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真の崇拝は行動をともなうものみの塔 1965 | 12月1日
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12 (イ)帰って行く人々が清くなければならない第一の理由は何でしたか。(ロ)どんな野心は,その人々とは無縁のものでしたか。
12 宗教的また道徳的に清いことが要求された最も大きな理由は,エホバの宮からネブカデネザルの盗んだ聖なる器を,これらのイスラエル人が携え帰ることになっていたからです。クロスはそれを許していました。それを運ぶ者は,バビロンの汚れた宗教から身を清めなければなりません。儀式によって外面的に清めるのみならず,何よりも心を清めることが必要です。バビロンを離れた者は,エホバの崇拝を再興するため,清い者となって帰らなければなりません。当時のエルサレムが荒廃していたこと,エホバのみ名のあがめられることを心から願い,献身した人々だけがエルサレムに帰ったことを思えば,それは当然でした。その人々に政治的あるいは物質主義的な野心は少しもありません。
13 (イ)とらわれ人が解放されたのは,だれの力ですか。(ロ)9世紀前の出エジプトとくらべて,バビロンを出ることはどのように行なわれましたか。
13 エホバの民はこれらの事を十分に心得ており,エホバが彼らを救い,また彼らと共にいますことを知っていました。それで急いでバビロンを離れたにしても,あわてふためいて逃げたのではありません。彼らは自分たちの手で自由を獲得しようとせず,神の働きによって第三世界強国バビロンの倒れるのを待ったのです。解放は自分たちの力でも,クロスの働きでもありません。これを976年前の出エジプトとくらべると,エホバの預言通りパロにせきたてられてエジプトを出た時とは様子が異なります。エジプトを出たとき混乱はなかったにしても,出エジプト記 12章30節から34節および39節からわかるように,イスラエル人はエジプトを追われて出,一刻も猶予できないあわただしさのために多少の困難を感じました。食料をそろえたり,こねた粉の発酵を待ついとまもなく,こね鉢を外とうにくるんで肩にかけて行く有様でした。それにもかかわらず,出エジプトは出エジプト記 13章18節の示すように整然と行なわれました。「イスラエルの子孫行伍をたててエジプトの国より出づ」(文語)〔すなわち前衛,本隊,後衛,両翼の五つから成る軍隊のように〕(新世訳1953年版欄外)。しかしバビロンから出た時はこれと異なり,前以て準備することが可能でした。エホバをしんがりまた保護者とした彼らは,威厳と秩序と静かな勇気をもってバビロンを出ました。
14 エホバが人々をシオンに連れ戻したとき,見張りはどのように「目と目とあひあはせて視」ましたか。かつてソロモンの宮が建てられていた丘を見たとき,シオンに帰る途中の人々はどのように感じましたか。
14 バビロンを離れた人々が,荒野をへだてて何百マイルかなたのシオンに無事着くことは保証されていました。エホバは彼らの前にあって彼らをシオンに導き返したので,見張りはあたかもエホバと相見たかのようでした。エルサレムの丘すなわちシオンが,これら帰り来る人々の目に映ったとき,それは何という喜びの時であったでしょう。それは解放を告げる使者の近づくのを見た見張りの喜びと同様です。―イザヤ 52:8。
クリスチャンには今まで以上の行動が必要
15 使徒パウロは,この預言をどのようにクリスチャンに適用していますか。
15 このすべてがクリスチャンにとって預言的な意味を持つことは,使徒パウロがイザヤ書 52章11節を引用して,その意味を敷衍していることから明らかです。「不信者と,つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは,生ける神の宮である。神がこう仰せになっている,『わたしは彼らの間に住み,かつ出入りをするであろう。そして,わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となるであろう』だから『彼らの間から出て出き,彼らと分離せよ,と〔エホバ〕は言われる。そして,汚れたものに触れてはならない』」― コリント後 6:14-17〔新世〕。
16 (イ)今日だれが見張りとして神に用いられていますか。彼らは何を見ますか。(ロ)人は自分の宗教と宗教組織について,何をしらべなければなりませんか。(ハ)それが,エホバのみ名を宣明する行動の宗教でなければ,人はどうすべきですか。そうするとき,どんな報いを得ますか。
16 今日クリスチャンには,なすべきことがあります。狭い地域にではなく,全世界に宣べ伝える大きなわざです。(マタイ 24:14)神の民は見張らなければなりません。彼らは大いなるバビロンすなわち偽りの宗教の世界帝国が倒れたのを見ています。大いなるバビロンは暴露されました。その間違った教えと人間に対するおそれは,かつては神の民をさえとらえていましたが,いまはもはや彼らを束縛していません。また大いなるバビロンを離れ去り,真の神エホバの崇拝者となって栄光の自由にはいることを誠実に願う人々を束縛することもありません。間もなく大いなるバビロンは完全に滅びることでしょう。ゆえに神の崇拝者であろうとする人は自分の宗教をしらべ,自分には宣べ伝えるべきこの良い音信があるかどうかを緊急に知らなければなりません。また自分の属する組織がこの良い音信を,あとう限り広く,すなわち地のはてまで宣べ伝えているか否かを知ることも必要です。そしてシオンに戻った忠実なユダヤ人と同じく,この音信を他の人に伝えることに精魂をかたむけていなければなりません。エホバのみ名を活発に宣べ伝える行動の宗教でなければ,それは死に至る宗教であり,現代の大いなるバビロンの一部です。そこからのがれなさい。真の神の崇拝者ならば,そこにいてはなりません。エホバ神が王となられた喜びの音信を宣べる人となりましょう。福音を聞き,その宣明者として行動をおこす人は,間もなく神の国の祝福を受け,造物主のみが与え得る平和と繁栄に輝く地において永遠の生命を享けます。
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「立派な礼拝式」だが神のことばが必要ものみの塔 1965 | 12月1日
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「立派な礼拝式」だが神のことばが必要
● 福音合同ブレスレン教会出版の「教会と家庭」誌宛の手紙が同誌1964年7月1日号に出ました。その手紙はこう述べています。「私たちの教会の多くの指導者と信者のある者は信者数の減少に対する解決策としてメソジスト教会との合同を考えているようです。死んでいる教会二つを合併しても互いに助けにはならず,ただ埋葬のためにより大きな墓を必要とするだけです。私たちにはいま以上の計画も,委員会も,晩さん会も必要ではありません……私たちすべては神のことばの研究をもっと必要としています……教会の礼拝式はいずれも立派ですが,葬式も同じように立派です」。
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