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読者よりの質問ものみの塔 1956 | 10月15日
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読者よりの質問
☆ 肉を買う場合,血がどの程度まで取出されているかを確めるべきですか。国の習慣に従つて,にわとりとかうさぎのような特定の肉から血は取出されていないと知つた客は,黙つて食べるべきですか。それともその行は非聖書的であると言つて,食べるのをさし控えるべきですか。―英国の一読者より
屠殺した動物から血を取出すことが普習の習慣となつている国では,購買の際とか,或は家庭,又このような国の食堂で料理された肉を食べる時に,特別に尋ねる必要は殆んどないように思われます。しかし特定の肉から血を取出さないことが,その国の習慣であれば,購買者はこの事に注意しなければなりません。血を食べる責任を否認することはできないでしよう。絞殺した,或は血を取出さない物を食べることを正当化しようとする言訳や,薄弱な理由は色々と挙げられるかも知れません。しかし,聖書の明白な規定に照らして見る時,それらの中一つとして有効なものはありません。「聖霊と私たちは次の必要なもの以外にあなた方にこれ以上の重荷をつけ加えないことにする。すなわち偶像に捧げられた犠牲と,血と,血を取りださずに殺したもの(絞め殺されたもの,欄外)と淫行とを避けることである。注意してこれらのものから遠ざかるならば,あなた方は栄えるであろう。あなた方の良い健康を祈る!」 ―使行 15:28,29,新世。
あなたがもし客に招かれて「絞め殺されたもの」の肉が出されたならば,それを食べるべきではありません。もし主人あるいは女主人がヱホバの証者でないならば,あなたはその理由をあえて述べなくてもよいでしよう。あるいは,その時の状況如何によつてはその理由を述べることもできます。しかしながら,その肉を出した人がヱホバの証者の一人である場合には,その悪い行いに,その人の注意を向けさせるのは正しいことです。それは何故あなたが食べないかを説明するのに加えて,その人自身の霊的福祉のためです。
この場合は偶像に犠牲として捧げられた肉の場合と同じではありません。このような肉が異教の宮あるいは他の場所における犠牲の食事であつた場合は偶像で代表されている悪鬼の神々と交わることを意味しました。故にそれはクリスチャンに禁ぜられていました。しかし時には犠牲にされた動物の肉全部が,このように用いられなかつたのです。それは肉市場に引渡されて他の人に売られたのです。このような場合では,クリスチャンはこの肉を買つて使うことができました。あるいは他の人の家で出されたとき,このような肉を食べることもできました。彼等は尋ねる必要がありません。ただ,円熟していない,多分良心の弱いクリスチャンがこの肉を食べるのは悪いと考えた時にのみ,円熟したクリスチャンは,彼より弱い兄弟をつまずかせない為に食べるのを避けました。犠牲の食事の一部ではない肉を食べても全然悪いことではありません。このことを,絞め殺されたものを食べることと同じに考えることはできません。血を取出さない肉を食べることは何時であつても,どの場所においても悪いのです。―コリント前 8:1-13,10:25-33。
☆ サムエル前書 28章6節には,『サムエル,ヱホバに問いけるに,ヱホバ答え給わず,夢によりてもウリムによりても,豫言者によりてもこたえ給わず』と書かれていますが,歴代志略上 10章14節には,サウロは『ヱホバに問うことをせざりしなり』と書かれています。この二つの聖句をどのように一致させることができますか ― ハワイの一読者より。
サウロはたしかにヱホバに問いましたが,しかし正しい仕方,正しい動機で問うたのではありません。
サウロの心は,このことについて清くなかつたのです。ヱホバはこのことを見抜かれたため,何の答もサウロに与えられなかつたのです。それで,サウロはエンドルのくちよせ,すなわちエンドルに住んでいた霊媒に頼りました。サウロは,その霊媒に問いましたが,それは神よりかたく禁ぜられていた行いです。サウロは特定の形式を用いて神に問いましたが,正しい清い仕方で神に問わなかつたのです。その理由の故に神はサウロの願いを聞かず,答えませんでした。
今日でも人は神に祈ることができます。しかし,その人が悪い者であるか,又は悪い祈りを捧げるなら神はその祈りを聞かないでしよう。『求めても与えられないのは,快楽のために使おうとして,悪い求め方をするからだ。』『耳をそむけて律法を聞かざる者は,その祈りすらも憎まる。』『ヱホバは悪者に遠ざかり,義者の祈りをききたもう。』― ヤコブ 4:3,新口。シンゲン 28:9; 15:29。
もし祈りの形式をするなら,祈りをしている,と言えるかもしれません。しかし,神の御旨にかなう仕方で祈らないなら,その人は祈りをしていない,とも言えるでしょう。その結果,その人の祈は神に聞かれません。同じように,サムエル前書 28章6節によると,サウロは形式的に問うていますから,サウロは神に問うた,と言えます。また,サウロは神に問わなかつた,と述べている歴代志略上 10:14も正しいのです。なぜなら,サウロは神の御旨にかなう正しい問方をしなかつた,という意味だからです。
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『ものみの塔』の研究ものみの塔 1956 | 10月15日
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『ものみの塔』の研究
11月11日 神の関心事と人間各自の関心事 1-18節 387頁
11月18日 人間各自の関心事 19-21節と共同社会即ち会衆の関心事 392頁
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