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  • 「良いたより」をしっかり守りなさい
    ものみの塔 1982 | 3月15日
    • で,復活に関する「良いたより」は地球全体にゆきわたりました。(コロサイ 1:23)また残っている油そそがれた人々が地上の生涯を終えて天的報いを得ていきますが,「大群衆」はやはり地上での永遠の命の希望を抱いて,王国の「良いたより」の宣明を行なってきました。―マタイ 24:14。

      22 パウロは結論としてその手紙の中でどんな諭しを与えていますか。わたしたちにはなぜそれに従う十分の理由があると言えますか。

      22 おのおの自分の順序もしくは順位に従って自分の目標に到達するこれらのグループはみな,なんと大きな特権に恵まれているのでしょう! 確かに,今日わたしたちには,パウロがさらに与えた次の諭しに従う十分の理由があります。「目ざめていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しくあり,力強い者となりなさい。すべての事を愛をもって行ないなさい」。(コリント第一 16:13,14)そうすればわたしたちは良い目的を信ずる者となります。

  • 「主の業」に対する熱意
    ものみの塔 1982 | 3月15日
    • 「主の業」に対する熱意

      「堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」― コリント第一 15:58。

      1 復活の希望はわたしたちすべてにとって本当に意義あるものであるはずですが,それはなぜですか。

      復活の希望はわたしたちひとりびとりにとっていつも強力な刺激となるはずです。敵である死は,わたしたちひとりびとりの生活にいつかは直接,間接にかかわりを持ってくるからです。愛する者をなくした時は,「希望を持たないほかの人々のように悲しむことのない」よう,エホバの壮大な目的を思い返すことができます。イエスが死人の中からよみがえられたように,死者はよみがえるという信仰を持つことができます。(テサロニケ第一 4:13,14)またわたしたちは,エホバへの献身を全うすることに忠実である限り,万一自分が死んだとしても,エホバはわたしたちを覚えていて復活させてくださるという保証された期待を抱いています。―ヨハネ 5:28,29; 6:40。

      2 伝道之書 9章11節を考えるなら,わたしたちは命に対してどんな態度を取るべきですか。

      2 「終わりの日」はその終幕に向かって足早に進んでいますから,わたしたちの多くは死ぬことなく「大患難」を生き残るよう希望しています。(マタイ 24:21。テモテ第二 3:1)しかし速い者,力のある者,賢い者,理解のある者にも,『時と予見し得ない出来事とは彼らすべてに臨みます』。思いがけなく病気になったり,事故や災害に遭ったりするかもしれません。そういうことになった時,心と魂,思いと力を尽くして神への奉仕に身を費やしてきていたなら,どんなに良いことでしょう! その場合,神の是認と,自分が復活にあずかることとは確実なものとなるからです。それに,自分が忠実を保ってきたことは,自分のすることを見,また話すことを聞いてきた他の人々にとって励ましとなり,祝福となっていたことが考えられるので,その人々も復活の希望によって救われるかもしれません。―伝道 9:11,新。マルコ 12:30。テモテ第一 4:15,16。

      復活の希望によって強められる

      3 (イ)わたしたちはどんな目標に目を留めるべきですか。なぜですか。(ロ)油そそがれた者であろうと,「大群衆」の者であろうと,復活の希望はどのようにクリスチャンを支えるはずですか。

      3 使徒パウロはこう述べました。「今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります」。わたしたちの信仰は無益なもの,わたしたちの伝道はむだなものになります。しかしわたしたちは,エホバの新秩序における命という確実な目標にしっかりと目を留めています。ハルマゲドンを生き残ることによってそれに到達しようと,またはある人々の場合のように,死人の中からの早い復活によって到達しようと,そのことに変わりはありません。パウロは当時,神の霊によって油そそがれていたクリスチャンたち,また,ちょうどイエス・キリストがカルバリにおける処刑までの3年半の間に経験されたように,死へのバプテスマを受けることを求められていた人々に話していました。それでパウロはこう尋ねます。「死人のよみがえらされることが決してないのであれば,なぜ彼らはそのような者となるためにバプテスマを受けたりするのですか」。確かにそれらのクリスチャンは復活の希望によって支えられ,多くの試みに耐えることができました。今日のクリスチャンたちも,天の王国におけるとこしえの命の希望を持つ人であろうと,あるいはその人々よりも数の多い,その王国の地上の領域での命を希望している人であろうと,復活の希望を支えにすることができます。―コリント第一 15:13-19,29。

      4 どんな理由があるので,わたしたちはエピクロス派の哲学に染まらないようにしなければなりませんか。

      4 パウロは当時の状況についてさらに次のように書いています。「なぜわたしたちはまた刻々危難に会っているのですか。わたしは日ごとに死に面しているのです。兄弟たち,わたしたちの主キリスト・イエスにあってわたしがいだく,あなたがたについての歓喜にかけて,このことを確言します。わたしがエフェソスにおいて,人間がするごとくに野獣と戦ったのであれば,それはわたしにとってなんの益になるでしょうか。もし死人がよみがえらされないのであれば,『ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから』ということになります」。よみがえられたキリストを焦点とする「良いたより」をふれ告げるにあたって,パウロは多くの危険と迫害を経験し,そうしたことを通して神の保護と祝福を受けました。もし復活が作り事に過ぎないなら,そうしたことはみなむだだったでしょう。もしそうであれば,パウロもコリントの兄弟たちも,エピクロス派の哲学者やその追随者たちのように,楽しく暮らすことに夢中になっていたかもしれません。―コリント第一 15:30-32。

      5 (イ)復活の希望はわたしたちにとってどれほど現実的なものであるべきですか。(ロ)王国を目標とするわたしたちに,現代においてもどんな立派な模範がありますか。

      5 しかしながら,復活の希望とメシアの王国は現実のものです。この二つは神のとこしえの目的と深い関係があります。使徒時代のクリスチャンがその希望によって支えられていたように,今日のクリスチャンもそれに支えられています。エホバの証人の現代の歴史は,死に直面しても不屈の態度を失わなかった幾千というクリスチャンの模範で飾られています。忠実を保てば「新しい天」または「新しい地」への早い復活が約束されていることを彼らは知っていました。カトリック教徒であったヒトラーの強制収容所の中で首を切られ,射殺され,餓死させられ,あるいはたたき殺された証人たちは幾百人という数に上りました。最近では,一部の社会主義的な開発途上国で,多くのエホバの証人が危険と迫害に耐えています。それでも彼らの確信はいつも,来たるべき神の王国にあります。「大患難」に生き残ることによって達成されようと,復活によって達成されようと,それが彼らの目標です。これこそわたしたちひとりびとりの現在の目標でなければなりません。―啓示 21:1-4。

      6 アフリカには,恐れなく身を費やすよう監督たちを励ますどんな例がありますか。

      6 アフリカのジンバブエという国の例を考えてみましょう。この国は何年もの間内紛で二つに割れていました。エホバの証人はその動乱の期間中,中立を保ち,王国の伝道を続けたので目立った存在でした。(ヨハネ 17:16)旅行する監督たちが諸会衆を強めるために訪問を続けるのはとりわけ危険なことでした。それでも彼らは命を懸けて訪問を続けました。その忠実な兄弟たちは,一つの会衆から次の会衆に移る途中で捕まえられたこともありました。その地域に入り込んでいるよそ者で,スパイであるというけん疑をかけられ,命が危うくなったこともありました。一人の巡回監督は殺され,その遺体は通行人への警告として,監督が乗っていた自転車のそばに放置されました。それでも他の巡回監督たちは,少し平和になってその種の危険から解放される時まで,恐れることなく奉仕を続けました。もし同様の状況に遭遇したなら,わたしたちも恐れることなくそのように神への「神聖な奉仕」を続けたいものです。―ルカ 12:4-7。ローマ 12:1,2。

      7 エルサルバドルにいる兄弟たちは,希望を固く保つことによってどんな祝福を得ていますか。

      7 今日では,全土に内紛が広がっているエルサルバドルに,同様の危険が存在します。エホバの証人は動乱に関してやはり厳正中立の立場を取っています。それでも中には十字砲火の中で殺された人もいます。しかし忠実な長老たちは引き続き会衆や孤立した群れに仕え,彼らを力づけ,励ましてきました。(イザヤ 32:1,2と比較してください。)長老たちの中には九死に一生を得たような人たちがいます。それでもその長老たちは,引き続き命を危険にさらすことになろうと,自分たちに与えられた教え牧する業を続行する決意でいます。(ペテロ第一 5:1-4)諸会衆は夜間の外出禁止時間の前に集会を開きます。エホバは彼らを豊かに祝福され,1981年度中には伝道者が22%増加しました。8,242名の王国伝道者たちは,奉仕年度が終わるころ,新しく関心を抱いた人々との家庭聖書研究を1万3,948件司会していました。「刻々危難に会って」も恐れずに前進する人々すべてに,わたしたちの神はなんとすばらしい祝福をお与えになるのでしょう!

      8,9 (イ)豊かな国に住む人々の中にはどのように惑わされている人がいますか。(ロ)わたしたちはどんな態度を取るべきですか。なぜですか。

      8 しかし,もっと豊かで「安全」に思える国々に住む人の中には,霊的に危険な生き方に誘い込まれている人々がいます。この世と親しく付き合い,エピクロス派流におもしろおかしく暮らし,同時にいわば片足を神の組織に突っ込んでおける,と彼らは考えています。そのような人々は,背教した人々との賢明でない交わりによって影響され,定期的で熱心な王国奉仕の特権に対する認識が薄れていったのかもしれません。なんと愚かなことでしょう! パウロはそのような人すべてに,はっきりと,「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」と述べています。放縦な世の快楽にふけることは,集会に出席したり神に奉仕したりする有益な神権的習慣に容易に取って代わります。神の新秩序のビジョンが薄らぎ,それとともに復活の希望も薄れます。パウロの時代にはヒメナオ,アレクサンデル,そしてフィレトに同様のことが生じました。そして今日においても,残念ながら一部の人々にそのことが生じています。―コリント第一 15:33。テモテ第一 1:18-20。テモテ第二 2:15-19。

      9 だれにせよ,今になって,エホバの組織と奉仕に対する心からの支持をやめるなら,恥を被ることになります! 現在の世界の体制は滅びの瀬戸際をよろめいているのです。わたしたちは「良いたより」の中に立ち,「それをしっかりと守っている」ことによってのみ「救われつつあります」。このことを続け,神に関する知識を増やしていくのは大変重要なことです。この点が欠けていた人々に対してパウロが次のように述べたのは適切なことでした。「義にしたがって酔いから覚めなさい。罪をならわしにしてはなりません。神についての知識を持たない人たちがいるからです。わたしはあなたがたを恥じさせるために話しています」― コリント第一 15:1,2,34。

      『堅く立つ』

      10 (イ)使徒パウロも現代の「奴隷」級も「愛する兄弟たち」に対してどんな態度を取りますか。(ロ)1982年の年句はこのこととどのように一致していますか。

      10 パウロは温かい訴えるような調子で,すばらしい復活の希望を支持する論議を終えます。「こうして,わたしの愛する兄弟たち」と,パウロは言います。パウロは自分の霊的兄弟たちが彼らの目標に到達することを願っています。同様に今日,「忠実で思慮深い奴隷」は全世界にいる,来たるべきエホバの王国に関心を持つ幾百万もの人々の霊的福祉に深い関心を抱いています。その「奴隷」は,「大群衆」が一人残らずその王国の地的領域で生きる資格を得ることを願っています。大群衆は,『自分の衣を洗い』,神に奉仕することによってこれを得ます。無傷で「大患難から出て来る」ためです。(マタイ 24:45-47。啓示 7:9,14)その目標はどのようにして達成されるのでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストの業に熱心にあずかることによって達成されるのです。パウロは,エホバの証人の1982年の年句となる次の言葉の中にそのことを示しています。

      「堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」― コリント第一 15:58。

      11 『堅く立つ』とはどういう意味ですか。

      11 エホバの新秩序に“間に合うように入る”ことを願う人々にとって,堅く立つというこの特質は欠くことのできないものです。堅く立つということには,変わらない,堅実である,動揺しない,などの意味があります。わたしたちが持っていなければならないのはその種の信仰,前途にある目に見えない事柄に対する保証された期待です。しかしわたしたちにとってそれは,聖書の研究を通して,あたかも実際にこの場にあるかのように,現実のものとなっています。―ヘブライ 11:1。

      12 どんな理由があるので,たじろぐことなく奉仕すべきですか。

      12 わたしたちはメシアの王国が近付いていることを知っています。メシアの王国は1914年に天に立てられたからです。わたしたちは,王国の栄光のうちにキリストが「臨在」しておられる「しるし」を,「終わりの日」にあるこの地上の騒然とした出来事の中に見てきました。またみ使いが神の民を導き,彼らが熱意をもって「人の住む全地」で伝道し,文字通り幾百万もの人々が「良いたより」に注意を向けるようになったのを見てきました。サタンの世の圧力は増大するに違いありません。しかしこれは,わたしたちの「神聖な奉仕」,わたしたちの命の主権者なるエホバ神への貴重な奉仕においてたじろぐ理由になるでしょうか。もちろんなりません。―マタイ 24:3-14; 25:31-34。啓示 7:15; 14:6,7。

      「動かされることなく」

      13 わたしたちは自分が『動かされない』ことを,ヨブにならってどのように示すことができますか。

      13 パウロはまた,『動かされることのない』ようにしなさい,とわたしたちに勧めています。これは堅く立つこととよく似ています。それは,神の戒めを守ることにおいてぐらつくことなく忠実を保たねばならないという意味です。これは模範的な忠誠の人であったヨブの態度でした。ヨブは自分の裁き主である神について,「神がわたしを試された後,わたしは金のように出て来る」と述べました。わたしたちはそのような確信を表明できるでしょうか。もしヨブと同じくエホバについて次のように言うことができれば,わたしたちはその確信を表明できます。「その道をわたしは守って,逸脱しない。その唇のおきてからわたしは離れない。わたしはわたしのために規定されるものよりも,み口の言われたことを蓄えた」。(ヨブ 23:10-12,新)もしヨブのように,定期的な集会のために予定されている事柄だけにとどまらず,ものみの塔協会の出版物を深く調べて,神の言葉の現代的適用に関してさらに深い理解を得るなら,真理に堅く立って動かされないようにするのに確かに大きな助けになるでしょう。

      14 (イ)「ものみの塔」誌は誠実な人々にどのように漸進的に啓発をもたらしましたか。それはどんな結果を生みましたか。(ロ)同誌はどんな警告をそのまま伝えましたか。多くの人はどのようにそれに応じましたか。

      14 「エホバの王国を告げ知らせるものみの塔」誌は,現在まで100年余り,イエスの贖い,復活の希望および来たるべきわたしたちの神の王国などに関する一群の真理を漸進的に築き上げてきました。その雑誌の紙面を通して,聖書は幾百万という誠実な人々の思いと心の中で生きたものとなりました。この雑誌は,キリスト教世界の諸宗教の中で,いや偽りの崇拝の世界帝国である「大いなるバビロン」全体の中で教えられている誤りを認めるようその人々を助けてきました。また「大いなるバビロン」が霊的に倒れたことに注意を喚起し,み使いの次の預言的命令をそのまま伝えてきました。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。(啓示 17:1,5,15,18; 18:2,4)多くの人はそうするように助けられ,エホバのメシアの王国の忠節な支持者となりました。

      15,16 (イ)一部の人はどんなことを認識しませんでしたか。(ロ)マタイ 24章46節の「その奴隷」とはだれですか。(ハ)「奴隷」に関連して,神は真理を分配するためにただ一つの経路を使っておられることがいつまたどのように明らかになりましたか。

      15 しかしながら,動かされることなく王国を忠節に支持するよりも,偽りの宗教の信条や生き方に戻って行くことを願う人も跡を絶ちませんでした。そういう人々は,主人であるキリスト・イエスが地上にいる追随者の油そそがれた一団を「忠実で思慮深い奴隷」として用い,霊的食物を分配しておられることを認識していません。―マタイ 24:45-47。

      16 「シオンのものみの塔」誌を支持する一部の人々が,この雑誌は「その奴隷」,「その僕」と同じであると言うようになったのは1895年のことでした。(マタイ 24:46,欽定訳)しかし敵はこうした支持者たちのこの見方に激しく反対しました。そのために,「ものみの塔」誌の1909年10月1日号(英文)には次のような記事が載せられました。

      「我々を支持する人々は次のように主張する。この聖句は,主が,この福音時代の終わりに,真理の普及のため多くの経路ではなく一つの経路を用いることを示すものである。……彼らは,自分たちはみなものみの塔聖書冊子協会の出版物から直接に,あるいはこの経路を通して啓発を受けた人々から間接的に,現在の真理の知識を得たと考えている。そのために彼らは『仲間の僕』として協会の仕事に喜んで協力する。そうすることによって自分たちは神の言葉の指示に従うだけでなく,神の摂理の導きにも従っていると彼らは信じている」。

      17 (イ)昔,また現在,一部の人はどのように真理の信用を落とそうとしましたか。(ロ)「奴隷」と共にいる点で『動かされることがない』のはなぜ幸せなことですか。

      17 次いで「ものみの塔」誌は真理の敵について次のように述べました。

      「彼らは,啓発された人々に次のようなことを言って,彼らの思いを別の方向に向けさせようとした。つまり,『各自が』自分で貴重な神の真理を『掘り出すべきである』。協会の出版物は出発を与えてくれただけであるから,こんどはそれに基づいて進歩すべきである。結果として,その教えは最後にはずっと後ろに取り残される,というのである。これらの不忠実な『仲間の僕たち』はさらに,協会を崇拝する危険があるから,それを避けるためには,協会に反抗し背を向けることが実際に必要であるとも言っている。聖書を研究しよう,しかし協会の出版物は排除しよう,と彼らは言う」。

      これが書かれたのは72年前のことです。そして今日に至るまで,エホバがご自身の唯一の経路を用いて漸進的に築き上げて来られた一群の真理を否定しようとする人々は幾らか存在しています。真理の光はいよいよその輝きを増していますから,主の『忠実な奴隷』と共にいる点で『動かされることがない』のはなんと幸せなことでしょう!―コロサイ 1:21-23。

      「主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」

      18 (イ)霊的健康を保つ秘けつはなんですか。箴言はこのことをどのように示していますか。(ロ)「主の業においてなすべきことをいっぱいに持つ』方法としてどんなことが挙げられますか。

      18 そうです,『自分の業を行なうことにおいてではなく』主イエス・キリストの業において『なすべき事をいっぱいに』持つようにしましょう。霊的健康を保つ秘けつはそこにあります。霊的な怠惰は疑いを生みがちです。それは命取りになりかねません。箴言 19章15節(新)に,「怠惰は人を深い眠りに陥らせ,緩慢な魂は飢える」とある通りです。霊的怠惰が続く場合,その結果は霊的飢餓と死です。ですからわたしたちは(受け入れる人が少ない地域でも)定期的に家から家に宣べ伝え,あらゆる機会を捕らえて非公式の証言をし,羊のような人々を重ねて訪問し,そのような人々と協会の出版物を用いて家庭聖書研究を定期的に行ない,忙しく働きましょう。わたしたちの中には,正にわたしたちの信仰の「開拓者」である主イエス・キリストのこの業において,「開拓者」,すなわち全時間の王国宣明者として奉仕できる人もいるでしょう。―ヘブライ 12:2,モファット訳。イザヤ 6:8-10。

      19 わたしたちはみなどんな精神を示すことができますか。中にはこの業にどのようにしてより多くあずかる人がいますか。

      19 開拓者の名簿に載っていてもいなくても,わたしたちはみな真の開拓者精神を持って楽しく「神聖な奉仕」をすることができます。そうしていれば多くの人は時々「補助開拓」をするようになるかもしれません。そして,もしそこから得た喜びが励ましになってわたしたちのうち幾人かが正規開拓者になるとすれば,「主の業」にあずかるわたしたちの分はどんなに多くなることでしょう!―ローマ 12:1,2。

      20 (イ)わたしたちにはだれの同労者となる特権がありますか。(ロ)わたしたちはどんな確信を抱いて目標に向かい前進すべきですか。(ハ)最後に,パウロのどんな言葉をわたしたち自身の言葉にしたいと思いますか。なぜですか。

      20 この主イエスの業,イエスの足跡に従うことはまた「エホバの業」でもあります。(コリント第一 16:10。ヨハネ 5:17)「事物の体制の終結」の時に,主権者なる主エホバ,主イエス・キリストおよび天のみ使いたちの同労者として働けるとは,なんと大きな特権でしょう!(コリント第一 3:9。マタイ 25:31-33; 28:19,20)わたしたちの労が「主にあってむだでないことを」わたしたちは知っているからです。復活によって新秩序に入ろうと,あるいは「大患難」に生き残って新秩序に入ろうと,コリント第一 15章57節にある,「神に感謝すべきです。わたしたちの主イエス・キリストを通して勝利を与えてくださるからです!」という忠実な使徒パウロの言葉を,わたしたちも口にすることができるようになりたいものです。そうです,それはとこしえの命というすばらしい祝福につながる,死に対する勝利なのです!

      次の点が理解できますか

      ■ 復活の希望に常に十分目覚めていることはなぜ必要ですか。

      ■ 毎日,死に直面しなければならない兄弟たちにとって,復活の希望はどんな励ましとなりますか。

      ■ 疑いを持つ人,または背教者の考えを持つ人と交わる人々は,なぜ『恥じさせられる』べきですか。

      ■ 堅く立つという特質は,エホバの新秩序に『間に合う』ように入るためになぜ大切ですか。

      ■ 70年以上昔の「ものみの塔」誌の中で「一つの経路」について言われたことはなぜ有意義ですか。

      ■ 『主の業においてなすべきことをいっぱいに持つ」開拓奉仕その他は,どのようにわたしたちの保護になりますか。

      [22ページの図版]

      ある監督たちは『刻々危難に会いながらも』恐れずに奉仕している

      [23ページの図版]

      集会に出席したり野外奉仕に出たりする良い習慣は,神の王国に対する熱意を保つ助けになる

  • 目の見えないエホバの証人が一人の人の命を救う
    ものみの塔 1982 | 3月15日
    • 目の見えないエホバの証人が一人の人の命を救う

      ビセンテは75歳になる盲人です。この男の人はスペインでこれまで5年ほどの間,補助開拓者として奉仕してきました。毎月雑誌を約110冊配布し,3件の聖書研究を司会しています。ある冬の寒い晩,夜の9時15分に関心のある人を再訪問することになっていましたが,奉仕の友が現われませんでした。約束の時間までに少し間があり,時間をむだにしたくなかったので,ビセンテは一人で戸別訪問をすることにしました。一人の男の人が親切に迎え入れてくれて,王国の希望に耳を傾け,2冊の雑誌を受け取りました。最近号の雑誌を紹介するため,一,二週間してもう一度訪問してみると,その人はこう言いました。「ビセンテさん,あの晩,あなたが訪問してくださらなかったなら,今日こうしてわたしたちが一緒に話し合えることはなかったでしょう。ピストル自殺をするつもりでいたのです。あの時は,ただ死にたいだけでした。でも,この雑誌を読んで王国について学ぶにつれ,生きたいという意欲がしだいに強まってきました」。

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