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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1980
塔80 9/1 3–4ページ

愛を示すさらに優れた方法がありますか

わたしたちは様々な特質を培うことができますが,「このうち最大のものは愛です」。(コリント第一 13:13)使徒パウロがここで語っていた愛の種類は性的魅力に基づく愛であるエロスではありませんでした。このエロスという語からエロチック(性愛の)という語が派生しました。また,ストルゲーつまり家族関係に基づいた愛でも,フィリアつまり個人の好き嫌いが似通っているということに基づく愛でもありませんでした。使徒がここで用いたギリシャ語はアガペーであり,これは,原則に基づいた,もっぱら外に向かう積極的な愛を表わしています。

物質的性質のものや物質的価値のあるものを与えることは,愛を示す様々な方法の一つです。こうした行為自体は立派です。しかし,これより優れた愛の示し方があるでしょうか。人々から深く愛されていたある聖書研究者は幾年も前に次のように語ったと言われています。『もしわたしたちが,主の業により多くのお金を差し出すか,それとも自分の時間と精力をこれまで以上に用いるかのいずれか一方を選択できるとすれば,後者を選び,自分の時間と精力をより多く用いるようにするほうが賢明です』。それはなぜですか。なぜなら,それによって神にいっそうの誉れと賛美が加えられることになり,その上,自分自身も幸福になれるからです。

全体的に見て,エホバのクリスチャン証人はこの原則を正しく認識しています。何年か前,米国,ピッツバーグのある新聞に,「空港近くの大会ホール建設に労力を提供するエホバの証人」という見出しの記事が載りました。作業現場の大きな写真を載せたその記事は,文字通り幾千人もの人々が自発的に援助を申し出ており,時にはそうした援助が必要を上回ることもあった,と伝えていました。この報道を読んで,プロテスタントの教会の一執事は,自分の監督するある計画に支持を呼び掛けてもごく少数の人しか応じないと次のようにこぼしました。「プロテスタントの教会の数の多いことと,この計画に関係を持つ関連団体すべてのことを考えてみたまえ……[それなのに]この計画を進めるために一日分の労力を無償で提供してくれる人を6人以上駆り集められたためしがない」。教会に通うそれらの多くの人々には,精一杯の努力を払って時間やエネルギーを提供するよりも,金銭を寄付するほうが楽に思えたのでしょう。

しかし,神に用いられた筆記者つまり霊感を受けた聖書筆者の示した率直さをもって言えば,エホバ神に全き献身をしたと公言する人々の間にも,ともするとこの面で幾分不適切なところが見られることを指摘せざるを得ないようです。一例として,最近建てられたエホバの証人の大会ホール建設計画のことを取り上げてみましょう。この建設計画を監督した人の話によれば,金銭上の寄付の面で兄弟たちの支持は全く奇跡と言うほかありませんでした。大会ホールの建設には100万㌦(約2億4,000万円)近くの経費を要しましたが,建設が完了するまでにはまちがいなくその金額が支払われる見通しでした。しかし,個人の時間や労力を傾けてこの建設計画を支持する面では,同様の認識は見られなかったようです。

何が問題だったのでしょうか。寛大に金銭上の寄付をすればそれで十分であると考えた人が少なくなかったようです。確かに寛大な寄付をするのはとても立派な行為です。しかし,物質上の支持を行なっているからといって,自分の事情が許す場合に,時間と労力を傾けてその仕事を手伝う務めがなくなるというわけではありません。イエス・キリストはある富んだ若い支配者に,持ち物を売ってそのお金を貧しい人々に与えるだけでなく,その後ご自分に従うようにともお告げになりましたが,その際イエスはこの点を指摘しておられたと言えるでしょう。―ルカ 18:18-23。

この同じ原則はクリスチャンの奉仕のあらゆる分野に適用されます。実際,できるものなら,自分の時間とエネルギーのすべてを神への奉仕に用いるのはより優れた行為ではありませんか。王国会館の寄付箱にお金を入れることのほうが,王国会館の清掃や周囲の土地の手入れをゆだねられて会館に出掛けることより行ないやすいかもしれません。しかし,後者の場合のほうが,いっそう多くの愛を示すことにならないでしょうか。聖書と聖書文書の印刷に必要な資金を寄付するほうが,時間を割いてこうした印刷物を人々の家庭に携えて行き,王国の良いたよりを宣べ伝えて人々を弟子にする業に努力を傾けるよりも容易なことでしょう。しかし,この場合も,後者のほうが愛を示す,より優れた仕方ではないでしょうか。それは,イエスが預言し,ご自分の追随者たちに行なうようお命じになった事柄ではありませんか。マタイ 24章14節およびマタイ 28章19,20節からも分かる通り,確かにそうした事柄が求められています。

この原則は家族の中でも当てはまります。夫が妻のためにお金を用いるのはほめるべきことです。しかし,愛を示す方法として,妻のために時間を割いたり注意や関心を向けたりするほうがより多くの愛を示していることになりませんか。事実,お金のことでは非常に寛大でも,心の底から妻を愛しているわけではない人もいるのです。例えば,昔,政治的にも著名な一人の弁護士がおりその人は物質面では妻に対して何でも惜しげなく与えていました。ところがある日,妻は,夫がある女性を囲っているのを知ってショックを受けました。このように,物質を与えることは真の愛の表現でさえない場合があるのです。夫が物質面で備えることのできるものは事情によって様々に異なることでしょう。しかし,「さらに勝った道」について言えば,貧富の差を問わず,だれもが同じ機会を持っています。―コリント第一 12:31-13:13。

親が子供に愛を示す場合にも事情は同様です。親の中には,子供のころほしい物もほとんど持てなかったため,我が子には良い物やきれいな服,おもちゃや趣味に必要な品々などをたくさんあてがってやろうと心に決めている人がいます。しかし,そのようにするなら,はなはだ思慮に欠けていることになります。自分にできる精一杯のことを行ない,時間と関心とエネルギーを子供たちに向けるのはそれよりはるかに重要です。これには確かにいっそう多くの自己犠牲が求められるかもしれませんが,こうした歩みはそれだけ多くの報いをもたらします。言い換えるなら,緊急な場合やごくまれな機会を別にして,テレビやベビーシッター(子守り)に自分の代わりをさせてはならないのです。そのようにして,親が夫婦でナイトクラブへ出掛けるようなことがあってはなりません。

それでは,精一杯の努力を傾け,時間やエネルギー,関心,注意,愛情を向けることが愛を示すより優れた道であるという点を常に思いに留めておきましょう。物質的に価値あるものを神の業に役立てたり愛する人々のために用いたりするのは立派な行為です。そうしたものは必要だからです。しかし,それ以上に価値のあるものを与える力が自分にあるのに,物質を与えることだけで満足していたいとは思いません。もしもその両者のいずれかを選ぶ機会があるなら,精一杯のことを行ない,「自分の魂」をさえ分け与えて,いっそう優れた愛と知恵を示していくようにしましょう。使徒パウロはまさにそのようにして,神から豊かに祝福されたのです。―テサロニケ第一 1:6-10; 2:8。

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