家庭生活は楽しいものになる
「調査によると,わが国で暴力行為の最も激しい場所は家庭」。「報告によると,殺人は家庭の不和から」。これらの見出しは,多くの家庭が重大な危機に見舞われていることを示しています。
最初の見出しの記事によると,「百人の夫また妻につき約一人が,一昨年,配偶者を殴る,ける,物を投げつける以上のことを行なっており,また配偶者を殴った,あるいは殴られた」と言っています。ロードアイランド大学のリチャード・J・ゲレス博士は,「銃やナイフを振り回す親の元で大きくなっている子供が非常に多い。そういう親は,ただ子供を脅すのではなく,実際に子供に切りつけたり,子供を撃ったりするのである」と述べています。
家庭内の不和は今に始まったことではありません。よく知られていることわざに,「なれなれしさは軽べつを生む」というのがあります。
あなたのご家族はどうですか。一家だんらんや物事を一緒にすることを楽しみますか。それとも家庭の外に最も親しい交友を求めますか。残念なことに,そうなりつつある家族が現在しだいに増えています。しかしなぜでしょうか。
家族間に緊張が生まれる原因
あなたは,家族の中のだれかが,ほかの者の迷惑になるようなくせを時々出すのを知っていますか。その悪いくせというのは,だらしないテーブルマナーとか,自分に割り当てられている家事をしようとしないこと,いくら注意しても夜ふかしをしたり,ほかの者が寝ようとしているときにやかましい音をたてたりすることなどかもしれません。
なかには,自分のことはたなに上げて人の欠点ばかり大げさに言う人もあります。こういうことも家族の間に緊張を生むかもしれません。絶えず批判されている人は,あらさがしをするその人に対して自分自身が批判的になります。そうなると,口げんかが際限なく繰り返されるようになり,家庭生活の喜びは失われてしまいます。もしかしたらあなたは,そういう型にはまり込んでいる家族をご存じかもしれません。
またある家庭では,家族がそれぞれ自分個人の関心事を追い求めて孤立し,他の者を寄せつけない,という状態にあるかもしれません。例えば,親も子供も同じように,テレビを見ること,音楽を聞くこと,あるいは好きな趣味などに夢中になって,お互いのことを全く気にかけないようになるかもしれません。
そのように自ら孤立することは,家族関係にどんな影響を及ぼすでしょうか。ところで,人は自分が無視されたとき普通どう感じますか。『あの人が私を無視するのなら,私が彼のことを気にかけることなどない』と考えるようになる危険があります。
多くの家庭はこうした問題に悩まされています。それは家族関係をむしばみ,家というものを,空腹を満たすいわば“給油所”,また寝るだけの場所にしてしまいがちです。
多くの家族をこういう方法で崩壊させているものは何でしょうか。聖書によれば,それは全部の人間がある程度持っている一つの危険な精神態度です。ではそれはどんな態度でしょうか。
危険な精神態度
使徒パウロは,人間関係に伴うほとんどすべての問題の根底を突き,次のように書きました。『わたしはあなたがたの中のすべての者に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません』。(ローマ 12:3)パウロが望んだのは,自分のことを必要以上に考える態度と闘うことでした。この態度は,親しい人たちが一緒に住んでいるときにしばしば現われます。知らない人や浅い知り合いに対してていねいな,へりくだった態度を取るのは,それほどむずかしいことではありません。しかし,家庭での振る舞いは,高ぶった精神を示すのがその人「本来の姿」であることを表わすかもしれません。
自分について思い上がった考えを持っている人は,自分のくせや特異性を改めようとしないでしょう。それが他の人の迷惑になろうと,こちらの知ったことではない,と考えます。配偶者や家族との親しい個人的な関係よりも,仕事,読書,娯楽,あるいはなんらかの趣味のほうを好み,いつも一人で行動する人はどうでしょうか。この場合もやはり,他の人の関心事よりも自分の関心事を重要視することが問題でしょう。
重要な見方の変化
家庭生活を喜びのあるものにするには,家族全員がその態度を根本的に変える必要があります。聖書は,「善を行ない,罪を犯さない正しい人は世にいない」と言って,人々が自分の態度を変えるのを助けます。(伝道 7:20,口)罪を犯さない正しい人が世にいないというのは確かです。ですから,先祖から受け継いだ自分の不完全さに気づいている人は,自分自身の物事のやり方にがんこに執着すべきではありません。むしろ,人の迷惑になる習慣なら改めたいという気持ちを持つべきです。そして自分の不完全さを認める人は,他の人が完全さを示すのを期待すべきではありません。絶えず人のあらさがしをしている人は,そうする代わりにイエスの次の諭しに注意を払うべきです。
「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい。……なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきりわかるでしょう」― マタイ 7:1-5。
使徒パウロは,家庭生活を喜びあるものになし得る重要な原則をさらに示し,次のように書いています。「おのおの自分の益ではなく,他の人の益を求めてゆきなさい」。「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち,自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」。―コリント第一 10:24。フィリピ 2:3,4。
あなたは一緒に住んでいる人たちのことをそのように考えていますか。あなたの態度は,家族の人たちがあなたに話しかけるときのあなたの返事の仕方に表われます。利己的でない人は聞き上手です。話しかけられたときにそっぽを向いたり,時々「うん,それで?」とか言って相手の気持ちをなだめようとしたりするのではなく,自分の家族の者が言うことに心からの関心を抱くよう,自分を訓練します。「他の者が自分より上である」と本当に考える人は,独りになってテレビを見たり,趣味また他の個人的な関心事に夢中になることを習慣にすることはありません。むしろ,どんなことを言い何をしたら,自分と一緒に住んでいる者たちのためになるかを考えるでしょう。
敬意を示す必要
これと関係のある聖書の原則は次のとおりです。「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情をいだきなさい。互いを敬う点で率先しなさい」。(ローマ 12:10)この助言に従うことを望む人は,家族の者を「ばか」とかそのほか名誉を傷つけるような性質の言葉を使って叱りつけるようなことはしません。
互いに敬意を示すように努力するとき,それに子供たちを含めることも大切です。子供には時々困ることもありますが,おとなは子供を決して「二流」の人間として扱うべきではありません。「このがきめ! お前はどうにもならない悪いやつだ!」というような毒舌をもって子供を軽べつすることを習慣にしないように気をつけなければなりません。子供が,自分には何も正しいことはできないのだ,と思い込んでしまうような悲しい結果にならないとも限りません。やってみようという意欲さえ奪ってしまうかもしれません。行儀の悪い子供には次のように言うほうがよいかもしれません。「お前はとても良い子なんだが,きょうは行儀がひどく悪いようだね。そんなことをするのはお前らしくないじゃないか。今すぐにやめなさい!」
聖書の原則を適用する人は,それに対する家族の反応が遅いと落胆するかもしれません。仮に反応しないとしても,その人は自分が神の意に従っていること,正しいことをしようとしていることを知っているので,満足感が味わえます。聖書はこう助言しています。「神に対する良心のゆえに悲痛な事柄を耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいことだからです」― ペテロ第一 2:19。
家庭生活は本当に楽しいものになります。しかしそのためには,家族の成員が,家族と他の人々に対する正しい精神態度を養わねばなりません。そして利己的でなくて愛他的でなければなりません。早速時間をつくって,この記事の中で取り上げられた聖書的原則を黙想してみるのはいかがですか。それからご自分の生活に生かしてください。