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  • 「わたしたちは知っているものを崇拝している」
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
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「わたしたちは知っているものを崇拝している」

「あなたがたは自分の知らないものを崇拝しているが,わたしたちは知っているものを崇拝している」― ヨハネ 4:22,新。

1 (イ)人間はすべて,何を崇拝したいと思うものですか。この点で自分は例外である,と唱える人はどんな影響を受けますか。(ロ)崇拝に関して,どのように自問するのは賢明ですか。

人間はすべて,だれかを,あるいは,何かを崇拝したいと思うものです。自分自身を崇拝する場合すらあります。「わたしは,だれをも,何ものをも崇拝などしていない!」と苦々しく言う人は,実際には自分自身を崇拝しています。そのような人は,人間である自分自身を神としていながら,自己中心癖のため,その事実に気づいていないだけです。そして,有生無生を問わず,自分は何ものをも崇拝してはいない,という思い上がった考えを誇りとしています。そうした考えは,当人になんの益ももたらさず,当人の自由を拡張することもなければ,責任を軽減させもしません。それどころか,当人に危害を,場合によっては,永遠の滅びをもたらすことさえあるのです。なんらかの崇拝をささげて,永続する益にみずからあずかるには,自分が崇拝しているものを知る,つまり,知っているものを崇拝するのが賢明です。次のように自問するのは賢明といわねばなりません。わたしは知っているものを崇拝しているのだろうか。それとも,信仰の有無を問わず,自分の仲間や自分自身に対して,「あなたがたは自分の知らないものを崇拝している」と言えるのだろうか。後者の場合,あなたは知らないものを崇拝していることになります。

2 (イ)宗教建造物を一歩出ると,多くの人はどんな事がらに関し,たいへん感情的になりがちですか。(ロ)サマリア人の女は,自分の知らないものを崇拝している,と言われたとき,どのように答え応じて,益を受けましたか。

2 こうした宗教問題は,たいていの人にとって,きわめて感情的になりやすい事がらです。急進的な人々や共産主義者どころか,キリスト教世界の教会員さえ教会堂を出れば,信心深い人とされることを恥じます。宗教を異にする人と話していて,ちょっとでも宗教的問題にふれようものなら,たちどころに,「わたしにはわたしの宗教があります!」と言うなり,話をやめる人が数多くいます。一方,だれかが宗教に関する論義を述べるのを聞いてから,「あなたの宗教はあなたにとって真理ですし,わたしの宗教はわたしにとって真理ですから,わたしの宗教を変える必要はありません」と言う人も多数います。しかし,そうした態度を取る人は,いずれも次のように自問するのが賢明でしょう。もし,だれか自分の話していることをちゃんとわきまえている人から,「あなたがたは自分の知らないものを崇拝している」と言われたなら,わたしは憤慨するだろうか。宗教を異にする人から,初めてそのとおりのことを言われた女は,憤慨しませんでした。憤慨しなかったので,そのことばは彼女に益するものとなりました。その女はその機会を捕えて,さらに質問し,その結果,自分に話をした人が,なぜそう言いえたのかを知りました。

3 サマリア人の女は,そうした事がらを自分に告げたその男の人に,いつ,どこで会いましたか。

3 その女は中東の人で,サマリア人として知られている,地方の部族のひとりでした。ある日の正午,彼女は,スカルの町の近くの,とある深い井戸のかたわらに腰をおろしていた,問題の博識の男の人に出会いました。時は西暦30年,サマリア人が,かつて自分たちの神殿の立っていたゲリジム山の近くで,過ぎ越しの祭りを祝った少しのちのことでした。今日でも,ゲリジム山にはサマリア人の小集落があって,彼らは自分たちの宮の中にモーセの五書(預言者モーセが書いた,聖書巻頭の五書)の古い写本を保存しており,その写本は現存最古の写本であると唱えています。また,その宮の近くに深い井戸があり,そのサマリア人の女が問題の人物と出会ったのは,まさしくその井戸のかたわらであったとされています。その井戸の左手に立っている鉄格子には,モーセの神の名,すなわちエホバあるいはヤーウェを表わす,ヘブル語アルファベットの4文字が刻まれています。今日,そのすべては建物の中に保存されており,観光客の訪問を受けています。

4,5 (イ)その井戸のそばで,話がかわされたのは,なぜ驚くべき事がらでしたか。(ロ)その男の人のことばに動かされて,女はどんな宗教問題を持ち出しましたか。

4 問題の男の人は,当時,サマリア人がいっさい関係を持たなかった種族の出身者だったので,話しかけられたそのサマリア人の女は不思議に思いました。そうした人種的な偏見のない態度に感銘を受けたのです。いみじくも,モーセの祖父の祖父にあたる族長ヤコブが掘った,ゆい緒深い井戸のかたわらで,その人は彼女に,新しい事がら,つまり,一度飲んだら二度とかわきを覚えることのない,「活ける水」について語りました。そして,その女のきわめて私的な事がらに関する事実を,あからさまに告げたのです。そのことで気持ちを動かされた女は,当時の宗教上の問題に関して彼に尋ね,こう言いました。

5 「主よ,我なんぢを預言者とみとむ。我らの先祖たちは此の山にて拝したるに,汝らは拝すべき処をエルサレムなりと言ふ」― ヨハネ 4:1-20。

6 その男の人は,彼女の民および彼自身の民の携わる崇拝と,後代の崇拝について,彼女になんと告げましたか。

6 その男の人は彼女の問いにこう答えました。「女よ,わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが,この山でも,また,エルサレムでもないところで父を崇拝する時が来ようとしている。あなたがたは自分の知らないものを崇拝しているが,わたしたちは知っているものを崇拝している。なぜなら,救いはユダヤ人から始まるからである。それにしても,真の崇拝者たちが霊と真理とをもって父を崇拝する時が来ようとしている。そして,それは今である。確かに,父は,そのようにご自分を崇拝する者を求めておられるからである。神は霊であるから,彼を崇拝する人々は,霊と真理とをもって崇拝しなければならない」― ヨハネ 4:21-24,新。

7,8 (イ)井戸のそばにいたその男の人はだれでしたか。女はそのことをどのようにして知りましたか。(ロ)その男の人,つまりイエスに関し,スカルの町の人々はどんな結論に達しましたか。それは正しい結論でした。その理由を述べなさい。

7 それほどの権威をもってサマリア人の女に語りえた男の人は,いったいだれでしたか。その女は,ギリシア語を話すユダヤ人がキリストと呼んだ,メシヤに信仰を持っていたことを示すとともに,崇拝に関する種々の問題すべてを最終的に結着させる,メシヤもしくはキリストを待ち望んでいました。それで,こう言いました。「我はキリストと称ふるメシヤの来ることを知る,彼きたらば,諸般のことを我らに告げん」。しかし,神なる父を崇拝する場所また方法に関する問題は,そのサマリア人の女に,すでに明らかに告げられていたと言えます。というのは,その男の人は,「なんぢと語る我はそれなり」と,彼女に語ったからです。その女がもう3年生きていたなら,その男の人こそ待望の,油そそがれた,神のメシヤであることを実証する,さらに詳細な事実,否定できない諸事実を知ったことでしょう。ところで,地上におられた,その人の名前はイエスでした。それは,「エホバの救い」という意味です。それで,彼はイエス・キリストと呼ばれたのです。―ヨハネ 4:25,26。

8 それはまさにニュースでした! それに,今や,昼食のための食物を携えた12人の仲間たちが,その人のもとに来たので,サマリア人の女は水がめを井戸のそばに置いて,スカルの町に引き返し,その住民にこう告げました。「来りて見よ,わが為しし事をことごとく我に告げし人を。この人,或はキリストならんか」。サマリア人は実際に見聞きしようとして,やってきました。そして,その男の人に,自分たちの所に二日とどまってもらいました。人々はどんな結論に達しましたか。その男の人は,単に当時のサマリア人と没交渉だったユダヤ人のメシヤなる救い主であるとの結論に達するどころか,その女にこう語ったのです。「今われらの信ずるは汝のかたる言によるにあらず,親しく聴きて,これは真に世の救主なりと知りたるゆえなり」。(ヨハネ 4:28-30,39-42)3年後,それらサマリア人が正しかったこと,つまり,イエス・キリストが全人類の救い主であられることを実証する歴史的な事実が提供されました。彼は,そのサマリア人の女に語っておられたことの意味を,よく知っておられたのです。

「わたしは知っているだろうか」が問題

9 今日,イエスが地上におられるとすれば,イエスはわたしたちを,自分の知っているものを崇拝する人々の中に,それとも,知らないものを崇拝する人々の中に含められるでしょうか。この問題で決着をつけるのはなぜ重要ですか。

9 仮にイエス・キリストご自身が今日地上におられて,信仰を持つある一群の人々に,「あなたがたは自分の知らないものを崇拝しているが,わたしたちは知っているものを崇拝している」と言われたとしましょう。「わたしたちは知っているものを崇拝している」と言う人々の中に,イエスは,わたしたちをもともに含めてくださったのでしょうか。それとも,信仰を持ちながら,自分たちの崇拝しているものが何かを知らない,その一群の人々の中にわたしたちを含めておられたのでしょうか。だれを,あるいは何を崇拝するかに関し,理知的な決定を下す必要に迫られている,今日のわたしたちにとって,その答えはきわめて重要です。なかには,みずからにたより,かたくなな誇りをいだいて,「わたしはだれをも,何ものをも崇拝してはいないし,神をも人間をも恐れていない」と言って,自分自身を欺く人がいます。しかし,やがて事実が明るみに出て,人がだれを,または何を崇拝しているかは,おのずから明らかになるものです。

10 今日,多くの人は,聖書の神として,どんな神を崇拝していると唱えていますか。

10 仏陀や,ヒンズー教の3億3,000万の神々の一つ,あるいは回教徒のアラー,または現代のユダヤ人の神のいずれでもない別の種類の神,つまり,人種や国家的な関係を全然持たない無名の神を崇拝している,と唱える人が多数います。つまずきとなる,人種的また国家的な結びつきがないので,だれでもその神を崇拝できます。今日,多くの人は,その無名の神が聖書の神である,と唱えています。

11,12 (イ)イエスが行なわれたような崇拝をする人は,自分の知っているものを崇拝していることになります。なぜですか。(ロ)サマリア人は,自分たちの崇拝していたものを知ってはいませんでした。なぜですか。救いはどのようにしてユダヤ人から始まりましたか。

11 したがって,わたしたち各人は,次のように自問しなければならないことがわかります。わたしは,19世紀前のサマリア人のように,自分の知らないものを崇拝しているのだろうか。それとも,メシヤのように,知っているものを崇拝しているのだろうか。地上におられたメシヤが知っていたものを,わたしたちが崇拝しているのであれば,わたしたちには救いがもたらされることになります。なぜなら,そうである,とメシヤご自身が言われたからです。天の父についてサマリア人の女に話をしたメシヤは,天の父をよく知っておられました。その証拠に,こう言われました。「父をしる者は子また子の欲するままに顕すところの者のほかになし」。(マタイ 11:27)『父は我を知り,我は父を知る』。―ヨハネ 10:15。

12 メシヤがこのことを言われた当時,エルサレムの宮で崇拝を行なっていた国民は,神の用いられた仲介者であった預言者モーセを通して,エホバ神と厳粛な約定つまり契約を結んだ民でした。サマリア人は,モーセの五書,つまり,モーセの著わした聖書巻頭の五つの本を信じている,と唱えてはいましたが,神と国家的な契約を結んでいたわけではありませんでした。彼らは,霊感の下にしるされた聖書の残りの部分を退けたゆえに,正しい山で崇拝を行なってはいませんでした。また,霊感の下に著わされた書物全巻によってご自身を啓示された,エホバ神を正しく知っていたわけでもありません。ですから,イエスはサマリア人に向かって,「あなたがたは自分の知らないものを崇拝している」と正しく言うことができました。しかしイエスは,ご自身と,地上でその一員として属していた国民については,「わたしたちは知っているものを崇拝している。なぜなら,救いはユダヤ人から始まるからである」と言うことができたのです。(ヨハネ 4:22,新)肉の人としてのイエス・キリストは,割礼を受けたユダヤ人でしたから,それも当然です。また,それは,スカルのサマリア人たちがイエスについて,「この人こそまことに世の救主であることが,わかった」と語ったとおりです。―ヨハネ 4:42,口語。

13 人種的な偏見を持つ人々は,イエスのことばにどう応ずる場合がありますか。どんな質問をする場合がありえますか。

13 人種的な偏見を持つ,今日の人々の多くは,「救いはユダヤ人から始まる」と語ったイエスのことばに,つまずくかもしれません。そして,こう尋ねるかもしれません。「それでは,まことの神を崇拝したいと思う人は,ユダヤ教を奉じて割礼を受け,ユダヤ教の会堂に通い,また,エルサレムに巡礼をしなければならないのですか」。

14 サマリア人の女に語ったイエスのどんなことばが,そうした質問に答えるものとなりますか。

14 それでは,メシヤであられるイエスが,サマリア人の女に告げたことから何を学べますか。そのことばを聞いてください。「女よ,わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが,この〔ゲリジム〕山でも,またエルサレムでもないところで,父を崇拝する時が来ようとしている。……それにしても,真の崇拝者たちが霊と真理とをもって父を崇拝する時が来ようとしている。そして,それは今である。確かに,父はそのように崇拝する者を求めておられるのである。神は霊であられるから,神を崇拝する人々は,霊と真理とをもって崇拝しなければならない」― ヨハネ 4:21-24,新。

15 (イ)イエスのことばは,何が生じようとしていたことを示すものでしたか。それはどうして今日に至るまで生じていると言えますか。(ロ)ではいったい,真の崇拝者にとって重要なのはなんですか。

15 このことばは,徹底的な変化が生じようとしていることを示すものでした。その後,40年を経て,エルサレムの都はチッス将軍の率いるローマ軍に滅ぼされ,以来,今日まで,エホバ神の崇拝のためのその神殿は,再興されませんでした。次の世紀になって,異教を奉ずるローマ人の手で,その場所に都市が建てられ,やがて,いわゆる“キリスト教”の都となり,キリスト教世界の人々にとって巡礼の地となりました。さらに後代に至って,そこはマホメット教の都となり,かつてのユダヤ人の神殿の跡に回教寺院が建立され,そこで回教徒たちが崇拝を行ないました。今日でもその回教寺院は,依然としてそこにありますが,現在,エルサレム全市は,イスラエル共和国を構成するユダヤ人の手中にあります。しかしこのすべても,“真の崇拝者”にとっては重要な事柄ではありません。彼らは,地上のエルサレムであれ,あるいはバチカン市を含めて,多数の宗教家によって神聖視されている,他の地上のどんな都であれ,そのような場所でエホバ神を崇拝する必要はないのです。地上の特定の場所が彼らにとって重要なのではありません。彼らがぜひとも行なわねばならないのは,イエスがサマリア人の女に語ったことばによれば,霊と真理とをもって天の父を崇拝することです。天の父は霊,つまり霊者であられ,どこか地上の1か所に閉じ込められるべきかたではありません。

16 イエスのことばによれば,何をもって天の父を崇拝しなければなりませんか。それはなぜですか。

16 したがって,霊的な存在であられる天の父を崇拝するのは,肉体的つまり身体的な接触によるものではありません。真の崇拝者は,目に見える,つまり物質的な事物や地理上の場所の存在,もしくは使用にたよるのではなく,視覚もしくは触覚ではなくて,信仰を働かせる,正しい態度を持たねばなりません。つまり,身のまわりの場所,あるいは事物にはかかわりなく,清い崇拝を行ないたいという気持ち,また衝動を持たねばならないのです。そして,崇拝に際しては誠実さを表わさねばならず,また,全心臓をもって崇拝をしなければならず,さらに,真理を持っていなければなりません。天の父が求めておられるのは,キリスト教世界および他の宗教制度の幾百もの宗派の,互いに矛盾する教えや伝統に基づいてご自分を崇拝する人々ではなく,天の父からの真理を求め,真理に基づいて,ご自分を崇拝する人々です。人間は,真理なしで,神として自分が崇拝しているものに関し,いったいどんな考えを持つことができるのですか。神に関しては,無数に異なった考え方が存在しているのです。

17 (イ)真理をもって神を崇拝することは,真理に関してわたしたちに何を求めるものとなりますか。(ロ)イエスご自身の属していた国民は,イエスが知っておられたものに,イエスとともにあずかっていたのではないことをどのように示しましたか。

17 神に関する真理は漸進的なものであり,真の崇拝者は,その進展に歩調を合わせることによって,真理に対する愛を示さねばなりません。肉においてイエスご自身が属しておられた国民についてはいかがですか。イエスは,その国民に関し,「わたしたちは知っているものを崇拝している」と語りつづけることができたでしょうか。そうすることなど,どうしてできたでしょう? 当時の人々の大多数が従った,その国民の宗教指導者は,イエスが約3年間,「神の王国は近づいた」という音信を伝道するのを聞いたのち,神に関してイエスとは考えを異にしていることを示しました。また,彼らは霊感の下にしるされた聖書からイエスが指摘された事柄よりも,宗教的な伝統や人間の教えを好んでいることを示したのです。そして冒涜の罪でイエスを告発し,凶暴にも,彼を殺そうとしたのです。ついには,エルサレムの彼らの最高法廷が,神を冒涜する者としてイエスに死刑の宣告を下しました。彼らは,ローマ総督ポンテオ・ピラトに向かって,自分たちの律法によれば,イエスは冒涜の罪ゆえに死すべき者である,とさえ語りました。しかし,エルサレムでローマ総督に権威を執行させて,イエスを処刑させるため,彼らは,政治的な扇動のかどで,イエスを告訴したのです。こうしてイエスは刑柱の上で死刑に処されました。ゆえに彼らは,イエスが知っておられたものを,イエスとともに崇拝していたのではありませんでした。

18 神によって退けられたのはだれでしたか。イエスでしたか。それとも,ユダヤ国民でしたか。このことはどのように示されましたか。

18 わたしたちはその古代の国民の,そうした行動に同調できますか。イエスが崇拝された,その同じ神,つまりイエスが知っておられた,その神を崇拝したいのであれば,そうすることはできません。今日に至るまで,その国民の子孫は,自分たちの先祖がかつてイエス・メシヤに対して取った態度を捨てておりません。彼らは,イエスの音信を退け,イエスが待望のメシヤであることを示す証拠として与えられたものをも拒みました。その代わり,“聖都”エルサレムと,その壮麗な神殿が滅ぼされ,かつ,ユダヤ人によっては決して再建されないことを述べた,イエスの預言の成就を,いやおうなく受け入れさせられました。まさにイエスのことばどおり,エルサレムと,その神殿の恐るべき崩壊は,その当時の“世代”のうちに,すなわち西暦70年に生じました。(マタイ 24:1-34)こうして,ユダヤ人がその成就をはばもうと熱狂的に努めたにもかかわらず,エルサレムは,唯一の生きるまことの神を崇拝する場所ではなくなってしまいました。今日,その都を,著名な神に一致した崇拝をささげるところとするにふさわしい,ユダヤ人の神殿さえ,そこには立っていないのです。しかし,この著名な神の真のメシヤなる預言者としてのイエスの真実さは,ぬぐうことのできない歴史上の諸事実によって立証されているのです。したがって,この著名な神によって退けられたのは,イエスではなく,イエスを退けたその国民でした。

19 (イ)しかし,わたしたちは,当時の人々の歩みに従うという点で,ユダヤ国民の仲間となるのでなければ,だれの仲間にならなければなりませんか。(ロ)救いはどんな経路を通して,いつ異邦人にもたらされましたか。

19 ゆえに,「救いはユダヤ人から始まる」とイエスが言われたのは,永遠の救いが現代のその国民によるとか,割礼を受けて,その改宗者,もしくは成員にならなければならない,ということを意味するものではありません。わたしたちは,メシヤを退けた,その国民の仲間となるのではなく,西暦33年にイエス・メシヤを受け入れて,その忠実な追随者となった,幾千人かの生来のユダヤ人の『残れる者』の仲間とならねばなりません。(ロマ 11:1-7)死からよみがえらされたイエスは,昇天する前に,信仰をいだいたそれらユダヤ人の『残れる者』の最初の成員を集められました。ペンテコステの日(西暦33年シワン6日),神はイエス・キリストを用いて,ユダヤ人の『残れる者』のそれら最初の成員に,天から聖霊をそそがれました。こうして彼らは,真正な崇拝の「霊」のみならず,神の聖霊の助けおよびその聖霊によって啓示された「真理」をもって,神を崇拝することができたのです。(使行 2:1-47)その後,西暦36年,これらユダヤ人の残れる者は,神からの救いの音信を異邦人,つまり非ユダヤ人に伝えたのです。(使行 10:1–11:18)ゆえに彼らは,救いを異邦人にもたらす経路となりました。

20 (イ)エルサレム崩壊前の危機の時に際し,ユダヤ人のクリスチャンは何をしましたか。そのために,自分たちの知っている神を崇拝する場所を失いましたか。(ロ)キリストを通して神からの救いを得たいと願うなら,わたしたちはだれの側に立たねばなりませんか。

20 後日,イエスの予告された,エルサレムの崩壊が生ずる前の危険な時に臨んでも,このユダヤ人の残れる者の成員は,エルサレムに戻って,なんらかの祭りを祝うことも,またエルサレムにとどまることもしませんでした。逆に彼らは,そうすることを避け,真の預言者としてイエスが警告されたとおりに,エルサレムとユダヤからのがれました。そうすることによって,彼らは,西暦70年にエルサレムとその神殿もろとも滅ぼされることを免れたのです。(マタイ 24:15-22。ルカ 21:20-24)しかしそのために,自分たちの知っている神を崇拝する,正しい場所を失ったわけではありません。それどころか彼らは,神の真の神殿で引き続き神を崇拝しました。その神殿とは,人手によって作られたものではなく,また人手によっては決して滅ぼされない神殿です。(ヘブル 8:1,2)イエス・キリストがサマリア人の女に,「わたしたちは知っているものを崇拝している。なぜなら,救いはユダヤ人から始まるからである」と語ったこのことばを,西暦33年のペンテコステ以後も引き続き語りえたのは,これらユダヤ人の『残れる者』に関してでした。(ヨハネ 4:22,新)今日,神のメシヤ・イエスを通して,神からの救いを得たいと願うなら,退けられたその国民の側にではなく,これらユダヤ人の『残れる者』を,あたかも今なお生存しているかのようにみなして,この『残れる者』の側に立たねばなりません。

わたしたちが何を崇拝しているかを知る方法

21 (イ)わたしたちは,知っているものを崇拝することに関し,どの程度知る必要がありますか。それはなぜですか。(ロ)この点でサマリア人はなぜまちがっていましたか。

21 わたしたちが,「知っているものを崇拝」するということは,わたしたちが知っている神を崇拝するという意味です。そのかたは架空の神ではありません。もしわたしたちが架空の神を崇拝しているのであれば,イエスはわたしたちに対して,「あなたがたは自分の知らないものを崇拝している」と言うことができるでしょう。まことの神に関してでさえ部分的な事実を受け入れるだけで,その後,そのかたに関して十分に啓示された真理を受け入れないなら,どうなりますか。わたしたちは,神に関する不完全な理解しか持っていないことになります。事実,神に関するゆがんだ考えを持つことになり,わたしたちが崇拝するのは,実際には,まことの神ではなくなります。わたしたちは知らないものを崇拝しているのです。つまり,実在しないだれかを崇拝していることになるのです。西暦1世紀当時のサマリア人の問題は,この点にあったのです。彼らは,預言者モーセが霊感を受けてしるした,聖書巻頭の五書を受け入れていました。しかし,かたくななことに,霊感の下にしるされたヘブル語聖書の残り34冊の本に含まれている,エホバ神に関するさらに詳しい啓示を受け入れることは拒みました。したがって彼らは,エホバ神に関して不完全で,まちがった概念をいだいていました。サマリア人が,エルサレムの神殿にのぼって崇拝することを拒み,ゲリジム山で崇拝を行なっていたのはそのためです。彼らは,神の働きと真理に関する歴史上の最新の記録を受け入れませんでした。

22 イエスが生来一員として属しておられた国民にも同様のことが生じました。そのいきさつを述べなさい。

22 イエス・キリストが生来一員として属しておられた国民についても,同じことが言えます。彼らは,霊感の下にしるされた,当時までのヘブル語聖書全巻,すなわち律法と預言書および詩篇を受け入れている,と唱えましたが,イエス・キリストから指摘されたとおり,自分たちの伝統や,霊感を受けない単なる人間の教えによって,神の戒めを無効なものにしていました。(マタイ 15:1-9。ルカ 24:44,45)そのうえ,霊感の下にしるされたヘブル語聖書の数々の預言が,イエス・キリストに成就したことを悟ろうとも,認めようともしませんでした。したがって,イエス・キリストを聖書に予告されたメシヤとして受け入れませんでした。このことと一致して,彼らは,ペンテコステの日に神の聖霊を受けた,信仰のあるユダヤ人の,『残れる者』に協力しませんでした。さらに,聖書の最後の部分,すなわち,イエス・メシヤの忠実な使徒や弟子たちが,霊感を受けてギリシア語で書いた聖書を受け入れなかったのです。これら不信仰なユダヤ人に関しては,神からの霊感および真理の啓示が,マラキ書および歴代志略をもって終わったため,彼らは,マタイ伝から黙示録までの本を,霊感の下にヘブル語聖書に付け加えられたものとはみなしませんでした。

23,24 その結果として,彼らが崇拝している神は崇拝者に十分知られている神ではないことがわかります。どうしてそういえますか。

23 このことは,西暦70年にエルサレムの都とその神殿を滅ぼされ,こうして祭司職も廃業するはめに陥った,この国民に何をもたらしましたか。神に関する誤った考えをもたらすことになりました。彼らは,今日に至るまで,約束も預言も果たすことのない神を崇拝しているのです。そして,「アブラハムの子,ダビデの子」であるイエス・キリストという,約束のメシヤをつかわされた神ではない,別の神を崇拝しています。(マタイ 1:1)また,ご自分のメシヤを死からよみがえらせ,『主またキリスト』として,天でご自分の右の位につけられた神ではない,別の神を崇拝しています。(使行 2:22-36)また彼らは,モーセよりも偉大な仲介者,つまりイエス・メシヤを介して,新しい「神聖な国民」すなわち,「神のイスラエル」と「新しい契約」を結ばれた神ではない,別の神を崇拝しているのです。―エレミヤ 31:31-34,新。申命 18:15-18。使行 3:20-24。ヘブル 8:7-13。テモテ前 2:5,6。

24 ゆえに,彼らが崇拝しているのは,終わることのない平和と正義をもたらす政府をもって,全人類を祝福するため,全地を治める,メシヤによる王国を建てる目的で,ご自分のメシヤを今や再びつかわされる神ではありません。(サムエル後 7:4-17。イザヤ 9:6,7。ダニエル 2:44; 7:13,14)その結果,ユダヤ国民は,まことの神を崇拝してはいません。しかし,彼らの忠実な先祖たちは,まことの神を崇拝していたのです。

25 使徒パウロは,自分の属していた国民が神に対していだいていた熱心さに関し,なんと述べましたか。したがって,彼らは今日でも何を崇拝していますか。

25 このユダヤ国民に関して,クリスチャン使徒パウロは次のように書きました。パウロ自身かつては,ユダヤ人の残れる者のクリスチャンの迫害者でした。「兄弟たちよ,わたしの心臓からの善意と,彼らのために神にささげるわたしの願いは,確かに,彼らが救われることである。なぜなら,彼らが神に対して熱心であることを,わたしは証するが,その熱心は正確な知識に基づいていないからである。というのは,神の義を知らず,自分の義を立てようとしているので,彼らは神の義に服さなかったからである。それというのも,キリスト〔つまりメシヤ〕は律法の終わりであられ,それゆえ,信仰を働かす者は,みな義を得るからである」。(ロマ 10:1-4,新。テモテ前 1:12-16。ガラテヤ 1:13,14)では,かつて恵みを得ていたにもかかわらず,そのメシヤの神を退けているユダヤ国民については,なんと言うことができますか。彼らの宗教的な熱心は,「正確な知識に基づいていない」とともに,彼らは,自分たちの知らないものを崇拝しているのです。彼らは,霊感の書であるクリスチャン・ギリシア語聖書の神を崇拝していません。この神は,霊感の下にしるされたヘブル語聖書の神と同じかたです。

26,27 “三位一体”を奉ずるキリスト教世界は,自分たちの知っているものを崇拝していますか。どうすればその正しい答えが得られますか。

26 それでは,いわゆる三位一体の神の崇拝を行なっているキリスト教世界は,自分たちの知っているものを崇拝しているのでしょうか。それとも,自分たちの知らないものを崇拝しているのですか。このことは,どうすればわかりますか。霊感の書であるヘブル語聖書とクリスチャン・ギリシア語聖書を調べればわかります。この二つがいっしょになって,1冊の霊感の書である聖書ができているからです。

27 聖書の,二つの部分のいずれを調べても,「三位一体の神」あるいは,「三位一体」ということばは出ていません。また,「父なる神,子なる神,聖霊なる神」と呼ばれる,いわゆる,「三つの位格を持つ神」という考えを支持する論証は聖書のどこにもありません。それとはまさに対照をなすものとして,「すべての戒めの中で,どれが第一のものですか」という質問に答えて,イエス・キリストはこう言われました。「第一の戒めはこれである。『イスラエルよ,聞け。わたしたちの神エホバは,おひとりのエホバである。あなたは,あなたの心臓をつくし,あなたの魂をつくし,あなたの思いをつくし,あなたの力をつくして,あなたの神エホバを愛さねばならない』」。この答えの中でイエスは,モーセの五書の申命記 6章4,5節を引用されました。(マルコ 12:28-30,新)しかし,キリスト教世界は,エホバという名前の唯一の神を崇拝することを求めた,この“第一の”戒めに従っていません。

28 神に関するキリスト教世界の考えは,どのようにいろいろ異なっていますか。救いはキリスト教世界によってもたらされますか。

28 それでは,キリスト教世界はどうして正しい崇拝を行なっていると言えますか。キリスト教世界は,たとえ認めないにしても,神に関する異教の考え,つまり,三つ組の神を崇拝しているのです。神に関するキリスト教世界の考えは,その分裂した幾百もの宗派ほどに異なっています。キリスト教世界は,自らの知らないものを崇拝しています。このことを否定できる人がいますか。したがって,キリスト教世界は,救いをもたらすものではありません。

29 神の意志は,あらゆる種類の人がどんな知識に至ることですか。ゆえに,わたしたちは,知っているものを崇拝するよう,だれの導きを受けますか。

29 幸福な永遠の命への救いは,イエスおよびその真の追随者たちの知っている,まことの神を崇拝することによるのです。そうした追随者のひとり,使徒パウロは,神からの霊感を受けて,次のように書きました,「これは,わたしたちの救い主であられる神のみまえに,りっぱな,かつ,受け入れられることである。神の意志は,あらゆる種類の人が救われて,真理の正確な知識に至ることである。というのは,神はおひとりであり,神と人とのあいだの仲介者もひとりであって,それは,人間キリスト・イエスだからである。彼は,すべての人のための,対応するあがないとして,ご自身を与えられた」。(テモテ前 2:3-6,新)「仲介者なるものは,一方だけに属する者ではない。しかし,神はひとりである」。(ガラテヤ 3:20,口語)ゆえに神は,ご自分の「新しい契約」の一方の当事者であられ,その新しい契約に入れられた人々は,他方の当事者,つまり,その取り決めの他方の側を構成します。そのような人々は,『神と人とのあいだのひとりの仲介者』を通して,『真理の正確な知識』に至ることができるのです。その仲介者は,かつて,人間として,しかも完全な人間としてこの地上におられました。そして,人間としてのその完全さと,罪のない状態のゆえに,「すべての人のための,対応するあがない」として,ご自身を与えることができました。その仲介者とは,メシヤなるイエスすなわちキリスト・イエスです。彼は,ご自分の知っている神にとりなしをするかたですから,「知っているものを崇拝」する,つまり,神を崇拝するよう,わたしたちを導いてくださるのです。

[103ページの図版]

イエスはサマリアのとある井戸のかたわらで,ひとりの女に,彼女は自分の知らないものを崇拝している,と言われた。あなたは,自分の知らないものを崇拝しておられるのであろうか。それとも,あなたは知っているものを実際に崇拝しておられるのであろうか。

[108ページの図版]

自分たちの神として,三位一体の神を崇拝し,しかも,三位一体を「奥義」とみなす人々は,「はたして,自分たちの知っているものを崇拝している」と言えるであろうか

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