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読者よりの質問ものみの塔 1954 | 4月15日
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時地上の諸族はその上に襲いかかつた破滅の故に,自身の悪事を悔いてではなく自身の陥つた窮地を嘆き悲しむでしょう。その時にこそ,遅くとも凡ての眼はキリストがハルマゲドンの破壊を齎らされて居り,キリストが臨在されていること,そしてヱホバが最高至上者であられることを知るでしよう。―テサロニケ後 1:6-10; 2:8。
これらのうちの或者は,どのようにキリストを象徴的に刺し貫くのでしようか。今日地上にあるキリストの追随者達を迫害することに依つてです。再臨在の時にイエスは牧羊者が羊と山羊とを分けるように人々を分けられるであろうと予言されました。羊は生命を与えられます。彼らはイエスが飢えて居られた時に食事を,渇いて居られた時に飲物を上げ,さすらい人であつた時に泊め,裸で居られた時に着せ,病気で居られた時に見舞い,牢舎に居られたときに訪ねてあげたからです。然しキリストが実際に居られ,羊からそのような待遇を受けられたのではありませんから,羊は何時これらの事をキリストにしてあげたでしようかと尋ねました。キリストは答えられて「私の兄弟の最も小さい者の一人にしてくれたことは,つまり私にしてくれたのである。」山羊は罪に定められました。彼らはこれらの事を一つもキリストの為にしなかつた,つまりキリストの追随者達にこのような親切な行いを一つもしなかつたからです。(マタイ 25:31-46)タルソのサウロがキリストの追随者達を迫害していた時に,イエスは奇蹟的にサウロに現われて言われました。「サウロよ,サウロよ,何故に私を迫害するか」サウロはその声の主が誰であるかを尋ねましたが,夫は答えて「私はあなたが迫害するイエスである。」(使徒行伝 9:4)故にキリストの追随者達を迫害し,刺し貫くことに依つて,今日地上の人々は「キリストを刺し貫いた者」として分けられるのです。
◯ ヘブル書 4章12節は何を意味しますか? 特に魂と霊を分けるとはどういう意味ですか? ― 一読者より。
ヘブル書 4章12節(新世)は,次のようです『神の言葉は生きており,力を持ち,いかなる両刃の剣よりも鋭く,そして刺し貫いて魂と霊を分け,関節と骨髄とを分け,心の考えと思いを見分けることができる。』神の言葉は生きており,私たちの考え方と生活の仕方を変えます。そして神の言葉の真理を,頭と心の中に持つことは,力ある影響を私たちの内部に及ぼすものです。神の言葉は死んだ言葉ではなく,その興味と真実なることはまだ失われず,その実際的なこともそして現在の出来事についての正しい説明も失われていません。また,近頃の不道徳な時代の堕落に対する保護の力も失われていません。神の言葉は力と生命を持つており,確信を与えるものです。この世の心理学者がするよりも,ずつと鋭く神の言葉は,私たちを刺し貫いて見分け,私たちが何を考えているかを示すものです。神の言葉は死んだ文字ではなく,その原則はいまでも行われ,その裁きは実際に行われます。
神の言葉は,人の行いのたゞ表面を見るだけで止まりません。それは,その表面の下を刺し貫き,動機と態度を見分け,肉の慾と心の気質の間を分けます。人間の中に,肉の慾と心の気質の二つの力があることについて,パウロはこのように示しています『心では,私自身神の律法への奴隷であるが,肉では罪の律法への奴隷である。』(ロマ 7:5新世)パウロは,心では神の律法に仕えましたが,肉では罪の律法に仕えました。肉と血の人間の魂として生活する人の生活は,人の心の態度または霊とは違うでしよう。ヘブル書 4章12節は,個人の生活,すなわち人の魂と,心と気持の態度及び心の性向の間を区別しているのです。この聖句の中で,『魂は』肉の有機体の生命を意味し,『霊』は個人の心の気質または気持の態度を意味します。クリスチャンは,その行いをいつも心の中の動機に照らして調べるべきです。そして間違えることがあつても,それは肉の弱さからなされたのであつて,心の状態が悪いために,自分の意志で決定してなされたものでないと確めるべきです。神の言葉は私たちを助けて,自分自身を見分け調べさせます。そして,私たちの行いの背後にある態度と心の思いにまで刺し貫きます。それで,私たちの生活が完全ではない時でも,態度と心の思いが清いことを確めます。ヱホバはこれらすべてのことを考えられます。そして私たちの内も外も見ます。なぜならば,『すべてのものは,あらわであり,神の目の前にはつきりと曝露されている。そして私たちは,神と関係を有しているのである。』― ヘブル 4:13,新世。
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苦しみの中にあつて伝道するものみの塔 1954 | 4月15日
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苦しみの中にあつて伝道する
フランスの一人の兄弟は,自動車の事故で両足にひどい火傷をうけました。病院で43日間,非常に痛くて苦しみましたが,できるだけ看護婦に証言しました。その兄弟は死にましたが,看護婦は兄弟の信仰と勇気に深く心を打たれましたので,ヱホバの証者たちと交わるようになりました。いまではその看護婦は洗礼をうけ,御国の伝道者です。
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