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その2ものみの塔 1965 | 5月1日
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にあるのか』。死のとげは〔アダムから受け継がれた〕罪である。罪の力は〔モーセを通して与えられ,すべての人を罪に定めた戒めから成る〕律法である。しかし感謝すべきことには,神はわたしたちの主イエス・キリストによって,わたしたちに勝利を賜わったのである」。(コリント前 15:54-57)そうです,全能の神は死を永久に呑み,その勝利を空しくすることができます。神は19世紀前,死と陰府からみ子イエス・キリストを復活させ,この力を持つことを示されました。事実イエス・キリストの復活は,約束された神の国において治める王イエス・キリストにより,神が人類一般を復活させることの保証です。
31 ゆえに私たちは大きな希望を抱いてこのすばらしい事柄の探究をつづけ,だれが死から復活するかという問題を次に考慮できます。
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人はなぜ神に祈ることができるかものみの塔 1965 | 5月1日
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人はなぜ神に祈ることができるか
すべての宗教に共通なのは,祈りという行為でしょう。オーストラリアの原住民であろうと,現代の科学者であろうと,宗教心のある人々は祈りをします。ヒンズー教徒,アフリカのブーズー教徒,回教徒,ユダヤ教徒,カトリック教徒,新教徒,またクリスチャンのエホバの証者もみな祈りをします。この問題に人々が関心をもつ証拠に,ニューヨーク市のある著名な神学校には,祈りにかんする書籍が1200冊もあります。
とくに危急の場合になると,人々はよく祈りを始めます。日曜日の朝のテレビの漫画にでてくる信心深い人物も,「私は非常に恐ろしくなって,おもわず祈りはじめた!」と言います。アメリカの原子力潜水艦スレッシャー号の艦長の妻はその典型的な例です。海軍は,同潜水艦から8時間も連絡を受けていない,という知らせを聞いたとたんに彼女は,「ではお祈りを始めたほうがいいですね」と言いました。アイゼンハワー元帥がかつて,「ざんごうの中に無神論者はひとりもいない」と言ったのも,不思議ではありません。
たしかに人間は,窮境に陥るととりわけ,自分より力の強い何者かに,つまり神に,本能的に助けを求めます。しかし,無数の天体を含む無限の広がりを創造された宇宙の神の偉大さを考えるとき,神はなぜ,取るに足りない,ちりの上のちりのような小さな人間に関心をもたれるのか,不審に思えるでしょう。事実,理神論者はそう考えます。彼らは,創造主としての神の存在を信じながら,神が人間にご自身を啓示されたこと,人間の運命に深い関心をもたれることを否定します。理神論者によると,神とは,「世界という機械のねじを一度まいただけで,あとは世界が自由勝手にわが道を行き,また自から自己発展の道を切りひらいて行くにまかせた,不在の神」です。
しかし神は,導きも与えずに人間を放置したのではありません。どうして神が,地球上の最もすぐれた被造物を差別待遇されるでしょうか。神は,すべての下等動物に,彼らを導く正確な本能を与えられたではありませんか。であれば,人間にも,正確な導きを与えるのが当然です。神はその導きを,ご自身のことばである聖書の中に備えました。愛とか知恵,公正という性質が人間にあるという事実は,神にもそういう性質のあることを物語っています。同じものをもたれる以上,神が,人間に探求心や理性を
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