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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
塔54 1/15 24–28ページ

ものみの塔・聖書研究の助け

何故『ものみの塔』は必要ですか? 何故ならば,『ものみの塔』は私達を助けて,聖書を理解させるからです。それでは,何故私達は聖書の理解を求めなければなりませんか? 何故なら聖書は絶対に間違いの無い導きであつて,愛ある賢明な創造者が私達に与えたものだからです。

神の言は,私達の足の燈火であり,私達の路の光りです。(詩 119:105)神の言が無ばけれ,私達は暗やみを歩くでしよう。(イザヤ 8:20,21。マタイ 15:1-14)神の言は,暗い場所を照らしている燈火であつて,夜が更け,明星が昇るまで私達が注意を払うことは良いことです。(ペテロ後 1:19-21,新世)使途パウロは次のように述べています。『聖書のすべては神により霊感されたものであつて,教えや,戒しめや,物事を正しくする事,そして義しいことを訓練する事に有益なものである。それは,神の人が,すべての善い業に対して全き備えをして,十分に力を持つ為である。』― テモテ後 3:16,17,新世。

神の言は,私達にとつて,光であるばかりでなく生命をも意味します。『唯一つで真の神であるあなたと,あなたが遣した者,すなわちイエス,キリストを知ること,これこそ永遠の生命を意味する。』とイエスは裏切られた夜の祈りの中で言いました。イエスは弟子達に語りました。『私があなた方に語つたものは,霊であり,生命である。』イエスの語つたものは,聖書の中に記録されています。イエスは,また『人はパンだけではなく,ヱホバの口から来るすべての言葉によつて生きなければならない。』ということを良く知つていました。アダムでさえもその真理を強く認識していました。アダムは生命を支えるに必要な物は十分に持つていましたが,930年生きた後に,結局は死にました。それはアダムが神の言を無視したからです。創世 3:17-19; 5:5。

神の言は私達にとつて生命と光りを意味しますが,しかし,それには私達が信仰を持たなければ駄目です。(マタイ 9:29)『信仰が無ければ,神の良き喜びを得ることは出来ない。何故ならば神に近づく者は,神が居られることと,また神は,彼を熱心に求める者達には報いを与える方であるという事を信じなければならない。』― ヘブル 11:6,新世。

今日では,昔に無かつた程の攻撃が,聖書の真実性,その原則,そしてその智に対してなされていますから,私達が聖書を研究して,信仰の大きな盾を取つて備えをし,そのような攻撃を退けることは益々重要になつて来ました。その攻撃は公然と表明している聖書の敵がする許りでなく,聖書の友であると自称している者達もするのです。アメリカ合衆国の中には,クリスチャンであると主張している派は250以上もあるのですから,私達は聖書を研究しなくてはなりません。そして,誰かが私達の持つている希望についての理由を求めたならば,満足のいく答えが出来なくてはなりません。(ペテロ前 3:15)賢い人はこのように述べました『義しき者の心は答うべきことを考える。』― シンゲン 15:28。

さらに,道徳の状態がどんどんと悪くなつて行きますので,私達の毎日の生活を支配すべき神の義しい原則を守つて行くことは,益々難しくなります。正しいことをしようとする私達の決心を絶えず強める為に,そしてまた義にたいする神の愛を持ち,悪に対する神の憎しみを持つためには,私達は神の考えを考え続け,私達の心を新にし真理により私達の人格を変え続けるべきです。マタイ 16:23。ロマ 12:2。ピリピ 4:8。コロサイ 3:9,10,新世。

助けは必要

若し私達が生命を得たいならば,私達は聖書を研究すべきです。このことに就いては疑問がありません。しかし,そのことだけで,『ものみの塔』が必要であるということでしようか? 私達各自が聖書を開いて,必要な知識と理解を求めることは出来ないでしようか? 出来るでしようか? 使徒行伝 8章に一つの物語りがあります。エチオピアの宦官であつて,またケンダケ女王の高官は聖書を読んでいましたが,弟子のピリポが『あなたは,声を出して読んでいるところが本当に判りますか?』と聞いた時に,その宦官の答えは何でしたか?『誰かが私を導いてくれなければ,どうして私に判るでしようか?』 その宦官は,助けの必要なことを認識しました。ピリポは,最初に,他の人達から導かれた者でありましたので,このエチオピヤの宦官に必要な導きを与えることが出来ました。―使行 8:27-38,新世。

イエスが復活した朝に,エマオに行つた二人の弟子達のことにも気をつけてください。二人は神の言を良く知つていたに違いありません。若し知らなかつたのでしたならば,イエスは,『心が鈍く,予言者が語つたすべての事を信じ難い者達よ』と叱らなかつた事でしょう。二人は聖書を良く知つていましたが,理解しませんでした。二人が知つていたところをイエスから説明されて,二人はどのように聖書はメシヤの苦しみと死を予言しているかということを知ることが出来ました。二人が後になつて次のように叫んだことは,全く不思議ではありません。『彼が路で私達に話し,聖書をすつかり解き明かして説明された時に,私達の心は燃えたではないか?』― ルカ 24:13-32,新世。

コルネリオは疑いなく神の言を知つていました。しかしペテロの助けを受けて,コルネリオはキリスト・イエスがメシヤであることを認識しました。アポロは『霊で以つて燃えていました』が,『神の道をもつと正確に』理解する為には助けが必要でした。また,エペソの弟子達は,キリスト教については十分の考えを持つていませんでした。それでパウロは彼等を啓発したのです。―使行 10章; 18:25,26; 19:1-7,新世。

何故『ものみの塔?』

聖書を理解する為には,助けが必要であるということは,明らかな事です。しかし,それでは,出版されているすべての宗教的な文書の中で,何故私達は『ものみの塔』を助けと考えるのですか? 先ず最初に『ものみの塔』は聖書に固く従うからです。そして,『たとえすべての人が偽り者であるにせよ,神を真として』いるからです。(ロマ 3:4,新世)『ものみの塔』は人間の如何なる主義や,言い伝えに拘束されて居りません。それはただ聖書にだけに固く従つて居ます。『ものみの塔』は。神の言以上の権威を主張する(カソリック)の教導権を認めもしなければ,弁護もしません。イエスも言われましたが,『ものみの塔』は,その書いてある事とその説明を『(聖書に)そのように書かれている。』といつて支持します。(マタイ 4:4,7,10; 11:10; 21:13; 26:24,31,新世)ヱホバは人々を招いて『率われらともに論らわん。』と言われて居ますが,『ものみの塔』も読者を招いて互いに論じます。―イザヤ 1:18。

いろいろの群に分かれている国家の政治的な主義を,『ものみの塔』は全然支持しません。しかし,ただ神の御国のみに固い忠誠を保つて居ます。平和な時には兄弟愛を伝道し,戦時に国家的な感情が起される時に,兄弟殺しを伝道しません。イエスの如く,『ものみの塔』は世の汚れから遠ざかつています。―ヨハネ 18:36。

『ものみの塔』は如何なる主義にも拘束されず,増し加わる光とともに進歩する事が出来ます。『義者の途は旭光のごとし,いよいよ光輝をまして昼の正午にいたる。』(シンゲン 4:18)という聖句は十分認識されています。予言の成就,または熱心な研究の結果として,聖書についてより明らかな光が照る時,『ものみの塔』は決つして誇らず,神の御意と目的についての進歩した理解の利益を読者に与えて居ます。

私達が聖書を理解するのを助けるために,『ものみの塔』は題目別にしてあります。此の方法によつて,聖書の66の本の中に書かれてある或る題についての事柄は一緒に集められ,論理的なそして統一的な方法に編輯されています。このことは必要です。何故ならば,聖書には主として歴史が書かれて居り,また統一して書かれてありませんので,極く僅かな例外を除いて,一つの教えに就いて,1ヵ所で深く理解の行くように書いてはありません。このことは全く真のことです。何故ならば,今日の自称クリスチャン達を困らせている多くの偽りの教えは,過去に於いてヱホバの僕達には知られて居ませんでした。真理は当然なものとして受け容れられて居ました。研究をするのに,『ものみの塔』はこの主題別の方法を取つて居ります,そして,原語であるヘブル語,アラマイック語,ギリシャ語の言葉の意味に注意を払つて居ります。また,或る一つの点を証明するのに聖句を引用する際に,その聖句の前後の文脈にも考慮を払つて居ます。

そのように,主題別に研究をしているからといつて,『ものみの塔』は省略して手を抜いてはいませんし,或いはまた,都合の良い理論や,考え出した意見を証明するために,適当な聖句を探し出そうとはしていません。『ものみの搭』は,聖書全体から,一つの問題についての神の御意を示しています。実際に,この方法は『ものみの塔』が始めた新しい方法ではありません。この方法は,山上の垂訓でイエスが用いたものであり,またペテロが五旬節<ペンテコスト>の日に用いたものでありパウロが彼の手紙の中で数多く用いている方法です。それらの例については,マタイ 5:21-38。使行 2:14-28。ロマ 15:7-13。ヘブル 1:5-14。を見てください。

『ものみの塔』を研究しなさい。

『ものみの塔』の読者の中で,或る人達は各号の主要な研究する記事だけしか読まないという傾向があるようです。その人達は,恐らくは,読者よりの質問位は読んでいるかも知れません。しかし,これは間違いです。『ものみの塔』は,聖書の教え,教義,聖書の予言,クリスチャンの行動,聖書の歴史,現在の宣教の活動,等を取り扱つています。所謂補助的な記事をも含めて,その内容全部に注意深く考慮を払うことによつて,私達は片寄らない聖書的な教育を受けることが出来ます。そして,進歩する光を常に受けることが出来ます。

『ものみの塔』のどの号も,良く平均のとれた,また良く準備された食事に譬えることが出来ましよう。人の体は蛋白質,澱粉,鉱物,そしてヴィタミンが必要とすると,栄養専門家は申しています。そして,片寄らない食事は,これらすべてを与えます。これらの一つを無視することは間違いです。同じ様に,私達の精神的な食事に於いて,一つをも無視すべきではありません。そしてまた,食事を取る時に,急いで取らず,時間をかけて,楽しみますが,それと同じく,霊的な食事の時も急いで取つてはなりません。

『ものみの塔』を単に読むだけでは十分でありません。『ものみの塔』の大部分の記事,特に,質問のついている研究用の中心記事は意味の深い大切な真理を私達に与えるものです。そして多くの場合,全く新しいものか,または,前に出版されたものとは異ることを述べています。それですから,唯一度読んだだけでは,十二分に理解し,意味を悟ることは出来ないでしよう。そのような智的な,また霊的な食物を食べるためには,良く噛みこなすことが必要です。すなわち,精神を集中し,良く考え,検討することが必要です。それらの真理や議論を私達のものとするためには,私達は,それらが聖書的であるということ,合理的であるということ,そしてまた事実に基いているということに確信を持たねばなりません。そのためには,1回ということではなく,数回繰り返して,読まねばなりません。

また,これらの真理を取り受けるというのは,私達自身の楽しみのためではなく,他の人達に与えるべきものを得るのであるということを記憶すべきです。そして,若し私達が一つの点について十分に理解するならば,私達はその点を他の人達に説明することが出来ます。これは,何故『ものみの塔』を徹底的に研究しなければならぬかという別の理由です。

更に,『ものみの塔』は,クリスチャンの行動と活動に関して多くの忠告と教訓を書き記しています。それらを十二分に理解するためには,何度も何度も読むべきです。若し私達が行為をしないならば,私達は砂の上に家を建てた愚かな人のようです。そして私達の信仰は死んだ信仰でありましよう。―マタイ 7:26,27。ヤコブ 2:14-26。

『ものみの塔』の研究の仕方

クリスチャンが,聖書研究の助けを用いて聖書を研究するということは,各自随意というようなものではなく,是非せねばならぬものです。使途パウロのテモテへの教訓は,私達の一人一人にも当て嵌るものです。『神に認められるようあなた自身を捧げるために全力を尽くしなさい。そして,何物をも恥じることない働き人として,真理の言を正しく扱いなさい。』(テモテ後 2:15,新世)若し私達が生命を欲するならば,私達は神の是認を得ねばなりません。そして,若し私達が神の是認を欲するならば,私達は神の言を正しく扱わねばなりません。そして,そうするためには,私達は研究せねばなりません。『ものみの塔』の助けを用いて,どのようにして,私達は聖書を一番良く研究することが出来ますか?

先ず最初に,研究するのには時間がかかるということを認識せねばなりません。それですから,規則的な急がない研究のために,時間を求めるべきです。たとえ私達が全く忙しい時でも,1日の中に15分か30分の時間を得ることは出来ます,例えば朝起きて直ぐ後とか,朝食後とか,或いはまた別の都合の良い時です。(エペソ 5:16)そうでなければ,1週間の中一晩は,自分の個人研究をする時間としなさい。忙しい,が注意深い奉仕者は,旅行している時でも研究するという機会を良く活用し,利用します。そういう奉仕者は,思いがけないような伝道をするという場合でも,良く機会を利用します。私達はその事実を見逃してはなりません。

『ものみの塔』を正しく研究する為には,私達は,正しい心の態度で『ものみの塔』を学ぶべきです。『すべての事を確めなさい。正しい事をしつかりと持ち保ちなさい。』と私達は命ぜられて居ますが,同時にまた私達は『予言を軽々しく扱つてはならない』と命ぜられている事実を見逃してはなりません。(テサロニケ前 5:20,21,新世)『ものみの塔』は神の言に忠実に従つているということを私達は良く知つて居ますので,私達が疑いの念を持つて,研究することは良くありません。むしろ,神は,『ものみの塔』を通じて何を与えられて居られるかということを,理解しようとする真面目な求める気持で,私達は研究すべきです。『柔和な気持を以つて,言葉の植えられることを受け容れなさい。言葉は(私達の)魂を救う事が出来る。』― ヤコブ 1:21,新世。

これに関して,ベレヤの人々は良い手本を私達に与えています。確かにベレヤの人々は,パウロが語つた事が,聖書に基いているかどうかを確めました。しかし,このことは,ベレヤの人々が,パウロの言集を,懐疑の気持,非難の気持,或いは反対の気持ちで聞いたということでしようか? いいえ,全然そうではありません。このように記されています。『(彼等は)素直に,よろこびつつ言葉を受け入れた。』― 使行 17:11,新世。

研究しようとする事柄に正しい心の態度を持つたならば,次に,私達は研究を邪魔するようなすべての事柄を無くすべきです。若し私達の心が他の事柄に向けられて居ながら,研究して十分の利益を得ることは出来ません。たとえば,今までに経験した愉快な事柄とか不愉快の事柄,あるいは研究後に持つかも知れない期待などです。『ものみの塔』の研究に時間を割いてあるのですから,全心を集中して注意を向けましよう。パウロはこのように言つて居ます。私達が研究している『事柄に普通以上の注意を払いなさい。』そうしませんと,それら研究している事柄は,私達の心に十分深く印象づけられず,随意に思い起すことが出来ません。―ヘブル 2:1,新世。

主題と,また若しあるならば,副主題に気を附けなさい。そしてまた両者の間の関係に気を附けなさい。読む時に何が書かれてあるかだけではなく,どのように書かれてあるかにも注意しなさい。よく考え,議論がどのように発展しているかに注意しなさい。何か新しいですか? 或いは,前の時よりも,違つて発表されて居ますか? 用いられているが,引用されていない聖句を読みなさい。その適用に気を附けなさい。それらの聖句は,問題となつている主題に,どんな光りを投げ与えるかということが良く理解出来ますか? 大切な点のところに,あなたは線を引き度く思うことでしよう。また,質問がある記事の場合でしたら,その答えのところに線を引きたいでしよう。あなた自身の言葉で,答えが言えますか? 若し支持するような考え,聖句,または事実を思い出すならば,何故それを欄外に書き記して置いて,会衆の研究に用いないのですか?

長い短いに関係なく,どんな記事にも,大抵の場合は副の見出しがあります。そして,考えの変化を示すか,主要主題についての別の面を示して居ます。続いている節が,どのようにそれと関係しているかに気を附けなさい。一つの記事,または,次の会衆の研究に予定されている部分を研究した後,良く考えてごらんなさい。何が中心の点でしたか? 新しい点でしたか? 私にとつて,何か特別に有益な点でしたか? 今一度,研究の質問を読み返しなさい。質問を読む時に,直ぐ答えが出て来ますか? 研究の一番良いことは,再検討ということを記憶してください。

他の人と一緒に,『ものみの塔』を研究することは,非常に良いことです。他の人と一緒に研究しますと,さほどに心を集中することもなく,よろこびを増し,良く理解することが出来,そして会衆の『ものみの塔』の研究の時には,良く答えを述べることが出来ます。このことは,家族の者が考えるべきことでありましよう。

『ものみの塔』の会衆の研究? そうです。毎週,ヱホバの証者の1万4000の御国会館では1時間が割り当てられて居ります。大抵は,日曜日の午後か夜ですが,『ものみの塔』を用いて聖書を研究します。『ものみの塔』を一人だけ,または,家族の者と研究するだけでは十分でありません。他の人達が質問に答えるのを聞く時に,私達は多くの事を学びます。他の人達は,私達とは異つた,もつと正確な,もつと完全な理解を持つているかも知れません。そのような研究の際に,私達は助けを得るばかりではなく,他の人達を助ける事も出来ます。他の人達は,私達が与えるものを求めて居り,私達は,また,他の人達が与えるものを必要とします。クリスチャン会衆に属している人は,互いに『私は,あなたを必要としない』ということはありません。―コリント前 12:19-22。

聖書の知識と理解は光りと生命を意味します。その知識と理解を得るために,私達は助けが必要です。『ものみの塔』は非常に素晴らしい聖書研究の助けです。始めから終りまで注意深く読むことによつて,『ものみの塔』へ感謝を示しなさい。主要な記事を,個人的に,また家族の者と共に十二分に研究し,それから,会衆の研究へ共に規則的に行くことによつて,『ものみの塔』への感謝を示しなさい。その会衆の研究に於いて,私達は,更に助けを得るばかりでなく,私達は仲間のクリスチャン奉仕者を助けることが出来ます。

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