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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 12/15 741–743ページ

なぜクリスチャンは違っていなければならないか

クリスチャンはこの世とはどんな関係にありますか

ほかの人々のようになることができないのはなぜですか

クリスチャンはこの世に住んでいますが,この世のものではありません。第1世紀のローマ世界は,それを理解することができませんでした。クリスチャンたちは,ローマ世界が行なっていたような崇拝をせず,休日を祝ったり,政治に参与したり,カイザルに香をたいたり,軍隊にはいって戦争をしたり,同じように放縦な行いをしませんでした。そのようにしてこの世から離れていたために,人々はクリスチャンたちをきらい,迫害したのです。クリスチャンたちが,平和で,法律をよく守り,最高の道徳に従う者であったということは,当時の世界にとってはどうでもよいことだったのです。

第2世紀の著述家ターツリアンは,クリスチャンと世の人々とを対照させて,こう述べています,「われわれはだれをも傷つけない。だれをも悩まさない。……われわれは,毎日囚人たちの裁判をし罪を宣告して年を過ごすあなたがたに,あなたがたの記録を提示することを促す。……そのリストにのっているどの暗殺者,どのきんちゃく切り,どの神殿泥棒,わいろを行使した者,いたの間かせぎに,クリスチャンという説明書がついているだろうか。また,クリスチャンたちが,クリスチャンとして告訴されて法廷に引き出される時,彼らの間に,ほかのすべての犯罪者たちと同じ種類の人間がひとりでもいるだろうか。監獄をいつも満たしているのは不信者である。鉱山はいつも不信者の嘆き声でどよめいている。野獣は不信者で養なわれている。見世物師は,罪人の群れをいつも手元においておくことにこと欠かない。その罪人はみな不信者である。クリスチャンとしてでない限り,そのリストにのっているクリスチャンはひとりもない」。

違っている理由

もしクリスチャンたちが,ローマ世界の一部となって,その偶像崇拝的祝祭や,放らつな祝宴,血なまぐさい競技,利己的な職業などに従事していたなら,どうして神に従うことができたでしょうか。クリスチャンになった人々は,考え方,生活の仕方を変えて,新しい人格を身につけねばならなかったのです。エペソのクリスチャンに話した時に,パウロはそのことを指摘しています。「あなたがたは,以前の生活に属する,情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て…」。(エペソ 4:22,新口)この以前の生活に属する行いは,この世では受け入れられましたが,神には受け入れられなかったのです。

パウロは,ガラテヤのクリスチャンたちに手紙を書き送った時,彼らがまだ世の一部であった時の,以前の生活に属する肉の行いをいくつかあげて,こう言いました,「肉の働きは明白である。すなわち,不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである」。これらは,神の御言葉の正しい原則に反するものです。ですから,クリスチャンになった人たちは,神に受け入れられる新しい人格を身につける時に,それらを捨て去らねばならなかったのです。パウロはさらに言葉をつづけてつぎのように述べています,「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行なう者は,神の国をつぐことがない」。(ガラテヤ 5:19-21,新世)ペテロも,いくぶんこれに似た助言を与えています。

クリスチャンの生活をするためにこの世に背を向けた人々に対して,ペテロは言いました,「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけってきたが,もうそれで十分であろう」。この変化で彼らがあまりにも変わってしまったので,クリスチャンになる前の彼らを知っていたローマ世界の人々は,わけがわからなくなってしまいました。ペテロは言葉をつづけて,そのことを述べています。「今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしっている」。(ペテロ前 4:3,4,新口)クリスチャンたちはその行いによって,当時の世から離れ,イエス・キリストの残された模範に従いました。

キリスト教の指導者は,世の人々のように,肉の欲のために自制心を失うようなことはありませんでした。また,政治に参与して,ローマ政府の悪行に間接的な責任をもつようなこともしませんでした。彼は,せいせいするほどその堕落した世界とは異なっていたのです。そして,自分の追随者たちも,そのように世から離れることを期待しました。ある時彼はこう言いました,「わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません」。―ヨハネ 17:16,新口。

クリスチャンと今日の世界

1900年を経たいまも,この世には相変らず悪い考え,不正な行い,暴力行為があります。使徒パウロはそのことをこう預言しました,「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言する者,神よりも快楽を愛する者,……となるであろう」。(テモテ後 3:1-4,新口)今日のクリスチャンたちがこのようであるなら,どうしてそのうえ神の是認を期待し得るでしょうか。神は第1世紀以来その標準を変えておられません。神はいまでも,クリスチャンたちが,この世に似るのではなく,キリストのようになることを要求されています。

今日,クリスチャンであると公言する国はたくさんありますが,それらの国々の国民の考え方や行いは,一般的にいって,ローマ世界の人々のそれとほとんど変わりません。毎日の新聞の報道を見ても,道徳の水準の低さが類似していることは明らかです。犯罪行為ははびこっています。たとえばアメリカでは,1960年に,殺人,強姦,強奪,暴行,強盗,自動車を盗むこと,窃盗などが,186万1300件もあったと警察は報告しています。この数でいくと,50分毎に意識的殺人が行なわれ,39秒毎に強盗が行なわれていることになります。犯罪,不正行為,政治の腐敗は,全世界にわたり,日常茶飯事となっています。ターツリアンがローマ世界の人々に告げたと同じく真のクリスチャンも今日,この世的な人々に対して,「監獄はいつも不信者で満ちている」と言うことができます。

今日,クリスチャンになろうと努力している人々はだれでも,この世と異なっていなければなりません。この世と同じように生活しながら,キリストの模範に従っているなどとどうして主張できるでしょうか。この世の不義な肉のわざを行ないながら,どうしてキリスト教の良い原則に従って生活することができるでしょうか。

使徒パウロが,当時の世について語ったことは,今日にも等しくあてはまります。彼はクリスチャンにこう話しかけています,「そこで,わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になって,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは,そのようにキリストに学んだのではなかった」。(エペソ 4:17,19,20,新口)ということは,クリスチャンは,服装においてではなく,その生活の仕方において違っていなければならないということです。

世の結んだ悪い実は,世の目に見えない支配者である者の影響を反映しています。この支配者は,自から世から離れることによってクリスチャンのために模範を残した,義なる平和の君ではありません。また,正しい律法によってクリスチャンの行為を指導しておられる天のみ父でもありません。パウロの述べるところによると,この支配者は,キリスト教の真理に対して人々を盲目にする者です。「この組織制度の神は,不信者の心をめくらにし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光を輝かせまいとしている」。(コリント後 4:4,新世)使徒ヨハネは,「全世界は悪しき者の配下にある」と述べて,この支配者の正体を明らかにしています。(ヨハネ第一書 5:19,新口)この世が結んだ悪い実は,この世の目に見えない支配者,エホバ神の主要な敵の性質をそのまま反映しています。もしクリスチャンが,この世とその支配者に受け入れられるようにつとめるなら,そのうえ神に受け入れられることをどうして期待できるでしょうか。

異なった道を行く

キリスト教の道と,この世の道とは,異なった方向に向かう違った道です。クリスチャンは,同時に両方の道を歩むことはできません。また,神を愛すると同時に,神の律法を破り,神の戒めを無視し,神の御目的にさからってその僕たちを迫害する制度を愛することはできません。もし世を愛するなら,神に対して愛を持つことは不可能です。ヨハネはこの点をつぎのように指摘しています,「世と世にあるものとを,愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない」。(ヨハネ第一書 2:15,新口)み父を愛するようになると,クリスチャンは自動的にこの世とは違ってきます。神のおきてに従おうとつとめるようになるからです。この道にとどまることによってクリスチャンは,この世と運命を共にしなくてすみます。

ヨハネは,世の運命を示してこう言っています,「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる」。(ヨハネ第一書 2:17,新口)世と世の悪欲が過ぎ去るからには,世の道を歩んでいる者たちも,世と共に過ぎ去ると結論しなければなりません。イエスもつぎのように述べてそのことを指摘されました。「滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い」。(マタイ 7:13,新口)この世の組織制度と,その目に見えない支配者を滅ぼすことは神のみこころです。

生命への道は,エホバ神に対する忠実な献身と服従の道です。それは,神と隣人に対する愛の道です。それは聖書の原則を守り,クリスチャンとしての正しい行いをする道です。公正と善を愛する人々は,たとえそのことが自分をこの世と異なった者にしても,この道を歩みます。そういう人は宇宙の義の支配者に是認されるほうが,不義でいまわしい世の是認を受けるよりもはるかに益があり,ずっと望ましいものであることを認識するようになるでしょう。そして,この世と一致するよりは,真のキリスト教と一致することを望むようになるでしょう。

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