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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 6/15 357–362ページ

全体主義の異端審問所から救わる ― 神への信仰を維持することにより

エリック・フロストの経験談

私の前にドイツのある一流の雑誌がおいてあります。その中には収容所での生活を描いた連続小説がのせられています。今まで読んだ小説の中で収容所の生活を一番よくうつしだしているようですが,でも最悪の状態というのは描かれておりません。あまりひどすぎて,筆にすることができないのです。

わりあい最近のこと,世界がナチの勢力に恐れおののいたときがありました。その勢力がボルガ川に向かって東に伸び,西はイギリス海峡にまでくいこんだ時のことです。寒帯のスカンジナビアから灼熱のアフリカの地域にいたるまで全体主義者たちは行進していきました。何年もの間,ナチの勢力をはばむものは ― 本国にあったひとつのものを除いては ― 何もありませんでした。

ドイツ本国においてナチはやっきとなってそのひとつのものエホバの証者をなきものにしようとしました。しかし失敗しました。時の流れが5世紀も逆流して,恐ろしい異端審問所を復活させ,これがナチの収容所で咲き誇ったのです。神に対する信仰により,何千という人々は私と同じく生きながらえ,経験を語ることができます。

まず1919年からのできごと ― 全体主義の国でものごとをむずかしくしたできごと ― をふりかえってみることにします。その年に私の母は当時「聖書研究生」として知られていたエホバの証者になりました。私は音楽に興味をもっていました。母の熱心な証言の結果,父と私はエホバの証者としてよろこんで1923年3月4日,私のふるさと,ドイツのライプチヒで洗礼を受けることになりました。私は音楽の勉強をやめ,喫茶店で演奏したり催しものに出たりして生活費を得,多くの自由な時間を主のわざについやすことができました。1924年エホバに対する全時間奉仕を始め,ライプチヒにおける協会の文書保管所で働くことになりました。何年かたってから,協会がつくった創造の写真 ― 劇を映写してまわるようにという招待をうけました。今でも何千という人々は地の創造と人類に対する神の目的をうつしだしたその美しいスライドをおぼえています。「巡礼」あるいは聖書の講演者として多くの会衆を訪問し,それを映写してまわるのはすばらしい特権でした。

あらしをよぶ雲行き

ドイツにおける証言のわざは急速にひろがっていきました。1919年から1933年までに熱心なドイツの証者たちは4800万冊の書籍や小冊子,それに加えて今「目ざめよ!」と呼ばれている「黄金時代」のドイツ語版を7700万冊配布しました。1932年にはナチの色彩がだんだん強くなってきました。写真 ― 劇を上映するさい暴徒におそわれたことはしばしばでした。非常に険悪な事態にたちいたったので,警察の保護がないと上映できなくなりました。この期間に私は5,6人のナチの者たちに目をつけられるようになりました。

1933年の1月,ニュールンベルグのある証者の家を訪問していた時,ヒトラーが勢力をにぎったという爆発的なニュースをベルリン放送で聞きました。これから私たちがどうなるかということは,だいたい察することができました。あらしはその年の4月にやってきました。その時協会の大きな新しい工場とマグデブルグにあったベテルは警察によって占拠され,印刷機に封印がおされました。

国家をくつがえそうというような活動がされているという証拠は皆無だったので,4月28日に建物は協会の手にもどされました。

6月に7000人の証者はベルリンに集まり,ヒトラー政府の高圧的なやりかたに強く抗議する決議を採択しました。マグデブルグにあった協会の建物は3日後に没収され,そこで働いていた180名は強制的に立ちのかされました。私たちの宗教面の敵は,ヒトラーがつぎのように宣言したとき非常によろこびました,「私はドイツにおける『熱心な聖書研究生』を解散させる。彼らの所有物は人々の福祉のためにすべて使われる。彼らの文書はすべて没収されるであろう」。

この所有物はアメリカの協会の名義になっていたので,アメリカの国務省とドイツの間で交渉がつづきました。所有物はふたたび協会の手にもどってきました。しかし伝道活動の上にしかれていた禁令はとかれませんでした。集会は禁じられました。900万円以上に相当する聖書や聖書の文書が燃されてしまいました。1934年には投票しなかったり「ヒトラーに敬礼」しなかったために,多くの証者は職を失い始めていました。

1934年の春,私は10日間刑務所の厄介になり,それから釈放されました。その後まもなくチェコスロバキアにもどることができました。以前そこで写真 ― 劇を映写したことがあるのです。わざがドイツで禁止され,われわれの事務所が閉ざされている時だったにもかかわらず,国外で122回も映写することができ,本当にありがたく思いました。しかし以前のチェコスロバキアのように,ものごとはそう簡単ではありませんでした。私をナチの者だと思った警察により夜何度となくおこされました。

その間にドイツの兄弟たちは大胆でしかも決定的な一歩をふみだしました。禁じられていたにもかかわらず,1934年10月の7日,すべての会衆が集まり,どんな犠牲をはらってもエホバの崇拝を続けるという旨をヒトラー政府に通告する決議を採決しました。厳粛な祈りを捧げて後,その抗議文は電報でベルリンに送られました。同じ時,他の50の国々でもエホバの証者は集まりドイツのナチに電報を送り強く警告しました。ルーデンドルフ将軍の全権委員のひとりが後になってもらしたところによると,この大たんな電報をみたとき,ヒトラーはとび上り「こいつらをドイツから抹殺してやる!」とどなったということです。

クリスチャンの地下運動

1935年の5月ドイツに帰った時,私は地下運動に加わりました。6月13日の晩ホテルにいたところを逮捕され,ベルリンの「コロンビア・ハウス」に連行されました。そこで私の一生涯のうちで最悪の5ヵ月間をすごしました。いつも独房に入れられ,棍棒で打たれ,ふみつけられ,悩まされ,いやしめられました。人間も獣のようになれるのだということをその時知りました。ゲシュタポのひとりが,無意味な質問をくりかえしましたが,私を革命家として有罪にすることができませんでした。突然私は釈放され,更にエホバにつかえるため程なくして身をかくし地下運動に加わりました。

スイスのルツェルンにおける大会の準備がはじまっていました。その間にもナチは,私たちの狩込みに拍車をかけてきました。すでに責任の地位についている兄弟たちは逮捕されていました。私の仕事は弱くなっているところを強め,わざを軌道にのせることでした。ゲシュタポの手から裏木戸や窓をつたってかろうじて逃げたことは数限りなくありましたが,母と私の兄弟は逮捕されてしまいました。

1936年9月,ルツェルンの大会に出席したのは協会の会長,ルサフォード兄弟と,ドイツから行った私たち2500名でした。私の受けた任命はひどくたたきつけられた地下組織を再組織することで,ただちに着手しました。また,ドイツで大会の決議を出しぬけに配布するという計画もたてました。1936年12月12日,夕方の5時から7時にかけて30万部の決議が,ドイツのすべての大きな都市の家々に静かにくばられました。群れをなしてやってきた警察や秘密警察は,エホバの証者をひとりもつかまえることができませんでした!

もちろん,地下運動は迫害にさらされながら自由や生命そのものを失う危険をおかしてなされたのです。しかし兄弟たちは力を更新するために霊的な食物を必要としており,証言するのにも何かが必要でした。汽車の中で捜索が行なわれたため,いつでも危険にさらされました。紙をたくさん買っても怪しまれました。それで運搬人でゲシュタポの手で捕えられた者はたくさんいます。5,6人の兄弟は「ものみの塔」の配布を準備したというかどで,処刑されました。それにもかかわらず,神と隣人に対する愛にうごかされ,神の証者たちはキリストのもとの神の御国の良いおとずれを伝道し続けました。わたしたちの知謀に富んだやりかたを評してナチ裁判所の機関紙,「ザ・ナショナル・ソーシャリスト・リーガル・ミラー」の第1面は次のような記事をのせました。

「禁じられている研究会の信奉者たちは,また仲間のまじわりを保ち,おたがいに信仰を強めようとした。そのほか,あらゆる機会をとらえて,彼らの同胞を彼らの考え方に同化しようとした。熱心な聖書研究生たちは,買物をしている時でも,散歩している時でも,公園に坐っている時でも,道に立っている時でも,全然未知の人に話しかけ,最初は時局の話をし,じょじょに彼らの信仰や禁じられた教理へと話題をかえてゆく。そうするのは『エホバの証者』としてのつとめだと思っている」。自分の身にふりかかる危険をもかえりみず,エホバの証者は他の人々に信仰を分け与え,その人たちも共にこの世の終りに救われることに心をくばっています。

ナチの屋根の下で

キリストの死を祝う記念式が1937年3月27日に行なわれることになっていました。その時私は地下運動のことを話しあうために10人の兄弟たちと会うことになっていました。朝の2時,アパートのドアをひどくたたいたり,けったりするのが聞こえました! 即座に大切な情報がかいてある紙を寝台のマットの中にかくしました。秘密警察の者が10人どやどやとはいってきました,「さあ,起きて支度をしろ,フロスト。もうじたばたしてもだめだ!」。私はエホバに祈り,彼らが部屋をひっかきまわしているうちに洋服をきました。その小さな名簿はとうとう見つからずにすみました。

ことは早く運んでゆきました。ゲシュタポは記念式のためにその週の金曜日に私たちが会うということを知っていました。しかしどこで会うか知らなかったのです。一度ならず私は打たれ無意識になりました。意識をもどすために彼らは私の頭に水をかけました。すぐ横たわることも坐ることもできなくなりました。金曜日から月曜日まで,ほとんど何も食べませんでしたが私が兄弟たちのために口をとざしていることができるようにとエホバに祈り続けました。ゲシュタポの前に再び出された時,私はライオンの穴にいれられたダニエルのことを思いました。彼らの怒りやののしりの言葉のはしばしから,私が聞きたいと思っていたことがわかりました。警察の捜査網は兄弟たちをとらえることができなかったのです! 私のよろこびは言葉にあらわすことができませんでした。

7月に私の妻が捕えられたという知らせがはいってきました。私たちの息子はナチの手によって育てられることになりました。ほかの多くの証者の子供たちも,両親からとりあげられナチの家庭にいれられました。たいていの子供たちはこの試練により強められました。13歳の少女が両親にあてて次のように書きました,「私はいつもお手本としてヨブやダニエルその他の忠実な人々のことを思い出します。神に不忠実になるくらいなら死んだ方がましだと思います」。ひどい圧迫にもかかわらずこれらの子供たちはヒトラーの青少年運動に参加するのを拒絶しました。ある子供たちはクリスチャン的な行為のゆえにナチの親たちにより自分の子供たちにまして好まれました。

収容所からサクセンハウセンへ

エムスランドの方の沼地で,私たちは非人間的な仕事をするように要求され,また残忍な仕うちをうけて,ほとんど絶望的になりました。たぶん「ワルデスランドの地獄」というのを聞いたことがあるかもしれません。信仰と,忠実なエホバの証者との交わりにより,私はささえられ一番むずかしいことにもたえることができました。日曜日には,共に集まって聖書研究会をひらき,以前神の御ことばから学んだことで記憶にあるものを思い出すようにしました。同僚の囚人たちも私たちと共に「生命の水」を飲むように招待されました。しばしば彼らは私たちの討論に熱心に耳をかたむけていました。

第二次世界大戦が勃発した後に,私の刑期が終わり,ベルリンに連れもどされました。99日の後にサクセンハウセンの収容所に入れられました。秘密警察の看守たちの残酷な応待ぶりは,想像以上でした。同時に280人のエホバの証者にむかえられた時の喜びも想像以上でした。彼らはすべて同じようなつらい試錬を受けてためされ,強められていたのです。ベストセラー「地獄の教理と実践」の中にでてくるクリスチャンというのはこれらの人々のことです,「戦争が始まった時,サクセンハウセンの収容所にいたエホバの証者たちは軍隊に志願するようにと言われた。ひとりが拒絶すると仲間の10人の者が射殺された。40人の者を殺してから,秘密警察は打つのをやめてしまった…心理学的に言って秘密警察はエホバの証者の比でないということは,どう見ても明らかである」。このような人々と共にいられるのは何という喜び,何という慰めだったでしょう! 「鉄は鉄をとぐ,そのように人はその友の顔をとぐ」という聖書の言葉がこれほど身にしみて感じられたことはありませんでした。―箴言 27:17,新口。

信仰を否定する宣言書に署名するなら,収容所の門がただちに開かれ,即座に自由になれると私たちはくりかえし説得されました。フランスのシャルル・ドゴールのめいであるジュネビーブ・ドゴールは,ラベンスブルックの収容所にいるわれわれの姉妹たちのことを追想してやはりこのことに言及しています,「信仰を否認するなら,彼女らはただちに自由の身になれたのです。しかし,抵抗することを止めませんでした。それどころか収容所内に本やパンフレットを持ちこむことに成功したのです。その文書のため数人の者は絞首刑になりました」。このような大胆な証言の結果,その収容所にいた300人の若いロシアの婦人はエホバの証者になりました。ほかの囚人に話すことは禁じられていましたが(もし聞くと25回むち打たれ,独房にいれられました),エホバの民は最後にいたるまで,固く立とうと決意していました。これによってエホバの力を表わしエホバに栄光を帰すためです。ブッケンワルト収容所から出てきたひとりの人は,エホバの証者が「禁じられても,罰を受けても」信仰を立証してやまなかったと語りました。彼らはただ自分のことだけ考えているだけではなく,他の人のことをも考えているのです。ハンブルグの近くのニューエンガムの収容所で,兄弟たちは「神の御国にかんするニュース」という新聞を定期的に発行したほどです。

オーシュビッツ(オスビーシム)の収容所では30人の姉妹が働いており,そこへひとりの兄弟が暖房装置を修繕するためにつかわされました。昼食の時6日間続けて兄弟は姉妹たちに神の言葉を語り,姉妹たちを元気づけました。この機会が与えられたことを姉妹たちはエホバに感謝しました。同情的な見張りは,ライフル銃を足もとに置き坐って興味深げに聞いていました。看守が兄弟たちと愉快に話をするというのも珍らしいことではありませんでした。私たちを捕えた者はいつも率直で大胆な証言を聞かされました。なぜなら私たちと同様に,彼らの永遠の生命も問題になっているということを知っていたからです。秘密警察のオバーマスタムヒューレル(少佐の階級ぐらい)の事務所で働かされた姉妹は,よく彼から警告されました。「あんたの首をはねるようにいいつけるぞ!」 彼には秘密で,この姉妹は収容所の大会の時兄弟たちを驚かせようと,彼の道具を使って文書を作りました。何度も何度も姉妹は彼にエホバの目的について話し,少しづつ彼は友好的になってきました。このような大胆な伝道と隣人愛の実が結び,ライオンの穴の中でもしばしば信仰が生まれました。あちこちのいろいろな収容所で,秘密警察の看守はナチの宣誓をとき,エホバに対する信仰を明らかにしました。これらの迫害者「サウロ」は「パウロ」になり,私たちと同じ囚人になりました! また政治犯の中で多くの男女はエホバの証者になりました。水たるでも洗礼用のプールとして使われました。

エホバに対する私たちの信仰は決してゆるぎませんでした。有名なスイスの新聞記者,ビョン・ホールシュトロムが後になって報告したことは,ナチの責苦にあっていたすべての兄弟たちについても言えることです,「彼らはほかのどのグループよりもひどい仕うちを受けた。しかし,神に対する信仰によりほかのどのグループの者より生き残った者が多かった」。

収容所の外でゲシュタポの捜索網がエホバの証者の半分以上を捕えたということはかつてありませんでした。私たち約1万人の者は投獄されていましたが,それと同じく1万人の証者は外でひき続きエホバの御国の良いたよりを伝えていました。夜ひそかに集会を開いたり,森で集まったりしたのです。葬式の時でさえもクリスチャンの交わりを楽しむ貴重な時間となったのです。

災の前兆

「首謀者」に対する罰として私たち16人は,引き留めの理由をきかされてから鉄のむちで25回打たれました。ついに秘密警察建築会社という名のもとに,フランスと英国の海岸の間にある岩の多い島アルダーニーに連れていかれました。私たちを捕えた者たちによってもさいなまれたことはしばしばありましたが,仲間の囚人たちにも危険なのがいたので,それらからも身を守る必要がありました。その頃,ヒトラーの軍隊はスターリングラードでくいとめられてしまい,ヒトラーの運勢は傾きかけていました。ナチの勢力は災の前兆をよみはじめていました。

1944年の6月,星が輝やくある晩のこと,私たちは港に立って連合軍の侵略してくるのを見ました。私たちは古い船に乗せられ,セントマローに連れていかれ,それから汽車で ― 1両に60人ずつ乗せた貨物列車で ― フランス,ベルギー,オランダを通り,ドイツに戻されました。私たちを乗せた5,6そうの船をキール湾で沈めてしまおうとした計画は,オーストリアへ移されるのが遅れたため,失敗しました。1945年,5月5日,アメリカの戦車隊は,ついに私たちを自由の身にしました。

ちょうどこの頃進軍してくる連合軍の圧力により多くの収容所の門は開け放され,何千というやつれはてた囚人たちを,爆撃を受けた地へ注ぎ出しました。監視づきで彼らは行進しなくてはなりませんでした。弱くて進んで行けない者や途中で食物を略奪しようとした者は秘密警察員の手により,容赦なく射殺されました。たくさんの者は死にました。エホバの証者はたがいに助け合って進んでいきました。証者たちはたびたび村人に伝道し,感謝のしるしとして食物を分けてくれました ― これもエホバからの備えのひとつでした。「今私は自由の身になりました。エホバの御名をひき続き賛美することができて,御父とわれわれの指導者,イエス・キリストに感謝します」。この言葉がエホバの証者の口びるからもれるのは間近かに迫っていました。

異端審問所は失敗に終わりました。

再建

エホバの聖霊が私たちをかりたてたので,じっとしてはいませんでした。私たちのうちの多くの者は,家がまだあっても家へ帰ろうとしませんでした。真先に気になったのはマグデブルグにあった協会の建物のことでした。それがちょうどロシア人のためのホテルになろうとしているということがわかりました。ソ連の将校たちにエホバの証者とは誰かということを分からせるのは全く神経のすりへる仕事でした。くる日もくる日も出かけて行ってかけ合わなかったならば,東ドイツのわざは決して再出発しなかったでしょう。私たちは口をすっぱくしてドイツにおける制度の本部が昔マグデブルグにあったこと,またこの事務所から4つの駐留地区のわざを管理するつもりだったということを説明しました。ついに彼らは承諾し,共産主義の地区におけるわざはほかと同様に進められました。

程なくしてドイツの数々の会衆は新しく組織されました。最初のうちはただ聖書と1種類のパンフレットのみを用いて伝道しました。でも少なくとも共に自由に集まることができ,たがいに助け合うことができて幸福でした。戦争直後の集会中兄弟や姉妹が飢えや体の疲れでいすから倒れてしまうということもありました。アメリカにいるエホバの証者たちからケア物資が送られてきました。またアメリカとスイスの兄弟たちは衣服をたくさん送ってくれました。私たちは非常に感謝しました。このおかげで本当に助かりました。

1946年,私たち9000名の者は心を燃やしてニュールンベルグの大会に出席しました。マグデブルグでも大会があり6000名が出席しました。私たちの歌うのを聞き何百という人々が洗礼の場所に歩いてゆくのを見た時のロシア人の顔とゼスチャーときたらとうてい真似られません。もちろん,街頭での集まりはすべて固く禁じられていましたが,洗礼のことを説明したら別にさまたげようとしませんでした。東ドイツの新しい全体主義的支配のもとで,この自由はそう長くは続きませんでした。

協会の会長,ノア兄弟は1947年にドイツにきました。今私たちの拡大されたベテルの家がたっている ― ウィスバーデンの建物と土地 ― を借りる契約が成立しました。この西ドイツでエホバの証者は戦争直後の二,三千人から現在の6万8000人にふえました。

彼らはエホバの新しい世の喜びのおとずれを今熱心に宣明しています。このような結果を見る時に私の心は喜びでみちあふれ,エホバに対する感謝の念でいっぱいになります。1950年と1953年そして1958年にニューヨークの大きな国際大会で過ごした幸福な日々に対しても,また感謝しております。エホバはその上ここドイツでも私たちのために大会を備えて下さいました。そのひとつは1955年の大会でその時12万5000人がニュールンベルグとベルリンに集まりました。わずかな年月のうちに神の僕が成しとげ,また目撃できるものは,何と多いのでしょう!

救いは確実

ナチの収容所に共産主義者が私たちと共にはいっていた時,よくこう言っておどかしました,「もう一度われわれが権力をにぎったら,お前たちのようなおどけ者は絞首刑にしてやるぞ!」 1950年エホバの証者のわざは禁止され,共産主義の東ドイツで全体主義の異端審問所が復活しました。マグデブルグの事務所は再び没収されました。そしてもう一度兄弟たちは,エホバが必ず救い出して下さるということを信じて,この挑戦を受けました。

私の思いがドイツを分けているいわゆる「カーテン」を越えて,それらの兄弟たちの上に行くのも当然だということがおわかりになりますか。これらの兄弟たちは何年もの間ナチの収容所で苦しみ,今また共産主義の収容所で耐えているのです。現在東ドイツで投獄されている者は407名です。私は70歳になるX兄弟やY兄弟,あるいはそれより少し若いZ兄弟,A兄弟,B兄弟のことを思います。この兄弟たちはみなエホバに忠実を保ったために神の敵たちの残酷な手の中で,ほとんど20年間も過ごしているのです。

もれてくる報告によると,兄弟たちが勇敢にそして確信にみちてたち向かっているということがわかります。収容所の兄弟たちは,しっかりと立って,御国の希望を常に自分たちの目の前に,そして隣人の目の前にかかげています。そうすることによりエホバが御自分の王であるキリストを通し,敵の真只中で支配しているということを日々示しています。エホバがあかしのためにゆるしているかぎり全体主義の異端審問所はエホバの民を捕え苦しめることができます。しかしなにものもエホバの聖霊を拘束することはできません。

全体主義の異端審問所にいるクリスチャンも,その迫害者たちも次のことを決して忘れてはなりません。つまりエホバはナチの異端審問所で常に証者たちと共にいたということです。証者たちが疲れはてて叫んだ時,エホバは食物を与え慰めました。倒れた時,エホバは元気づけ新たなる力を与えて起きあがらせました。死に至るまで忠実な者には復活による救いを保証しました。予定の時がきたなら,エホバは門口を大きく開いて御自分の民を自由にします!

神への信仰を維持して救われることは確かです! 神による正義の正しき世は間近かに迫っています。すでにエホバの証者たちは声たからかにうたっています,「感謝すべきかな,神は我らの主イエス・キリストによりて勝を與へたまふ」。―コリント前 15:57。

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