。そこで心は思いに動機を与えて,この点に関して働きを開始させ,気がつかないうちに,家にとどまるためのかっこうな理由がいくつか浮かんできます。よほど気をつけないと,その晩彼は王国会館に行かないことになるでしょう。さて同じことがわたしたちのクリスチャン活動のどの面に関しても起こりうるのです。問題は,わたしたちの心がどこにあるかです。それが何かを欲し,望み,愛するなら,心はその方法をたいてい見いだすものです。イエスはこの点を次のように要約されました。「あなたの宝のある所には,あなたの心もあるからです」― マタイ 6:21,新。
15 奉仕に携わらない,または集会に出席しないための理由を捜している自分に気づいたなら,どんな矯正手段を直ちに講じるべきですか。
15 人には個人のあるいは家族の責任もあり,おのおの自分が最善と感じる方法にしたがって事情を調整しなければなりません。ある月には他の月ほど野外奉仕に多くの時間を費やすことができないかもしれません。それはその人個人の問題です。しかし,集会や野外奉仕に出ないで家にいるための理由を捜したり,それらを避けるための言い訳や口実を見つけようとしたりしている自分に気づいたら,その時は危険な状態にあると言わねばなりません。心がわたしたちを悪い方へ進むよう動機付けているのです。そのような事態になったら,ヤコブの言ったとおりにする必要があります。「神に近づきなさい。そうすれば彼はあなたがたに近づいてくださるでしょう。あなたがたの手を清めなさい,あなたがた罪人たちよ。そしてあなたがたの心を潔くしなさい,あなたがた優柔不断なものよ」。(ヤコブ 4:8,新)わたしたちは問題をかかえているのであり,それを天の父のもとに携え出て,祈りの中でそれを申し上げる必要があります。
16 (イ)祈りは心に関して何を明らかにしますか。(ロ)「あなたの心をわたしにぜひ与えなさい」とのエホバの勧めは何を意味していますか。
16 これもわたしたちの心を調べるための手段です。たぶんエホバ神に対するわたしたちの奉仕の他のすべての面と同様,わたしたちの祈りも,わたしたちとエホバとの関係,エホバに対してわたしたちが「心のうちの隠れた人」においてどう感じているかを明らかにします。あなたの祈りはあなたが神とどんな関係を持っていることを明らかにしていますか。それはあなたとエホバだけが知っていることです。心のすべてから尊敬し愛する父親に対するむすこや娘のような,信頼に満ちたあたたかい親密な関係ですか。(箴言 4:3,4,新)あなたの祈りが明らかにしているのはそのような関係ですか。それとも単にことばをかわすだけの関係ですか。あるいは近所の人,雇用者,比較的親しい友人との関係に類するものですか。あなたと神との関係が,本来あるべき関係でないなら,一つのことが確かです。つまり,それはあなたの天の父の落ち度ではないということです。彼は箴言 23章26節(新)の記述者のようにこう言われます。「わたしのむすこよ,あなたの心をわたしにぜひ与えなさい。また,あなたのそれらの目がわたし自身の道に喜びを見いだすように」。祈りを通して自分の心を彼に対してあからさまにし,心の中にあるものを告げ,心の正しい欲望を成し遂げるため,またその弱点と弱点に対する改善策を明らかにしていただくための助けを求めてください。そうして後,天の父がみことばやご自分の霊とクリスチャン会衆を通してあなたに与えられる導きに終始従うことによって,彼に自分の心をささげるのです。
心を前もって強めておく
17 誘惑の来る前に心を強くし,それを守ることが重要なのはなぜですか。
17 わたしたちは日々堕落の一途をたどる体制の中で生きています。そのため,エホバとその奉仕に対する専心の完全さに関してわたしたちの心にのしかかってくる試みは,いよいよきびしくなっています。自分の心を守ろうと思うなら,心に焦点を合わせ,それが動機付けと愛情との能力を持つゆえに重要であることを忘れないようにしなければなりません。試みや誘惑が全力をふるって襲ってくるのを待つのではなく,それにあうずっと前からわたしたちの心を強めておくべきです。
18 どんな質問がわたしたちの動機をためす助けとなりますか。
18 不道徳な考えが浮かんだ最初の時,直ちに次のように質問すべきです。「私はそれがどんな結果になるかを知っていながら,ほんとうにそんなことをしたいと欲しているのだろうか。自分の家族や交わっている会衆に非難をもたらすことを欲しているのだろうか。配偶者はどうなるのか。彼女(または彼)には確かに欠点や弱点があるかもしれない。しかし自分にもある。私はそうした行為が必ずやもたらす悲痛な衝撃の原因となりたいのか。それが,ともにわかち合った配偶者との何年間もの生活に対する感謝と言えるだろうか。それどころか,御子というエホバの賜物を侮辱し,刑柱でのイエスの死を無価値ででもあるかのように扱い,数分間の不義の歓楽のためにエホバの過分の親切をことごとく投げ捨ててしまうほど,自分はほんとうにそれほどにまで感謝の念に欠けているのか。品位・高潔さ・廉直さに対する愛はどこに行ってしまったのか」。
19 物質主義の魅力を感じはじめたら,どんな適切な質問を自分にすることができますか。
19 物質主義の魅力や,現在の体制が提供する見せかけの利益や利得に深入りするようにとのさそいを感じる時には,次のように自問するか,「心のうちの隠れた人」に尋ねるべきです。「物質的な事柄が,エホバへの奉仕に,兄弟たちとの交わりに,また他の人々に命の道を歩ませる真の助けとなってきたということを知る満足に比べうるほどの喜びを,はたして一度でももたらしたことがあるだろうか。正義の心がほんとうに欲しえるどんな将来をこの世は提供してくれるというのだろうか。しばらくの間私を使って,役に立たなくなると棄ててしまうのがこの事物の体制であることを十分承知なのに,この体制に愛情を注ぎたいのだろうか」。確かに,神の新しい秩序での祝福は待たねばなりません。しかしヤコブはこう助言しています。「あなたがたもまたしんぼうしなさい。あなたがたの心を強固にしなさい。なぜなら,主の臨在は近づいたからです」― ヤコブ 5:7,8,新。
20 中立に関する問題に直面した時,どんな事柄を心の中で再吟味すべきですか。
20 同様に,この世の体制に関しての中立の立場を放棄したり神への忠誠を破ったりするようなんらかの方法で圧力を受ける場合には,この世の神である悪魔サタンが諸国民の間に助長してきた流血・犯罪・どん欲・残忍行為などの卑劣な事柄を心の中で再吟味してください。一瞬といえども彼の側に立場を取ることなど,どうしてできるでしょうか。たとえ悪魔サタンに迫害され,投獄され,拷問されようと,サタンとその腐敗した獣的冷酷な体制を支持して,新しい事物の体制の神であるエホバをどうして拒絶することができるでしょうか。
21 (イ)「終わりの時」が相当進行したことを知り,どうしたらわたしたちの心が「重圧を受け」るのを防ぐことができますか。(ロ)ソロモンは,全き心を維持するようにとの父親の忠告にしたがう点で,どのように失敗しましたか。
21 わたしたちは同じ手段により,正しく,品位のある,誠実なものすべてに対する愛を心に強め,またエホバが非とし,忌みきらわれるもののすべてに対して純真な憎しみをつちかうことができます。(歴代上 29:17,ヘブル 1:9,新)しかし,ひとたび良い心を育て上げたからといって,それでもうだいじょうぶだと考えることは許されません。それを守らねばならないのです。「しかし,食べ過ぎと多量の飲酒と生活の心配ごとによってあなたがたの心が重圧を受け,その日が突然わなのようにたちどころにあなたがたに臨むことが決してないよう自分自身に注意を払いなさい。それは全地の表に居住する者すべての上にやって来るからです」。(ルカ 21:34,35,新)ソロモンはエホバに従順な心と神の民をさばくに際しての分別を求めて祈りました。『神はソロモンにきわめて多大の知恵と理解,また,心の広さを』引き続き与えられたにもかかわらず,「ソロモンの年老いた時になって,彼の妻たちが自ら彼の心を他の神々に従うよう傾かせた。そして彼の心は,自分の父ダビデの心のようにその神であるエホバに対して完全ではなかった」のです。そうしたことを読むと,深い悲しみの念を覚えずにはいられません。(列王上 4:29; 11:1-6,新)考えてみてください。エホバからの知恵をもってそれほど豊かに祝福されていながら,エホバの模型的な王国とエホバの壮大な神殿の建築とに関して非常に多くの特権にあずかっていながら,彼は自分の異邦人の妻たちに心をひかれて,他の神々を崇拝するようになりました。しかも彼は,霊感のもとに心に関してきわめて多くの事柄を書いたその人だったのです。
22 エホバの意志を行なわねばならないという理由だけではなく,さらにそうすることを欲するという理由でエホバに仕えるのは肝要です。なぜですか。
22 では,わたしたちが何をするにせよ,また行なうことすべてにおいて,エホバに対するよう心すべてを尽くしてそれを行ないましょう。エホバはそうした奉仕をたいへん喜ばれます。エホバは感謝を表わさない神ではありません。わたしたちの行なうことすべてに感謝し,わたしたちを報い,祝福し,数々の賜物を与えることに喜びを見いだしておられるのです。しかしわたしたちの奉仕は,心全体をもっての誠実,純真なものでなければなりません。エホバはどんな逃げ口上でも見通され,わたしたちが他の理由で物事を行なうなら,それを知ることができます。ご自分に対する賛美よりも報告にもっと関心があるなら,外見や他の人に対する印象を気づかっているなら,また単にそうしなければならないと感じているから物事をしているに過ぎないなら,エホバはそれをごらんになります。命を欲しているなら,奉仕しなければならないのは確かです。しかしそうすることを欲し,エホバに仕えたいとの強い願望を持ち,今の自分に悪い事柄を犯させたり神の完全な標準に達しえないようにさせたりするすべてのものから解放されて,神に完全に仕えられる時に住みたいとの切望をいだかないかぎり,わたしたちは持続することも,忍耐することも,目標に到達することも決してできないでしょう。
23 (イ)どんな理由で,ある人たちは命のための競走から落後するのでしょうか。(ロ)全き心を持つことを求めている人たちのために,わたしたちはパウロと同様どのように自信をもって祈ることができますか。
23 すべての物事が神の新しい秩序の近いことをさし示しています。しかし終わりの時がこれほど進んだ今の時でさえ,エホバの奉仕に長年携わってきた人たちのある者は落後しているのです。なぜですか。独立の精神のためですか。それとも,神の王国が間もなく地上で,生き残った住民の上に全き支配を執ることを知っており,心の中で実際にはそれを望んでおらず,正義の統治がそのように全き支配をすることを欲していないためですか。エホバを捜し求めて見いだしたのであれば,彼に対して自分の心を全き状態に保ち,心全体をもって彼を愛し,仕えてください。エホバを離れてはなりません。離れるならば,エホバはあなたを永久に捨て去られるでしょう。パウロが当時の自分の兄弟たちのために祈ったように,今わたしたちも皆さんのためにこう祈ります。「主があなたがたの心を神の愛へと,またキリストのための忍耐へと成功裏に導き入れられますように」― テサロニケ後 3:5,新。
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わたしたちの思いが乱されたりさまよったりする時,実際には心のほうがさまよっている場合があるのではありませんか
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祈りはわたしたちと神との関係がどんなものであるかを明らかにします。あなたの祈りはどんな関係を明らかにしていますか