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死者はどこかで生きていますか目ざめよ! 1977 | 12月22日
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死体の保存にこのように苦心した重要な理由でした。
死人が生きているという信仰は,今日に至るまで残存しています。「死人が墓の中に実際に住んでいるという信仰のために,多くの民族の間で一部の聖人の墓は,何千人の人々がいやしの奇跡あるいは宗教的な御利益を求めて訪れる聖堂となっている」と大英百科事典に述べられています。「このような巡礼の中心地として有名なのは,ローマにある聖ペテロの墓,メジナにあるマホメットの墓,エジプトのサッカラにあるイムホテップの墓である」。
聖書の特異な見解
これら手の込んだ埋葬の方法と対照的なのは,昔のイスラエル人が死体を処理した方法です。ユダヤ百科事典は次のように述べています。「聖書時代のほとんどすべてにわたって,考古学はユダヤ人特有の埋葬方法というものを明らかにしていない。……[モーセの]律法は埋葬について比較的わずかしか述べておらず,この問題を扱っている場合にも,死者による汚れを避けることに関心が向けられている(民数 19:16。申命 21:22-23)。死人は神を賛美せず,彼らは忘れられ,神のみ手から切り断たれている(詩 88:6,10-12)。また結果として喪と埋葬は,イスラエル人の宗教においてはせいぜい末梢的な事柄である」。ユダヤ人の埋葬の場所は,「はっきり見えないので人がその上を歩いても気づかない記念の墓」とイエスが語ることのできたほど目立たないものでした。―ルカ 11:44。
これは死に関して聖書が特異な見解を示している事実を強調しています。ヘブライ語およびクリスチャン・ギリシャ語聖書の両方において,死は,死者が「何事をも知らない」眠りにたとえられています。(伝道 9:5,口。詩 13:3。ヨハネ 11:11-14)死ぬ人は「死のちり」の中に下り,「陰府におもむく」のです。―詩 22:15。箴 2:18,口。イザヤ 26:14。
魂についてはどうですか。聖書によれば,魂は人の一部ではなく人の全体です。(創世 2:7)ゆえに人が死ぬ時,魂も死にます。それで預言者エゼキエルは,「死んではならない者[魂]を死なせ,生きていてはならない者[魂]を生かす」ことを黙認する人々を罪に定めたという記述が聖書に見えるのです。(エゼキエル 13:19,口[新]; 18:4,20)現代の多くの聖書学者の意見と一致して,ストラスブルグ大学のエドモンド・ジェイコブ教授は次のようにきっぱり述べています。「死の瞬間に“魂”が肉体から離れると述べるのは,聖書のどんな句に照らしてみても正しい事ではない」。あなたはそれをご存じでしたか。
死者は生きてはいないゆえに,生きている人が死人のたたりを受けるということはありません。また生きている人の供養によって死人が慰められることもないのです。死んだ人に対する聖書的な希望は,存在しない不滅の魂が生き続けることにあるのではなく復活によるのです。それはイエスが死からよみがえらせた人々の場合に見られるように人全体が生命にもどるということです。(ルカ 7:11-17; 8:41,42,49-56。ヨハネ 11:1-44)聖書に基づくこの希望についてもっと知りたいと思われますか。もしそうであれば,本誌の発行者に援助を求めてください。
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意味のある誓いか目ざめよ! 1977 | 12月22日
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意味のある誓いか
古代ギリシャで,“医学の父”とも呼ばれるヒポクラテスは,自分の門弟に誓いを立てるよう求めました。それから二千年余りの間,多くの国々で,卒業してゆく若い医師たちはその誓いを復唱してきました。しかし,その約束の一つが「私は流産を引き起こすような器具を女性に与えません」というものであるなら,今日,その誓いにはどれほどの意味があるでしょうか。
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