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  • 慈善事業への寄付はいつの場合も賢明なことと言えますか
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目ざめよ! 1974
目74 3/8 5–7ページ

慈善事業への寄付はいつの場合も賢明なことと言えますか

自分の寄付するお金のわずか1%から5%が困っている人びとの手に渡るだけで,あとはみな募金運動の費用に使われるとしたら,あなたは慈善事業に寄付することをどう感じますか。慈善団体の一番上に立つ人が,給料および経費として年間7万5,000㌦受け取っていることを知っているとしたら,あなたは慈善事業に対する寄付をどう感じますか。決して良い気持ちはしないのではないでしょうか。ところがそういうことが実際に,しかもたびたび生じているのです。

アメリカだけでも,毎年慈善事業に寄付されるお金の額は200億㌦(約5兆4,000億円)を上回ります。このうち約41%は宗教上の目的のために,16%は保健と教育のために,7%は福祉事業のために,そして残りは文化事業その他の目的のために寄付されます。

募金を行なう慈善団体はたくさんあります。国際的に知られている団体もあれば,その土地で知られているだけのものもあります。人びとが寄付をする理由も同様にたくさんあります。ある人びとはもうけになるので寄付をします。つまり寄付をするとそれだけ税金が引かれるからです。また,罪悪感から,慈善的な寄付によって自分の罪を償うような気持ちで寄付をする人もあります。さらにある人びとは,同情心,思いやり,あわれみなどの感情を持っていて,宗教的あるいは人道的理由から寄付をします。施すことから祝福が得られることは否定できません。神の子イエスは,「受けるより与えるほうが幸福である」と言ってそのことを強調されました。(使徒 20:35)しかしイエスは,まちがった動機で行なう施しは神の恵みをもたらさない,空しいものであることも示されました。―マタイ 6:1-4をお読みください。

正しい動機から出た施しに祝福があることは事実です。しかし人が,自分はまちがいなく価値ある目的のために寄付をしているということをはっきり知りたい,と思うのも無理のない話です。慈善団体に寄付される何兆円というお金は,人びとを助けるためにどの程度使われているのでしょうか。そして博愛に基づく団体と考えられているこれらの団体は,営利を目的とする人びとによってどの程度運営され,あるいは利用されているのでしょうか。

宗教の名のもとに

カリフォルニア州のある新聞は,この寄付の問題と,募金の方法とにかんし,「かかりすぎる総経費,募金費が高いのは専門家の責任」という見出しの記事をかかげました。同記事は,地方都市の「慈善事業推進局」の局長が述べた,「慈善事業の中でも最もきたないのは」,「神の名のもとに」行なわれるものである,ということばを引用しました。そのようなスポンサーを持つ専門的な慈善運動にかんし,彼はさらに,「主の名のもとに寄付を集める宗教団体や人びとがいちばんよくない」と述べました。

この非難をある程度裏付けているのは,ローマ・カトリックの一般信徒向け雑誌ランパーツに数年前現われたひとつの記事です。その記事は,アメリカの指導的なローマ・カトリック司教のひとりが,「信仰を普及するための会衆」として知られている同司教の募金組織を用いて,「慈善の名のもとに」アメリカのカトリック教徒を「だます」というまちがいをしたと非難しました。世界各地の開発途上国に住む35人の司教をインタビューしたことのある同記事の筆者は,「その会衆は,世界中の貧しい人びとを助けるという名目で,毎年何百万㌦もの寄付を集める。……そしてそれはおそらくこれまでの慈善詐欺のなかの最大のもののひとつであろう」と述べています。こうした非難にその司教の注意が促されたとき,彼はその問題を討論するためのインタビューを拒否し,司教の事務所は,司教には「何も言うことはない」と回答しました。

私利私欲を離れて奉仕している?

慈善団体に所属して奉仕している人びとは,愛他的な動機から奉仕していると一般に考えられていますが,必ずそうだと言えるでしょうか。たとえばある慈善団体は何年間も,東洋の孤児たちを養うための寄付を募り,その寄付で1か月に孤児ひとりにつき12㌦あてがうことができると主張していました。しかしその団体の長の第一の関心はそれらの孤児にあったでしょうか。その人は,バージニア州商工会議所の所長であった時に得ていたのと全く同じ額である2万㌦の給料をもらっていました。

故バシリ・オコーナーもそういう人のひとりでした。この人はルーズベルト大統領とともにマーチ・オブ・ダイムス(小児麻ひ救済募金運動)全米財団を創始した人で,同財団が創設された1938年から1972年に死亡するまでその総裁をつとめました。当初は必要な経費をもらっていただけでしたが,最後の13年間は,年俸5万4,000㌦に加えて所要経費を最高2万1,405㌦もらっていました。そのマーチ・オブ・ダイムスに寄付した人のうち,総裁が7万5,000㌦の年俸をもらっていることに気づいていた人が何人いたでしょうか。このことを知ったなら,寄付について前と同じような気持ちになれますか。自分の知っている困っている人に直接に自分であげたほうがましだと考えないでしょうか。

高い募金運動費

赤十字のような,全国的に知られている有名な慈善団体は,10%から15%を募金運動費に当てるのが正当で無理のないところと考えています。したがって,寄付1㌦のうち85セントから90セントが慈善事業にまわされることになります。しかし多くの慈善団体はそれにほど遠い状態にあります。たとえばアメリカ腎臓基金は最初の年(1971年から72年)の間に77万9,000㌦を上回る寄付を集めました。ところが1973年6月8日のニューヨーク・ポストによると,患者の治療に当てられたのはわずか5%の3万9,000㌦にすぎず,残りは「経費」となってしまいました。

ワシントン州シアトルのある新聞は,第一面トップに,「ばか高い慈善募金運動費」という大見出しを掲げ,慈善募金運動のこの弱点を暴露しました。救助金という名目で集められた50万㌦のうちわずか2万5,000㌦しか,つまり5%しか救助に当てられなかった例をその記事は取り上げていました。ほかにもたくさんの例がのせられていましたが,そのなかには,専門の募金奨励者たちが13万1,288.92㌦取り,スポンサーとしてそれに名前を貸した社会団体が7,893㌦を得,そして慈善団体の「心臓協会」および「地域社会と青少年活動」はわずか1,000㌦しか受け取らなかった,という例もありました。ですから困っている人たち,そのお金をもらうべき人たちの手には1%も渡らなかったわけです。

カナダのある新聞は少し前,「慈善という名の海賊たち,だまされやすい者が彼らのえじき」という題で,ある専門家たちがどんな方法で募金運動を行なうかを説明したことがあります。まず彼らは,受けた寄付のいくらかを分配することを約束して,ある宗教団体か友愛団体を,運動のスポンサーとなるように説得します。それから運動の手始めとして,電話で寄付を募る,経験を積んだ人たちが雇われます。彼らは,彼らのあっせんではいってくる寄付金1㌦につき25セントもらいます。それから集金人 ― たいてい女性 ― が電話で約束ずみの家に集金に行きます。そして彼女は自分が集めた寄付金1㌦につき15セントもらいます。奨励者は1㌦につき40セント取りますから,その運動のスポンサーである慈善団体のためには20セントしか残らないことになります。

社団法人米国基金募集者援助協会の会長は,慈善運動が利己的に利用される危険のあることに気づき,「どんなことがあっても,未知の人の電話に応じて慈善団体に寄付すべきではない」と忠告しました。しかしついでに言えば,このうしろ暗い仕事に携っていたある“前科”者が,次のような不平をこぼしたことにも注目すべきでしょう。その不平というのは,そうした募金運動を後援する宗教団体や友愛団体,あるいは政治団体なりが,自分で集める努力をしないので,電話をかける人や集金する人に料金が支払われるのだ。もしそうした団体が自分から「足を運んで」集めるなら,集めたお金1㌦につき85セントないし90セントは得られるのだ,というものでした。

個々のこじきに施す?

世界中の多くの大都市で,こじきをすることは,収入の多い生計の道となっています。この手を使って生活している人びとの中で目立つのはヒッピーの若者たちです。こじきはもう,盲目,不具,貧乏といった口実を設ける必要はありません。口実は何でもよいようです。たとえばサンフランシスコには,同市のヒッピー部落を訪れる観光客から1週間に400㌦集めるというこじきがいます。

もっと景気よくやっているのは,ニューヨーク市の劇場街を根城にしているバイオリン弾きです。バイオリンがかなりうまいうえに,「バイオリニストが勉強を続けるにはお金がいります」という文句の看板がとくに物を言って,彼は実際に通行人の心の琴線をかき鳴らします。その結果1時間に平均35㌦もうけます。そのうえに小切手,貯蓄債券,カメラ,時計,はては夕食やカリブ海の旅への招待まで受けます。

働く意志はあってもからだがきかないとか,仕事が見つからないために,ほんとうに困ってこじきをしている人も時にはいるでしょう。天災,飢きん,経済の崩壊などに見舞われる時には,困る人がたくさん出ます。そういう時には,それは困っている人を助けるために自分の持っている物で自分にできることを行なう,という問題になります。

また与えるほうが賢明な場合もあるでしょう。たとえばこれはニューヨーク市であったことですが,ある日曜日の早朝,ひとりの男が年配の人に近づいて,「よう,先生。おれはきのう刑務所から出てきたばかりなんだ。1㌦くれないか」,と言いました。これはあからさまではなかったにしても明らかに脅迫で,そのこじきはしつこく金をねだりました。もし特別に環境の悪い場所だったなら,事情やむなく要求に応じなければならないと思うでしょう。そういう場合には各自,自分で判断しなければなりません。

平衡の取れた見方

「貧しい人たちは常にいます」とイエスは言われましたが,そのことに疑問はありません。(マタイ 26:11)またイエスは,与えること,愛他的であること,人を助けることには喜びがあるとも言われました。しかしだまされやすいことは,貪欲な者や怠惰な者に報酬を与えることになります。施しを受けるに価する人また理由がある以上,人は分別を働かさねばなりません。「買い手は用心」という言いふるされたことわざを,「施し手は用心」と言いかえることができるでしょう。

そしてもちろんクリスチャン奉仕者である人たちは,金銀よりもはるかに良いものを与える立場にあります。それは何でしょうか。それは,慰め,希望,平安な思いをもたらし,永遠の生命さえもたらし得る神のことばの真理です。彼らはそれをただで受けたので,ただで与えます。(マタイ 10:8。使徒 3:1-8とくらべてください)そして使徒パウロは実際に,与えるさいわいのほうが大きいことについてのイエスのことばを,この種の施し,つまり霊の物を与えることにかんして引用しています。―使徒 20:35。

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