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  • 塔54 4/15 145–155ページ
  • 『神と和解しなさい』

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  • 『神と和解しなさい』
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
塔54 4/15 145–155ページ

『神と和解しなさい』

『これらすべてのものは神からのものである。神はキリストによつて私たちをご自身に和解させて下さつた。そしてこの和解の任勝を私たちに与えられた』― コリント後 5:18,口語。

1 今日のような状態にもかかわらず,何故信仰ある人々はヱホバに信頼しますか?

ヱホバ神は『われヱホバは変らざるなり』と断言されました。この事をよく知つて置くことは,今日全世界の善意者達が神の驚嘆すべき御目的を考える場合に大きな慰めとなります。その御目的は,人類の歴史をはるかにさかのぼつたエデンの園であらかじめぼんやりと表されていたのです。その所でアダムは創造主の前で恵まれた境遇に置かれていました。彼の前には地上における幸福な生命の前途がありました。たしかに今日の人類の世界は,神の恵みの内にあつたあの最初の境遇とは非常に遠く離れています。そして大多数の人々は,アダムの時のように,その前に展開される平和で喜びに満ちた生命の前途を人類が再び持つというようなことは,単なるつまらない夢だと考えます。そして多くの世紀が過ぎて行きましたが,人類家族の大多数は決して再び神に近づきませんでした。世界の状態を見ますと,諸国民は単にその口唇で神を崇拝しているだけで,心からそうしていないことが分ります。人々は一般に,神に対する愛も,また隣人に対する愛も表していません。かえつて犯罪と不都合な行為は絶えず増大し,戦争の脅威は決して減じません。

2 今日大いに必要なことは何ですか。そしてどんな態度が最も肝要ですか?

2 この故にパウロがコリント人へ書き送つた『神と和解しなさい』という言葉は,彼が書いた当時よりも現在の方が更にはつきりと,そして更に緊急の度を加えて響きわたります。しかし多くの人々が神と和解する必要がないと思つていることは驚くべき事実です。しかし彼らはイエスが,信心ぶつて次のような態度を取つた人々に与えた警告を無視します。同時に彼らは自分達がどんなに『善良』であるかを世の中に知らせようとします。イエスは,祈るために宮に入つて行つたパリサイ人のことを語りましたが,パリサイ人はこう言いました。『神よ,私は他の人たちのように,奪つたり,不正を働いたり姦淫したりするような者でなく,またあの税金取立人のような者でもないことを感謝致します。』イエスの恵みの言葉はこのパリサイ人には与えられずに,謙遜な税金取立人に与えられました。税金取立人は天を仰ぎ見ようともせず,手を合せて熱心に神に懇願して,こう言いました。『神よ,罪人である私を憐んで下さい。』この税金取立人は神の前にへりくだる態度を取りましたが,この態度は彼が霊的な貧しさを自覚していたことを示し,また彼が神と和解出来るように祈つたことを示しています。彼は神に何事かを要求しませんでした。彼はただ恵みと助けとを願いました。また彼はパリサイ人のように澄しこんで得々とした態度で宮に入りませんでした。このような態度は今日の多くの人々が示している態度です。彼らは言います。『私は教会を持つています。そして善良な生活を送つています。』彼らは,神が彼らを見守つて,救いの道を設けてくださるに極つていると信じています ― それは全くパリサイ人と同じ立場です。彼は,自分が多くの人々のようでないと断言しました。そして善良な生活を送り,規則正しく教会に10分の1献金を納めていると断言しました。しかしながら柔和と謙遜が欠けています。これらの性質は,人類が何時の日か神と和解して,神から祝福されるという聖書の約束を尊重する人類のすべてにとつて,最も肝要な性質です。―ルカ 18:9-14,口語。

3 或る人々は神に対してどんな間違つた見解を持つていますか? 彼らは何に欠けていますか?

3 神との和解の必要を悟らない或る人々は傲慢な態度を取つて,こう言います。『もし神が居るなら,世の中の状態を正すために何事かを行う筈だ。』彼らは,自分達とその家族が更に善い状態になるように神の力が現わし示されるのを見るのでなければ,神に代つて何事も行わないでしよう。彼らは信仰が欠けていて,生命に至る道を見出すために少しも努力しません。彼らは稼いで暮らしを立てる方法を学ぶために何年間も費しますけれども,神が私共に生命を与えるために備えられた案内書を研究することの重要さを少しも考えません。故に彼らは無関心にもこう言います。『私たちは明日死ぬかも知れないから,食べて,飲んで,楽しもう。』彼らは,自分達のために神が何事かを行おうとしていることを,神は彼らに実証して示すものと思つています。そしてその時が来るまでは神には用がないと思つています。

4 アダムの不従順によつてどんな,反応が生じましたか?

4 このように,信仰の欠乏と神に対する平気な無関心が蔓延しているので,あなたは適当にお尋ねになるでしよう。人類はいつか神と和解されるでしようか? 創造主と造られた物との和合の祝福がいつか実現するでしようか? どんな手段によつてでしようか? すべての人が神と和解されるでしようか? 人類が神の恵みに復帰する道をヱホバ神が備え給うことを,聖書は的確に定めています。エデンにおけるアダムの不従順と叛逆の時から,人々は神からの罪と死の宣告の下にありました。パウロはローマ人にこの事を次のように説明しています。『それ一人の人によりて罪は世に入り,また罪によりて死は世に入り,すべての人,罪を犯しし故に,死はすべての人に及べり』(ロマ 5:12)。アダムの不従順は人々と神との間の睦じい関係に大きな亀裂を生じました。もはやアダムは美しい楽園の家庭に留ることが許されませんでした。もはや彼は永遠の生命の前途を持つことが出来ませんでしたし,またそれを子孫に伝えることも出来ませんでした。それよりも反つて彼は今,彼自身と成長する彼の家族のために必要な物を備えるために,毎週々々つらい労働をして苦しむように宣告されました。

5 人間が数千年の間歩んで来た走路<コース>を述べて下さい。

5 不完全さと死の宣告がアダムからすべての子らへ伝えられたので,外見は,人々がいつか神の恵みに復帰されるということは望みがないように見えました。アダムの叛逆から何千年も後に詩篇記者ダビデは『善をなす者なし。一人だになし』(詩 14:3)と書き記しました。たしかに人間は恵みと生命に自分で回復出来る立場には居りません。実際人間は自分自身の歩みによつて自分を高めることが出来る立場には居りません。その代り歴史の数千年の間,人間は人間自身の目に正しいと思う事を行つて来ましたが,人間が選んだ走路<コース>は悲しみと死の道筋<コース>であつて,また地を奪い,荒れ果てさせる道筋<コース>でありました。神の祝福の下で,最初の楽園の家庭の境界を拡大する喜びを味いながら生活するよりも,むしろ人間は不幸と悲惨の道を歩んで来ました。故に私たちは次のように尋ねます。神の恵みと地上の楽園状態の下で生命の祝福がどのようにして回復されるでしようか? このような神との和解がどのようにして起り得るでしようか?

和解の準備は予知されていた

6 ヱホバがやがて彼の僕たちを祝福し給うということを,どうして確信することが出来ますか?

6 和解の取極めを最初から神は知つていました。そして信仰ある人々の慰めと希望のためにヱホバはその事を聖書の多くの頁<ページ>に記録して置かれました。ヱホバはイザヤ書 45章21,22節で御自身の御目的が決して失敗しないことを私たちに再び保証しています。『この事を誰か上古より示したりや。誰か昔より告げたりしや。こは我ヱホバならずや。我のほかに神あることなし。我は義を行い救をほどこす神にして我のほかに神あることなし。地の極なるもろもろの人よ。汝らわれをあおぎのぞめ。さらば救われん。我は神にして他に神なければなり。』人間の歴史の開始された時からヱホバは御自身に仕える者らが決して徒労に終らないという保証を与えて居ります。ヱホバの御目的は成し遂げられ,地はヱホバの僕たちのための幸福な家庭として復興されるでしよう。―イザヤ 45:18。

7 イザヤ書 45章9-13節は人間を何になぞらえていますか? そしてこの聖句は和解についてどのような意義を有していますか?

7 ヱホバが御自身で定められた御業を,人間が行おうとするすべての努力は無駄であると,ヱホバは預言者イザヤを通じて示しました。人類は主人である手職人,即ち陶器師の手の中にある粘土に譬えられています。粘土はそれを捏ねて形を造る人と争うことは出来ませんし,またその形を作る人の型を変えさせたり,その取り極めを変えさせたりすることは出来ません。『陶器がその造り手である陶器師と争うことは禍いであることよ。粘土は陶器師に向つて「あなたは何を作つているのですか」と尋ねるべきですか。また人間の製品がその人間に向つて「あなたには手がない」と言うべきですか。……主〔ヱホバ〕,イスラエルの聖いお方,イスラエルを形作られたお方がこう言われます。「お前たちは私の子供たちについて質問するか? または私の手の工に関して指図するか? 私は地を造つて,その上に人間を創造した。私の手はもろもろの天をのべ,その万象を配列させた。私は義をもつて彼を起した。私は彼のすべての道を平らにするであろう。彼は私の邑を建て,価のためでも,報いのためでもなくして私の流罪人たちを解き放つであろう」と万軍の主が言いたもう。』(イザヤ 45:9-13,アメリカ訳)ヱホバはここで,心の中に神に対する愛を持つている人々を義をもつて神と和解させるように,彼に指示しました。人類が和解されて,神の恵みと生命の祝福を楽しむことが出来るのは,ただ神のお取り計らいだけによるものであるという要点が,も一度はつきりと強調されています。

8 ヱホバは何時から贖いの希望を提出しましたか?

8 神と人々との間の信愛の関係を回復する大切な転回点となるイエスの人間の生命の犠牲を,ヱホバはそもそもの初めからあらかじめ指し示しました。『彼は世の創まる前からあらかじめ知られて居りました。しかし彼は,彼を通じて神を信ずるあなた方のために末の世に現わされました。神は彼を死人の中からよみがえらせて,栄光を与え給うた。だから,あなた方の信仰と望みとは神に懸けられています。』(ペテロ前 1:20,21,新世)エデンの園でアダムとエバが不従順になつた後に,ヱホバは彼らに獣の皮を着せました。その後聖書の記録は,アベルの献げた獣の犠牲が神に受入れられたことを告げています。何故ならそのような犠牲は,血を流すことがなければ罪の赦しが出来ないというヱホバの取極めを,正しく予表しているからです。―ヘブル 9:22。

9 過越節の犠牲は何の前影でしたか?

9 イスラエル人らがエジプトから脱出する直前,イスラエルの各家庭で犠牲に供された過越節の小羊もまた,イエスによつて献げられる犠牲を象徴し,予影していました。古代エジプトにおける過越節の取極めによつて,小羊の血がおのおのの家の戸口の鴨居と両側の柱に注がれました。そしてこの点についてのヱホバの差図に信仰を示した者らは神の恵みを受けて,彼らの長子の生命が救われました。そのような方法で過越節の小羊の犠牲は,和解と永遠の生命の道を開く神の取極めの上に光を投げ与えました。この神の取り極めはその時から幾百年も後に成就することになつていました。(出エジプト 12:21)この故にパウロはこう書きました。『実に私たちの過越の小羊 ― キリストは犠牲として屠られたからである。』(コリント前 5:7。ペテロ前 1:19,口語)バプテスマのヨハネもまた荒野でイエスが彼の前に現われた時に,この事を証言しました。イエスが近づいた時にヨハネはこう言いました。『見よ,世の罪を除く神の小羊』― ヨハネ 1:29,口語。

10 罪を贖うためにどんな価が要求されましたか? この価はどのように準備されましたか?

10 ヱホバがイスラエルの国民と結んだ律法の契約もやはり,キリストの犠牲によつてもたらされる和解のことを,あらかじめ映写していたのです。申命記 19章21節に記録されているように,生命は生命をもつて償うべきことを規定したのは律法でした。これこそヱホバの正しい要求をはつきりと声明したものであります。アダムは不従順によつて完全な永遠の人間の生命の権利を失いましたが,このアダムに匹敵する同等の人間として,神の目の前で正義の秤の釣合うことの出来るのは,ただイエス・キリストだけです。罪ある人が神の要求を満たすことが出来ないことは,詩篇 49篇7-9節によく示されています。『誰ひとり,おのが兄弟を贖うことあたわず。これがために贖価を神にささげ,これを永遠に生きながらえしめて,朽ちざらしむることあたわず。』イエスがヱホバの人間の子として受けた生命は完全ですから,アダムに匹敵する同等の者としてアダムと肩を並べて立つことが出来ます。故にイエスは,第2のアダム,または『終りのアダム』と適切に述べられています。ただイエスの完全な人間の生命を献げることによつてのみ,アダムが人類のために失つた物を永遠に贖うことが出来るのです。

11 何故モーセの律法を通じて生命の権利に回復されませんでしたか?

11 モーセを通じて与えられた律法,そしてヱホバによつて備えられた律法は善いものでありましたが,その律法は人類のために永遠の生命の権利を回復することが出来ませんでした。何故なら人間が罪と不完全を継続する限りは,彼らは依然として律法を正しく守ることが出来ないからです。聖書が使徒行伝 13章38,39節(口語訳)において私達に告げている通り,イエスの自発的な犠牲が要求されるのはこの理由のためです。『だから兄弟たちよ,この人によつて罪の赦しがあなた方に宣伝えられるということを知りなさい。そしてモーセの律法によつては解放してもらえなかつたすべての束縛から,信ずるめいめいはこの人によつて解放される。』

12 律法の目的はは何でしたか?

12 ヱホバがイスラエルに与えた律法の条項に基いて,牡牛と山羊の規則正しい犠牲が献げられましたが,しかしこれらの獣の血を継続的に注ぐことによつて罪を取り除くことは出来ませんでした。(ヘブル 10:4)パウロはガラテヤ書 3章19-25節(新世)で『では律法は何故与えられたか?』と質問を発しました。その答は次の通りです。『それは犯罪を表すために加えられたものであつて,約束を与えられた裔が来るまで加えられたのである……それでは律法は神の約束に反するか? 決してそのようなことはない。もし生命を与えるために律法が与えられたのであるなら,義は実に律法によつて与えられたに違いない。しかし聖書はすべてのものを罪の下に閉ぢこめてしまつた。これはイエス・キリストに対する信仰から生ずる約束が信仰を実行する者らに与えられるためである。……従つて律法は私たちが信仰によつて義とされるために,私たちをキリストに導く後見人となつた。しかし今この信仰が来たのであるから,私たちはもはや後見人の下には居ない。』多分更にはつきりと,ロマ書 10章4節(新世)でヱホバは私たちにこう説明しています。『キリストは律法の完全な終りであるから,信仰を実行するすべての者は義とされるのである。律法の色々な誡命は皆,イスラエル人が神の要求を完全に守ることが出来ないこと,従つて彼らが生命を得ることが出来ないことを,繰返し繰返しイスラエル人に注意をうながしました。しかし律法は誠実と謙遜の心と精神を持つ人々に,彼らが神と和解するためには一人の贖い主が必要であるという一つの教訓を教えました。

13 イエスの死はどのようにあらかじめ描かれていましたか?

13 一つの決定的な預言的図解が示されましたがそれはヱホバが大昔から人類に生命を与えるための和解の御準備を知つて居られたことを示しています。この事は創世記の22章に美しく描写されていますが,その時神はアブラハムに向つて,その最愛の息子イサクを犠牲に献げるように命じたのです。アブラハムはヱホバとその御目的に対する熱烈な信仰に基いてイサクの生命を献げるように指定された場所へ正しく献げようと着手しました。一方イサクは年老いた父に従つて供物の準備を手伝つて,神ヱホバと父アブラハムの指図に従順に服従する態度を示しました。その結果としてヱホバはアブラハムに祝福を与えて,イサクの血筋を通じて地のすべての国民が祝福されるという御約束を与え給うたのです。神に対する偉大な信仰を持つていたのでアブラハムは恵まれた立場を与えられ,そしてヱホバの『永遠の友』(歴代下 20:7,英文欽定訳)と述べられています。この図解の中でアブラハムは,独子イエスを犠牲として献げたヱホバを善く描いて居り,またイサクは,父の御心に従順に服従したイエスを描いて居りました。

14 (イ)ヨハネ伝 3章16節を説明しなさい。(ロ)イエスはどのように父の御心に従いましたか?

14 和解の取極めは人類に対するヱホバの愛の贈物です。聖書にこう記されている通りです。『実に,神は世を愛するのあまり,その独子を与えられた。それは,彼に対する信仰を実行するすべての者が亡ぼされずに永遠の生命を得るためである。』(ヨハネ 3:16,新世)ヱホバはこの不義と悪の古い世を愛し給わないが,しかし彼は王キリストの下に建て給う正義の新しい世を大いに愛し給うことを私たちは知つています。ヱホバがこの最愛の御子の犠牲を備えられたのは,この新しい世のためであり,そしてすべての時代の善意者達のためであります。イエスが贖いの価を備えるために死ぬことが神の御心であるということをイエスは知つていたので,イエスは裏切られる直前に天の父にこう祈りました。『父よ,御旨ならばこの酒杯を我より取り去りたまえ。されど我が意にあらずして,御意の成らんことを願う。』(ルカ 22:42)パウロはこの点に関してヱホバの余りにも豊かな御親切を私共に思い起せてこう言いました。『私たちがまだ弱かつた時,キリストは指定された不敬虔な人々のために死なれた。正しい人のために死ぬ者は稀であろう。なるほど善い人のために死ぬ者は稀であろう。なるほど善い人のためになら死んでやろうとする者が多分あるかも知れない。ところが私たちがまだ罪人であつた時に,キリストは私たちのために死なれた。そしてそのことによつて神は私たちに対する愛をあらわされた』(ロマ 5:6-8,新世)イエスの死とその後の天への復活に引続いて,彼は父の前におのが犠牲の価値を呈出し,そうすることによつて,イエスは御自身の犠牲によつて罪を取り除きました。―ヘブル 9:23-28。

15 私たちが神と和解することが出来る唯一の道は何ですか?

15 今神の恵みの中に入るために,そしてヱホバから与えられる永続的な祝福の前途を堅く保つためには,人間の和解のためのこの御準備を真に受入れることが本質的に必要です。私たちは大きな喜びをもつて,そして私たちの能力を最大限に用いてヱホバに仕えようとする願いをもつて,これを行わなければなりません。パウロが次のように言い表している通りです。『だから,もし私たちが神の敵であるのに,み子の死によつて神に和解させて頂いたのであるならば,まして和解させて頂いた私たちは,み子の生命によつて救われないはずがない。そればかりでなく,私たちに和解を得させて下さつた私たちの主イエス・キリストによつて私たちは神を喜ぶのである』(ロマ 5:10,11,口語)信仰のある人々はキリストを通じて,アダムがエデンの園で昔受けていた恵まれた境遇に再び立つことが出来ます。事実,天の下には人々が救われるべき他の名を賜わりませんでした。イエスは御自身のことをこう証言しました。『私は道であり,真理であり,生命である。私を通らないで父のもとに行く者は一人としてない。』― ヨハネ 14:6,口語。

すべての人が和解されるのではない

16 誰が救いを受けるでしようか?

16 ヱホバはあまねくすべての人のための和解の機会を,その余りにも大きい御親切によつて差出されました。彼の御準備がすべての人種や国語,またはこの世のすべての地位の人々のためであるからは,それらすべての人が彼の御準備の恩恵に浴することを意味するのでしようか? 神の恵みを得るためには,各個人個人に或る事が要求されると聖書は示しています。(マタイ 21:28-30)神は強制的に,または自働的に救いや和解を致しません。ペテロはこの事を説明して,こう言いました。『もし義人が辛うじて救われるのであるならば,不信の人や罪人は一体何処に出頭するであろうか』(ペテロ前 4:18,口語)明かにペテロは,彼の任務の経験から,そして神のお言葉の知識から,すべてのクリスチャンが全部忠信を保持して救いを得るとは期待しませんでした。

17 ユダヤ民族はどのようにイエスの任務に答えましたか?

17 適切な例はユダヤ民族です。イエスは,もしユダヤ民族が忠信で,ヱホバの教示に従つたなら,彼らは聖い民とされ,御名のための民とされるというヱホバのお約束を守つて,彼の地上の任務の僅かな年の間,宣教をユダヤ人にだけ制限しました。しかし事実は,彼らがその前に置かれた驚くほどのこの好機会を,一つの民族としては受け入れなかつたことを示しています。彼らはヱホバの誡命を従順に守り続けることに失敗し,そしてメシヤが現われた時,彼を受け入れることを拒絶しました。彼らの信仰がないために,そして神の奉仕に反対しているために,イエスが彼らを非難したのは何も不思議ではありません。『ああ,エルサレムよ,エルサレムよ。預言者たちを殺し,遣わされた人々を石で打つ者よ。牝鶏がその雛を翼の下に集めるように,どんなに幾度も私はお前の子供たちを集めようとしたことか。しかしあなた方はそれを欲しなかつた。見よ,あなた方の家は荒野となつて棄てられる』― マタイ 23:37,38,口語。

18 ユダヤ人の信仰がなかつたために,どんな機会が国々の民に開かれましたか?

18 後に使徒パウロがローマ人に手紙を書いた時に,彼はその中でユダヤ民族がその機会を失つたことを示しました。彼らの列から,天国でキリストと共に治めるべき祭司の国ヱホバの選民が選ばれることになつていましたが,その前途の望みは,もはや独占的に彼らのものではありませんでした。かえつて西暦36年に御国の音信はすべての国々の民に宣伝えられ始めました。イスラエル民族がその恵まれた地位から投げ出されたことは,世のために和解の道を開いたと,パウロは説明しました。彼ら以前にユダヤ人が落入つたように,ローマのクリスチャンたちが同じ罠に落入らないようにするために,パウロは彼らにこう書きました。『彼らはその不信仰の故に切取られ,あなたは信仰によつて立つているのだ。だから傲慢にならないで,神を畏みなさい。神は元木の枝をさえ惜しまれなかたのであれば,ましてあなたを惜しまれはしない。だから心しなさい。神の慈愛と厳しさとを。倒れたものに対する厳しさを。しかしあなたに対する神の慈愛を。但しあなたは神の慈愛のうちに居なければならならない。さもないと切取られるであろう。それで彼らがもし不信仰のうちに留まらないならば彼らは接木されるであろう。神はもう一度彼らを接木する力を持つて居られるからである。』(ロマ 11:20-23,口語)かつては『我らはアブラハムの裔である』という言葉を以てイエスをはね付けたその民自身が,アブラハムの信仰を示さなかつたために投げ出されるという事が起りました。

19 最後にはすべての人が神と和解されるでしようか? 説明して下さい。

19 すべての人が神と和解されるのではない事を,そして献身した神の僕だと主張するすべての者さえ神と和解されるのではない事を,イエスはルカ伝 16章の中で再び強調しました。金を愛するパリサイ派の人々はイエスを嘲笑いましたが,イエスは彼らにこう警告しました。『あなた方は人の前で自分を義しいとするが,神はあなた方の心を知つて居られる。人の中で高くされる者は神の前では憎むべきものである。』そして彼は更に続いて金持とラザロの譬えを述べました。やがて金持は死んで葬られましたが,彼は苦しみ悶えながら,はるかに離れているアブラハムを見,またアブラハムの恵みのある地位によりかかつているラザロを見ました。しかし金持が恵みを歎願したのに応じて,アブラハムから彼が受取つた只一つの答は次の通りでした。『私たちとお前たちとの間には,大きな淵〔割目 ― 新世〕があつて,ここからお前たちの所に渡ろうとしても,どうしても出来ない。またお前たちの所からここに来ることも出来ないのだ。』たしかに,すべての金持が神の目に有罪とされると言うことは出来ません。何故ならその事がこの譬話の意味ではないからです。しかしイエスは,人々の前に自分を正しいと主張するところの金を愛するパリサイ派の人々は決して神を欺くことが出来ないことを指摘しました。彼らは神の御言葉を所有する点で富んで居り,また神を崇める機会に富んでいましたが,しかし霊的糧,即ち時に応じての食事をラザロのように,ほんの少しでも欲しいと歎願した人々に対して,彼らはそれを与えようとしませんでした。その理由でイエスは,マタイ伝 23章に記録されている通り,当時の不忠信な牧師達を事実上告訴しました。

20 神はエゼキエルとエレミヤを通じて,金持級にどんな警告を与えましたか?

20 それと同じ気持でヱホバはエゼキエルを感動して,次のように書かせました。『人の子よ,なんぢイスラエルの牧者の事を預言せよ。預言して彼ら牧者に言うべし。主ヱホバかく言う,おのれを牧うところのイスラエルの牧者はわざわいなるかな。牧者は群をやしなうべき者ならずや』(エゼキエル 34:2)神の御言葉と御準備を知り,そして自分達だけを肥やし,また聖書を個人の利益をの得る有利な手段だと信じている,このような人々の最後の不幸な結末は,エレミヤ記 25章34-36節に記録されています。『牧者よ,なげき叫べ。群の長たちよ,汝ら灰の中にまろぶべし。そは汝らの屠らるる日満つればなり。われ汝らを散らすべければ汝らは貴き器のごとく落つべし。牧者はのがれ場なく,群の長たちは逃ぐる処なし。牧者の叫びの声と群の長たちのなげき聞ゆ。そはヱホバ,その牧場を滅ぼし給えばなり。』

21 何故或る者らは,イエスが述べた割目を渡らないでしようか?

21 預言的にイサクを献げたアブラハムが丁度ヱホバ神を描いていたように,イエスが話した金持とラザロの譬話の中で,アブラハムは再びヱホバを描いていました。個人的利益のために偽善的に神に仕える人々と,ラザロのように真面目に真理を探し求め,熱心に憐れみを祈り求めたために神の恵みを見出した人々との間には大きな割目が存在することが示されました。金持級の譬えを自ら進んで成就しつづけながらも,世のへりくだる人々の心よい食物と霊的栄養物を等閑にする人々は,イエスがはつきりと示した通り,決して神と和解されないでしよう。

ヱホバの恵みを得る

22 何故単なる懺悔だけで神の恵みを得ることが出来ませんか? 何が要求されますか?

22 平凡な人が,たとえ誠実であるかも知れませんが彼が,毎週懺悔しても,それによつて神との間の正しい立場を得ることは出来ません。単なる口唇だけの奉仕の代りに改められた,積極的な行動過程が要求されています。そしてそれは知識に基いていなければなりません。(ペテロ前 1:14,15)1週あばれ廻つてそれから1週の内の1日だけ突然に信心ぶつてうやうやしく礼拝をするような,ジクザクの(千鳥形の)行動過程に従うことによつて神の恵みを勝ち得ることは不可能です。ヱホバは人間の心に目を付け,人間の思いを知りたもう。それゆえ正しい事を単に公言するだけでは,神からの祝福を得るのに十分ではありません。正しいことに対する確乎たる愛を持つている人はそれを実行するでしよう。彼は指導のために神とその御言葉とに注目するでしよう。そして他の不完全な罪ある人間に向つて単なる懺悔をすることが,繰返し行う故意の悪を直すことが出来るとは決して考えないでしよう。他の人に私達の罪や欠点を語れば,私達は奇跡的に清められて神の前に立てると考える人も居りますが,そのような考え方は,人の告白を聞く人に対して不当な,そして迷信的な尊敬を示すものです。これは確かに聖書に一致しませんし,またイエスが私達の仲保を勤めるという神の取り極めにも一致しません。使徒パウロは彼を神として崇めようとした当時の人々に烈しく抗議しました。ルスカラの人々がパウロとバルナバを崇拝しようと企てた時,彼らは叫んで,こう言いました。『人々よ,何故こんなことをするのか。私たちも人間であつて,あなた方と同じ欠点を持つている者である。そして私たちはあなた方がこんな空しいことを捨てて……生ける神に帰るようにと,よい音信を宣伝えているのである』― 使行 14:15,新世。

23 (イ)パウロはヱホバに対する彼の奉仕をどのように見ましたか?(ロ)神は故意に罪を犯す者を見逃すでしようか?。

23 パウロは絶えずヱホバの御奉仕に活動し続けましたけれど,彼は,もう十分やつたから今はのんびりと,ゆつくりやることが出来るとか,または御奉仕から身を退くことが出来るというような態度を決して取りませんでした。彼は単なる懺悔が神と和解する道であると主張しませんでした。むしろ彼はキリスト・イエスにあつて神が設け給うた決勝点をさして追い求めて努力しつつある自分自身のことを述べました。(ピリピ 3:13,14)彼は自分の不完全さと欠点とを認め,そして真理を知つて神の御目的を立証する驚くべき特権を持つことが出来たのは,ただヱホバの憐れみによるのであることを知りました。彼はこう言いました。『私は自分に何もやましい事があるのを自覚しないが,しかしこれによつて義とされるのではない。私を審くお方はヱホバである』(コリント前 4:4,新世)時々私達は兄弟達の難問題を聞き,彼らに聖書の助言を与えることによつて,彼らを励まし力づけることが出来ますが,しかし懺悔告白が神の前の彼らの立場を変えさせるものと思うべきではありません。大切なことは,その人の行う行動過程であつて,単なる言葉ではありません。彼はもはや古い世の標準によつて導かれてはなりません。彼の心は神の真理の御言葉に従つて改められなければなりません。この事はヘブル書 10章26-29節(口語訳)にはつきり示されています。『私たちが真理の知識を得た後,故意に罪を犯すならばもはや罪のために犠牲を献げる余地はない。待つているものは恐ろしい裁きであり,逆らう人々を食いつくすであろう烈しい火である。モーセの律法を犯した者は憐れみを受けずに,二人或いは三人の証言に基いて死に至る。まして神の子をふみつけにしたり,自分を潔めてくれたあの契約の血を汚したり,恵みの御霊をないがしろにした者は,どんな重い刑罰に定められるかを思いなさい。』

24 各人の前にどんな選択がありますか?

24 或る人々は,人間の困難の泥濘に余りに深くはまり込んだために希望を失つてしまつたと,がつかりして考えます。これは必ずしもそうではありません。そうではなく,その代りに各人に対して選択の門が開かれています。古い世の制度に倣うことを止めて,神と和解するように,という召しに注意することを望むかどうかは,その人の責任です。このような者らに向つてヱホバはこう書いて居られます。『汝らの罪は緋のごとくなるも雪のごとく白くなり,紅のごとく赤くとも羊の毛のごとくにならん。もし汝ら肯い従わば地の善き産を食うことを得べし。もし汝ら拒みそむかば劔に呑まるべし。こはヱホバその御口より語り給えるなり』― イザヤ 1:18-20。

25,26 すべての人が神の恵みを受ける機会を与えられることを,どんな例が示していますか?

25 税金取立人達や売春婦達は,叛逆し,自分を義しいとする祭司長達や民の長老達より先んじて御国に入るであろうとイエス御自身は断言しました。これは,税金取立人達や売春婦達がその悪い行動過程を続けて行くことを言つているのでなくて,イエスが説明した通り,彼らは信じ,そして信仰を示したのです。この信仰の故に彼らの過去の行動過程は,小羊の血によつて洗い清められるのです。余りにも取るに足らず,余りにも卑しい者であつても,贖いと和解の神の愛の御準備を受けることが出来ることを,イエスは更に示しました。牧羊者の例を用いて彼は尋ねました。『あなた方はどう思うか。ここに百匹の羊を有つている人があつて,その中の一匹が迷つたならば,彼は九十九匹を山に残しておいて迷つた一匹の羊を探しに行かないであろうか。もし彼がこれを見つけ出したならば,ほんとに私はあなた方に言う,彼は迷わない九十九匹よりもその一匹の方をはるかに喜ぶ。そのように,これらの小さな者の一人が亡びることは,天にいます私の父の望まれることではない』― マタイ 18:12-14,新世。

26 これと同じ点がルカ伝 15章の譬話の中で,放蕩息子を喜んで迎えたことによつて示されています。その息子は遠い国に旅立ちました。彼はそこで放蕩の生活をして無駄に暮しましたが,飢えの苦しみのために余儀なく豚を飼うことになりました。ついに彼は本心に立ち返つて,父の家に戻りましたが,そこで彼は幸福に受入れられました。父は発表しました。『この私の子は死んだのであるが,生きかえつて来た。失われたのであるが見出されたのだ。』同様に,たとえ或る人が彼の天の父ヱホバ神の家から遠く離れるような道を取り,そして無駄に暮し,愚かな生活をしたにしても,もし彼が本心に立ち返つて,自分の欠点を認めるならば,ヱホバの憐れみと赦しは彼に与えられるでしよう。聖書は私達にこう告げて居ります。『主は……ただ一人の亡ぶるをも望み給わず,凡ての人の悔改めに至らんことを望みて,汝らを永く忍び給うなり』(ペテロ後 3:9)和解と祝福のためのヱホバの偉大な御準備は,すべての種類の人々,すべての階級,地位の人々のためですが,しかしそれを受入れるのはただ心と精神と魂と力をつくしてヱホバに献身した人々だけでしよう。―テモテ前 2:3,4。

27 神に喜ばれるために私達は何故研究しなければなりませんか?

27 神の恵みを得るためには,そして神と和解するためには,研究がぜひ必要です。(ヨハネ 17:3)すべての人は神の御言葉の知識を次第に増し続ける必要があります。誰もそれを全部知つていますと言うことは出来ません。何故なら理解の光は全き日に至るまで更に更に輝いて行くからです。あなたは教育を受けていないという不利な条件に立たされているので聖書の深い事を理解することがむづかしいと言いますか? 落胆しないで,ヤコブの助言を思出して下さい。『もしあなた方の誰かが智慧の足りない場合には,その人は,惜しみなくすべての人に与えて咎めることをなさらない神に求めるがよい。そうすればそれは与えられるであろう』(ヤコブ 1:5,口語)丁度キリストを通じて御自身と和解させるためのすべての御準備をされたお方がヱホバであるように,また神の御言葉に従うための指導を私達に与え,そして御言葉に従う私達を助けて下さるお方もヱホバであります。私達が行う奉仕で神を喜ばせるためには,聖書の深い所を心で十分に会得し,そして真理の堅い基礎の上に根をおろし,確立される必要があります。聖書について知つている他のどんな人も,あなたには貴重ではありません。かえつてあなた個人の真理の理解こそ,いつでも信仰の基礎としてあなたの役に立つでしよう。

28 神を信ずるだけでクリスチヤンは十分ですか?

28 もしもヱホバに向うあなたの心の状態が正しく,そして聖書の正確な知識を持ち,迷信の伝説と信条を持つていないなら,あなたは強い信仰を持つでしよう。しかし聖書中の知識だけでは神を喜ばせるに十分でありません。その中の信仰だけでは十分でありません。熱心な行いだけでは十分でありません。知識と信仰と奉仕の結合こそ神の御承認を得ることが出来ます。私達が得る真理の正確な知識は,私達の信仰の堅い基礎となります。そして信仰を通じて得た動揺しない確信は私達を行動させるように,私達の信仰を行いによつて立証するように,私達を動かします。

29 イエスは神から善い生活以上のものを求められたことを,どのように示しましたか?

29 これらすべての点でイエスは,和解のために私達が従わなければならぬ指導者であります。彼は父の御奉仕に心を籠めて全的に献身し,そして『あなた方が彼の足跡を踏んで行くようにと模範を残された』のです。彼は単に大工としての善い生活をするだけで満足しないで,善い牧羊者としての職務を行うようになりイスラエル民族の中の正しい性質の人々すべてを一つの檻に集めました。彼は主としてその民族の失われた羊を探し出すために彼の生涯を献げました。それから彼は彼の死後もその仕事を行つていくように弟子達を組織しました。彼はこの御国の善い音信をこの組織制度の本当の終りに至るまで宣明すべしと命じました。何故なら神の御目的は,やがてすべての国々から忠信な男女たちを集めることであるのを彼は知つていたからです。そして彼はこのために道を整えられたのです。―エペソ 2:15-18。

すべての人に公やけに述べる

30 真理を聞き得る道がすべての国々の民のために開かれたことが,イエス伝道中のどんな出来事によつて示されましたか?

30 神が他の国々の民に対して和解の道を開き給うことを予知して,イエスは或る時スカルの町の近くの井戸のそばでサマリヤの女に遠慮なく自由に語りました。イエスは其処で彼女に告げました。『真の崇拝者たちが霊と真理をもつて父を崇拝するであろう時が来る。今がその時である。なぜならば実に父はこのように崇拝する人々を求めて居られるからである。神は霊であるから,神を崇拝する者らは霊と真理をもつて崇拝しなければならない』(ヨハネ 4:23,24,新世)神の崇拝は,もはや一つの民だけに制限されたり,又はエルサレムや他の如何なる『聖都』のような一箇所に集中されないでしよう。かえつてすべての人々のために道が開かれて,何処でも神の霊の導きに従うことが出来,真理の水によつて元気を回復することが出来ることになりました。イエスの人生の最後の3年半の間,彼は和解の職務に専心しました。そして父ヱホバの代弁者として,大使として奉仕しました。イエスが人々に伝えた音信は永遠の生命の希望を齎しました。何故ならイエスは,エデンにおける人間創造の時から現在に至るまでの神の御目的をよく知つていたからです。彼はサマリヤの女に知らせました。『私の与える水を飲む者はいつまでも渇くことはない。それは彼の内にあつて泉となり永遠の生命となつて湧き出るであろう』― ヨハネ 4:14,口語。

31 多くの人はどのようにヱホバの真の奉仕に欠けていますか?

31 これらの生命を与える真理の水を受けたあなたは,それを分け与えるために喜んで他の人々を招待しますか? 今日クリスチャンと自称しながらも,その生活を奉仕の任務に献げて実際にキリストに従つていない人々が何百万人も居ります。何百万の人々は聖書の基礎的知識を有し,そして自分達はイエスを信じ,生命の水を飲んでいると述べ,他の人々のようでないことを神に感謝します。そして彼らは国々の民を軽蔑して指さして異教徒と呼びます。しかし彼らは本当の羊のようでなく,牧羊者の導きに従いません。和解のための真のヱホバの証者である人々は,神と仲間の人々とに奉仕して幸福であります。彼らはヘブル書 13章15節(新世)に記されているように言います。『彼を通じて私たちは絶えず神への讃美の犠牲,即ち彼の御名を公けに述べる唇の実を献げましよう。』

32 どんな偉大な職務が私たちに委ねられましたか?

32 使徒パウロは初めの間,国々の民らに善い音信を伝えるのに与つて力がありました。そして彼は,今日神の御目的を理解する人々に神が与え給うた偉大な仕事について力強く語りました。彼はこう言いました。しかし『これらすべての事は神から出たのである。神はキリストを通じて私たちを御自身と和解させ,そして和解の職務を私たちに与えられた。即ち神はキリストによつて世を御自身と和解させ,彼らの罪過を彼らに負わせられない。そして和解の音信を私たちに委ねられた』(コリント後 5:18,19,新世)しばしばキリストが魂を救うということが大いに強調されました。しかしながら私達が和解させられなければならないのはキリストに対してではなくて,むしろヱホバに対してであります。即ち御子イエス・キリストを通じて私達の天の父に対してであります。キリスト御自身は和解の仲保者として,最も主要な大使として奉仕します。そして彼が初めたこの仕事を私達が行い続ける時,人々を神と和解させる点で私たちは実にキリストの仲間であります。

33 パウロは自分が忠実な職務の僕であることを,どのように立証しましたか?

33 この和解の音信について,あなた個人として何を為しましたか? あなたはこの職務に共に与つて居りますか? 何物もあなたの信仰を弱めたり,また何物もあなたが神の御奉仕を押し進めることを阻止したりしないでしよう。パウロが真理を宣べ伝えたために,たとえ投獄され,暴徒に襲われ,打たれ,或いは彼と同国の人々から危難を受けても,その職務を行うことが大変重大であると考えていたことを,あなたは思い出すでしよう。彼はこう述べました。『しかし私が神の恵みの善い音信を証明するために,私の走路<コース>と主イエスから頂いたその任務とを完成することが出来るならば,私はこの尊い生命を私自身にとつて大切であるとは思わない。「受けるよりは与える方が幸である」という主イエスの言葉を思い出して,このように働きつつ弱い人を助けなければならないことを,私はすべての点においてあなた方に示して来た』(使行 20:24,35,口語)パウロは鎖でつながれましたけれど,これによつて彼はその和解の職務をとどめることを許しませんでした。かえつて彼は善い音信を知らせるために,あらゆる言論の自由をもつて語ることが出来るように祈りました。この善い音信のために彼は大使となつていたのです。―エペソ 6:19,20,新世。

34 誰がこの職務に対して資格がありますか? どのようにしてですか?

34 或る者らは,自分達にはそのような資格がないから,この大使の仕事に共に与ることが出来ないと異議を申し立てます。しかしながらヱホバは世の自分を賢いとする聰明な者らを選ばないで,むしろ謙遜と柔和をもつて神の御業を実行する人々を用います。若い大使テモテが彼の前に置かれた仕事を行う資格のあることを立証し得るように,パウロは彼を激励しました。『公けに読むこと,勧めること,教えることを務め続けなさい。……これらの事をよく考え,それに熱中しなさい。そうすればあなたの進歩がすべての人に明らかになるであろう。あなた自身のことと,あなたの教えとに絶えず気をつけなさい。これらの事を努めなさい。何故ならばこれを行うことによつてあなたは自分自身とあなたに聴く人々との双方を救うであろうから』(テモテ前 4:13-16,新世)私たちは今日これと同じ事を行うことが出来ます。

35 ヱホバは和解の職務のために,彼の証者たちにどのように資格を与えますか?

35 もしも私たちが神の御言葉の理解を得るために専念し,それからそれを他の人々に大胆に自由に語るならば,『誰がこれらの事に対して十分に資格があるか?』という質問に答えることが出来るでしよう。パウロと同じように『それは私たちである。何故ならば私たちは多くの人々のように神の言葉を商う者ではなく,かえつて純真な者として,神から遣された者として,キリストに在つて神の前で語るからである』(コリント後 2:16,17,新世)ヱホバ御自身がその御言葉を通じて私たちの教師であるから,私たちはそのように言うことが出来ます。ヱホバは私たちを導き,そして強くするためにその聖霊を遣します。そしてヱホバは今日彼の制度によつて彼の大使たちを教え,奉仕のために準備します。和解の職務に共に与る人々は,彼らの資格が神から来るのであると説明します。『私たちが,何か自分に取柄があると考える十分の資格が自分にある,というのではない。私たちの十分の資格は神から来るのである。そして神は実に私たちに新約の大使としての十分の資格を与えられた』コリント後 3:5,6,新世。

36 神に奉仕する私たちの動機は何ですか? 私達はどのようにして,そうすることが出来ますか?

36 私たちは円熟した奉仕によつて,私たちが行わねばならぬその仕事に十分資格のあることを示しますか? 私たちの職務を活潑に行うことによつて,キリストの知識をはつきり知ることが出来ると,私たちは言うことが出来ますか? 鏡のようにヱホバの栄光を反射しながら,そして言論の大きな自由を行使しながら,私たちは真理の光を輝かせましようか? もしも私たちが誠実にそう言うなら,ヱホバが和解の道を備えることによつて現わし給うたその大きな愛を私たちは知つて感謝します。それから私達は彼が命じ給う奉仕に参加することによつて私達の愛を自ら進んで立証すべきです。私たちの生命の希望はキリストを通じてヱホバの御準備のお蔭です。この事を知るならば私たちは,丁度イエスがサマリヤの女にしたように,他の人々に真理の生命の水を与えることに熱心になるべきです。私達は戸口から戸口へと訪問することによつて人々に語ることが出来ます。私達は隣人たちに真理の話をするために数分間を費すことが出来ます。私たちは善意者と共に聖書研究を行うために1時間を用いることが出来ます。これらの事はすべて,今建てられて居る御国のこの善い音信は全世界に宣べ伝えられるべきであるというイエスの御命令を守つて行われているのです。この方法によつて,どんな国籍,どんな皮膚の色を問わず,あらゆる種類の人々が,神の御前の恵まれた立場に至る道を見出して,その道に従つて行くことが出来るのです。

37 今日音信を伝えることが何故緊急であるか,理由を述べて下さい。

37 この音信を伝えることは急を要します。何故なら神は和解の職務に制限を設けられたからです。『このような無知の時代を神は見のがして居られたが,今や如何なる処でも,すべての人に悔改むべきことを命じて居られる。何故ならば神はその任じ給うた一人の方によつて,正しく世界を裁こうとして,すでにその日を定めて居られるからである。神は死人の中から彼をよみがえらせ,これについてすべての人に確証を与えられた』― 使行 17:30,31,口語。

38 クリスチヤンは何を待ち望みますか? 彼らはどのように感応しますか?

38 今日私たちの職務は,政治的又は宗教的の粘着テープでこの世を間に合わせに繕わうとする人々の無益な夢を指摘することではなく,またイエスが教えられた音信に一致してそのような計画を立てることでもありません。イエスは,神の御国の建てられることと,そしてその御国の下で天の父の御心が天に成るように地にも成されますように祈りなさいと,弟子たちに語りました。彼は更に,彼の国はこの古い世の制度の国ではなく,かえつて正義の神権支配への変換が来なければならないことを述べました。(ヨハネ 18:36)これはハルマゲドンの戦の時に起るでしよう。その時キリストは父ヱホバの執行官として奉仕し,神から離反して和解の職務に反対する人々に立ち向うでしよう。私達は,神に対する信仰を持たない人々への滅びは決して眠つているのではないことを知つています。何故ならヱホバはその御約束を果すのを遅らせていないからです。この故に私達は,私達の住んでいるこの時代の色々の兆に対して眼を閉じないようにし,また私たちに与えられた仕事から私たちの手を引かないようにしましよう。『もし神が居るなら,なぜ神は何事かを成さないのだろうか?』と言う人々の態度をあなたは取つてはなりません。神が或る事を成したことを確信しなさい! 神は信仰ある人々を買い戻すために御子を準備されました。そして神は間もなく,正義の住む新しい天と新しい地に道を開くために,ハルマゲドンで古い組織制度を拭い去ることによつて,地に関する御目的を完全に成し遂げ給うでしよう。

39 (イ)和解の祝福は今どのように明示されましたか?(ロ)彼らはどのように完成されるでしようか?

39 その時再び人々はエデンの時のように,地上で幸福のうちに永遠の生命の前途を持つでしよう。丁度ノアとその家族が洪水を通つて生き続けたように,或る人々はその艱難の時を通つて生き,そして王キリストの完全な支配の下に存在し続けるでしよう。人々を祝福する神の御準備が全面的に実施される時,病気も,そして最後には死も,もはや人々の肉体を支配しなくなり,消え失せるでしよう。キリストの千年統治の終りに人々は,エデンでアダムがよこしまに曲つた時から失われていた神の前における正しい恵まれた立場への完全に回復されるでしよう。今日この時でさえ,天の『小さい群』に入れられるために神に選ばれた人々には,義が与えられ,そして彼らが御子の死を通じて神と和解させられたという保証があります。(ロマ 5:10,11。コリント後 5:18-21)しかし清められた地上で生きることを待ち望むすべての者の,神への和解はキリストの千年統治の終りに完成されるでしよう。和解の取り極めの知識と心の平和とは今信仰を通じて神の民に与えられます。そして彼の時に彼らは完成を喜ぶことでしよう。何十万のハルマゲドンの生残者たちは彼らの地の家を美化するために共に働いて,その正義の支配の間に,テデンのように楽園の美が拡がつて全地を包むでしよう。そして人間が神の御命令の下に仕える時に,神の御目的は成し遂げられるでしよう。

40 あらゆる障害にも拘らず,今従うべき賢い道筋は何ですか?

40 これらの事実から見て,たとえ真理の言葉をしつかり握つているために現在困難や迫害を受けようとも,私たちの善い行いに臆病になつたり,弱めたりすべきではありません。夜は夜通し泣き悲むとも,朝には喜びが来るであろうと告げられて居ります。そしてキリストの永い支配の新しい世に入る特権を与えられたすべての人々にとつては,それはたしかに本当でしよう。今はサタンの支配下の人間歴史の暗黒時代です。しかし今でさえ,正義の新しい世の夜明けの道を開くために,その暗黒は次第に消えて行きつつあります。あなたは人間歴史のこれらのすさまじい変化を見て楽しむ特権を与えられているでしようか? もしあなたがこの希望を持つなら,今日ヱホバの証者が成し遂げつつある全世界的の和解の職務に共に与りなさい。次のように言うのは,あたかも神が彼らを通じて懇願しているようです。『私たちはキリストの代理者としてお願いする,「神と和解しなさい」と。』― コリント後 5:20,新世。

41 ヱホバを愛し,ヱホバに奉仕する人々の前には今どんな前途がありますか?

41 そうすることによつて,あなたはただ神との平和によつてのみ齎らされる真の幸福を持つことが出来るでしよう。丁度神が今新約の中にあるクリスチャンすべての人々の心に神の律法を記し給うように,キリストの御国のすべての臣民たちに,神がそのように為し給う時が来るのをあなたは見るでしよう。その時もはやすべての人がその隣人や兄弟に「ヱホバを知れ」と教える必要はないでしよう。何故なら最も小さい者から最も大きい者に至るまで,すべてヱホバを知るでしよう。ヱホバは彼らの不義を赦し,その罪をもはや思はないでしよう。(エレミヤ 31:33,34。エゼキエル 11:19,20)このような幸福な状態の下であなたの隣人たちと共に働きながら生活することを想像してごらんなさい! あなたの前には,神と人類との和解に充てられる一千年が繰り広げられるでしよう。そしてその彼方にはヱホバに奉仕する永遠が在るでしよう。人類のためのヱホバの愛の御準備はまた全創造物に対する神の祝福にも反映されるでしよう。その時生命を楽しむために,今和解の職務に共に与りなさい。

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