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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 9/15 547–548ページ

アブラハムの信仰

「神を信じなさい」とイエスはかって言いました。なぜ神を信じなければなりませんか。なぜなら,信仰があるときにすべてのもの,つまり神がクリスチャンに要求するすべてのものは可能だからです。「神は愛であり」全知全能であられるために神にとってすべてのものは可能であり,したがって,神への信仰の力あるいは重要性をいくら誇張しても誇張しすぎることはありません。―マルコ 11:22,新口。

信仰とは何ですか。「信仰は望む事柄を確信して期待することであり,見えない実体の明白な表明である」。たしかに神の言葉によると,信仰とは将来に来るもの,希望するもの,たとえば神の御国による地上の楽園の復興などを信ずることです。また,天界や天界に住む者たちのように,目に見えないものをも信じます。―ヘブル 11:1,新世。

はっきり分かるとおり,信仰には適当な基礎がなければなりません。さもないと,それは迷信か軽信に過ぎないものです。神の御言葉から信仰の正しい基礎が得られます。神の御言葉には真理のひびきがあります。聖書を書いた人々は,包みかくさず正直に書きました。また,書いた人の数は大ぜいで,それぞれちがった環境の下で書いたにもかかわらず,聖書は調和のある本です。聖書の歴史的な記録が正確であることは,考古学上の発見物によりしばしば証明されました。そして,幾百という聖書の預言は成就されたか,成就しつつあります。

今日,大ぜいの人は神を信ずると言います。しかし,その人々の宗教的な無知および日常の行動は,彼らの主張の偽りなることを示しています。弟子ヤコブも,次のような適切な言葉を述べています,「あなたは,神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ,信じておののいている。ああ,愚かな人よ……知りたいのか。霊魂のないからだが死んだものであると同様に,行いのない信仰も死んだものなのである」。―ヤコブ 2:19,20,26,新口。

たしかに,真実の信仰を持つ人は,その行いによりその信仰を示します。「エホバの友」と呼ばれた族長アブラハムは,その種の信仰を持っていました。彼が「信じ……るすべての人の父」と言われたのも当然のことでした。聖書中に記録されている彼の全生涯は信仰の表われでした。もちろん,その中のある出来事は,他の出来事よりもはっきり表われて示されているのです。―ヤコブ 2:23。ロマ 4:11。

アブラハムは,その行いにより信仰を証明しました。彼は,メソポタミアの彼の故郷,親族,および父の家を去って,見知らぬ国へ行けとの神の命令に従いました。まずハランへ行って,父が死んでからカナンに行きました。アブラハムはたくさんの財産を持っていました。すると,それはたいへんな仕事だったでしょう。彼はいろいろな結びつきをも切り,彼の受けた経済的な損失も大きなものでした! 彼はちゅうちょしましたか。いいえ,聖書にはこう書かれています,「アブラハムすなはちヱホバのおのれに言たまひし言に従ひて出たり」。彼がカナンに行ったときは,かなりの年で75歳でした。しかし,その後でも,彼はエホバの命令に従い,100年の間見知らぬ者,一時的な寄留者として,パレスチナの中をさまよいました。―創世 12:1-4; 13:2; 25:7。

それで今日アブラハムの信仰を持つことは,個人的な益,物質的な恩恵よりも神の御心を第一にすることを意味します。生活中,神を第一にする人はみなこの信仰を持っています。そして,特に今日宣教者として,遠い国々で働くクリスチャン奉仕者,そして自分の国をはなれてクリスチャン奉仕者の必要の大きなところで奉仕する人々は,この信仰を持っています。

アブラハムが甥のロトに対して取った行動は,彼の信仰,そうです神の御準備に対する信仰を証明します。寛大なアブラハムは,ロトの好む地を選ばせ,自分は残されたものだけに満足しました。彼はエホバ神に強い信仰を持っており,神はアブラハムに必要なものをことごとく備えるということを信じていたので,そのような寛大な行いをすることができました。神を信ずる人は,自分の環境にしたがい,与える幸福を持ちます。―創世 13:5-12。使行 20:35。

信仰の例を示す別の出来事は,エホバがソドムとゴモラを滅ぼすとの彼の目的をアブラハムに告げたときです。アブラハムはエホバの正義に強い信仰を働かしていたので,「天下をさばく者はただしきを行ふべきにあらずや」と言上することができました。全くのところ,彼はエホバと論じつづけました。神が『もし五十人の正義の者がこの町にいるならその町を見すごそう』と言ったとき,アブラハムは勇気を出して,『かりにその中五人足りなかったなら,四十人だけいるなら,三十人だけいるなら,二十人だけいるなら,どうですか。かりに十人だけいるならどうですか』とたずねました。アブラハムは,エホバ神の正義に大きな信仰を働かせていたので,そのように話すことができました!―創世 18:23-33。

クリスチャンはその信仰の模範から何を学ぶことができますか。イエスは願い求めたやもめの話をしました。その話に教えられている同じ教訓を学びます,すなわち私たちは神の正義とめぐみに信仰を持ち,すぐ失望すべきでなく,むしろエホバに祈りを捧げつづけねばならないということです。―ルカ 18:1-8。

アブラハムが神の次のいましめに従ったとき,いちばん強い信仰を示したことは疑いありません。「なんぢの子なんぢの愛する独子すなわちイサクを携へて……彼を燔祭としてささぐべし」。アブラハムは息子イサクをたずさえて旅行に出たとき心が重かったにちがいありません! 彼はイサクを愛し,イサクの生まれることを長年のあいだ待ちました。アブラハムがイサクをしばって祭壇の上に乗せたとき,彼の手はふるえていたにちがいありません。彼が刀を取って息子を殺し,エホバへの犠牲にささげようとしたとき,彼の目は涙で一杯ではありませんでしたか。もちろん,そうでした! それでも彼は命ぜられた通りのことをしようとしました。神が犠牲を妨げられるということを期待したのでなく,『神はイサクを死人の中からよみがえすことができる』と信じていたからです。―創世 22:1-14。ヘブル 11:17-19。

今日,神は彼の僕たちがその息子を石の祭壇上で犠牲にささげよと命じていません。しかし,時折り,独り子と同じくらい貴重なもの,あるいは全くのところ,独り子を,彼のためにささげることは神の御心かも知れません。聖書の示すところによると,神はこのように信仰を示したアブラハムに豊かな報いを与えました。同じく,神はイエスの示した原則どおり,アブラハムの模範に従うすべての人を豊かに報いるでしょう,「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために,また福音のために」すべてを「捨てた者は,必ずその百倍を受ける。……また,きたるべき世では永遠の生命を受ける」。それで,賢明でありなさい。アブラハムの信仰を持ちなさい。神とその御言葉を信じ,あなたの行いによりそれを示しなさい!―マルコ 10:29,30,新口。

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