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  • エホバの証者が困難な状態下で働く国々からの報告
    ものみの塔 1963 | 8月15日
    • ある収容所には300人以上の兄弟がいました。収容所の中においてさえ,共産主義者は福音の力を恐れています。それで,収容所の中では,エホバの証者が牧師や宗派心の強い人々を除いては他の収容者に接しないようにさせています。ある収容所の中では,6人の牧師が真理を認めました。その収容所にいた伝道者20人は,収容所内で活発に伝道活動を行なった事を理由に,特に孤立した所へ移されました。

      姉妹たちが集められた収容所もあります。ある収容所は以前に罪人が入れられていたところで,どの部屋も非常に不潔で,とても普通には生活のできないところでした。姉妹たちは相談の結果,余分の作業をして部屋を掃除し,いたんだ箇所を修繕することに決めました。姉妹の中には色んな技術を持つ者がいて,大工,ペンキ塗り,熔接工,電気工,一級の裁縫師などがいました。収容所の職員も周囲の人たちも非常に驚き,収容所の仕事をきちんと行なうだけでなく,収容所の各部屋をきれいにし,修繕し,しかもそれを休みの時間にしたこの人たちは一体どんな種類の集まりだろうと考えました。

      ソ連の兄弟は全世界の兄弟たちに愛のあいさつを送っています。また,エホバへの賛美と栄光のために,さらには,この巨大な国に住む数多くの善意ある人々のためにも,ソ連の兄弟たちがどんな試練の中でもしっかりと立場を守り続けるための力が与えられるよう,私たちがエホバに祈り続けることを求めています。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1963 | 8月15日
    • 読者よりの質問

      ● 使徒行伝 11章8節に,「主よよからじ,潔からぬものけがれたる物は,かつて我が口に入りしことなし」,というペテロの言葉がありますが,この面においてペテロは当時まだモーセの律法に従っていたと理解すべきですか。―アメリカの一読者より

      潔い動物と潔くない動物との区別を定めたモーセの律法が,イエス・キリストの死によって無効にされた事は聖書の言葉がはっきり示しています。「神は……わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は,わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を,その規定もろともぬり消し」「神はそれを苦しみの杭に釘づけて,取り除かれた」。(コロサイ 2:14,新口,新世)

      律法を除く事は,キリストの追随者の生活にも,大きな変化をもたらすことになりましたから,彼らがこの事実を深く認識するまでにしばらくの時間がかかったとしても不思議ではありません。それでこの時イエスの死後すでに3年が経過していましたが,明らかにペテロは儀式上潔くないとされた食物を一つも口にしていませんでした。特にユダヤ人の中に生活しているならばこのことが問題になりました。パウロが割礼を受けていない者を中に入れて宮の神聖を汚したのではないかと何人かのユダヤ人が誤解した時に暴徒が発生したように,もしペテロがこの問題に関する律法の規定を取り上げて,それを愚弄するなら,いたずらに騒動を引き起こす結果になったでしょう。―使行 21:27-32。

      しかし,キリストの霊的なからだを構成するものとして異邦人も受け入れられる事についてエホバからの指示を受けた時,疑いなく,ペテロは,宗教上の見地から言って潔くない食物などもはや存在しないのだという事をはっきり推断しました。使徒行伝 15章に使徒や長老がエルサレムで会合を開き,割礼や偶像にささざげられた肉を食べることなどの問題について討議した事件が記録されていることからも理解できるように,こうした事柄に関する真理は時とともに除々にクリスチャン会衆に明示されていきました。そして,聖霊を受けた使徒たちがクリスチャン会衆にまじわっていた時でさえ,僕たちに対する神の御心は少しずつ明らかにされていったのですから,今日地上にいる神の僕たち,すなわち,「忠実にしてさとい僕」に属する人々や,それにまじわる「他の羊」たちに神の御心が啓示される仕方も,同じように徐々に行なわれると期待しても,少しも思い過ぎではありません。―マタイ 24:45-47。ヨハネ 10:16。箴言 4:18。

      ● 精神病医は,職業をかえなければ,バプテスマを受けられず,また,エホバの証者の一人と数えられませんか。―アメリカの一読者より

      いいえ,その必要があるとは思われません。ものみの塔協会の出版物は,ごく極端な場合を除き,献身したクリスチャンが一般の精神病医のところへゆくことをすすめていませんが,それは,精神病医は相談に来る人に助言を与えてはならないという意味ではありません。献身の後も精神病医としての職業を続けてゆくかどうかは,全くその人自身が決めるべき問題です。むしろ,聖書の原則を理解しその価値を知ったことの故に,また特に,エホバ神に対する信仰とそのみここを行なおうとする献身のゆえに,前以上の医者になるということも考えられます。1954年4月15日号「ものみの塔」232-236頁(英文)にある「聖書から見た精神身体医学」の記事をごらん下さい。

      しかし,献身したクリスチャンでありまた精神病医である人は,必要以上の影響を及ぼして他のクリスチャンが天的な知恵を求めて監督のところへゆくかわりに,この世の知恵を求めて精神病医のところへ来るということにならぬよう十分に注意しなければならないでしょう。聖書の知恵より精神病学のほうがすぐれているといったような態度をとらぬようにすべきです。精神病学や精神分析学以上にすぐれた助言を含み,私たちの人格をもかえる力があるのは聖書です。そして,聖書の知恵だけが人を永遠の生命に導きます。―コリント前 13:1-13。ガラテヤ 5:19-23。コロサイ 3:12-5。

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