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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 3/15 163–164ページ

けんそんは愛を補って完全にする

けんそんはあまりもてはやされない美徳です。それというのも,けんそんになることは,やさしいことではないからです。真にけんそんな人が,比較的にいって少ないのもそのためです。自分はけんそんだ,と思う人はもちろんたくさんいます。そしてすべてが自分の思い通りにいっているあいだは,そうみえます。しかしそういう人たちをいったん怒らせたり,批判したり,困らせたりすると,たちまちにして大爆発が起こります。そのとき彼らのけんそんさはどこにありますか。

強い劣等感を抱いて引き下がる人も,周囲の人にはけんそんに見えるかもしれませんが,実際にはけんそんでないかもしれません。その人のへり下った気持ちは,ほかの人が何と考えるかを恐れたためかもしれません。

しかし,そのようにやさしいことでもなく,また真にけんそんな人も少ないというのに,なぜ努力してけんそんになろうとするのですか。なぜなら,神の御言葉である聖書が,そのことについて述べているからです。「神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである」。私たちは神の反対に耐えることができますか。「私たちは主よりも強いのだろうか」。私たちは神の恵み,神の過分のご親切を必要としないでしょうか。私たちにそれが必要であることはいうまでもないことです。―ペテロ前 5:5。コリント前 10:22,新口。

けんそんな心を育成することが私たちの益となる以上,私たちは何の助けを得てけんそんになることができますか。愛です。けんそんな心に愛はつきものです。事実,けんそんは愛を補足するものと言えるかもしれません。

この原則を実際に私たちに示してくださるのは,ほかならぬエホバ神ご自身です。聖書は,「神は愛である」と告げています。ということは,神もけんそんであられるということですか。全くその通りです。人間は神と比較するとき,いなごのように小さく,諸国家もはかりの上のちりのように,バケツから落ちる一しずくの水のように,取るに足りないものです。エホバ神は,地より,その住民より,ずっと高く,はるか上におられるのですから,地と人間に注意をお向けになるにはけんそんさが必要です。「われらの神,エホバに比ふべき者はたれぞや,みくらをその高処にすゑ己を卑くして天と地とをかへりみたまふ。まづしきものを塵よりあげ……」― ヨハネ第一 4:8。詩 113:5-7。イザヤ 40:15-23。

神は,イスラエルの国民を扱うにさいし,なんというけんそんさを示されたのでしょう! イスラエル民族は,反逆と,ぼうとくと,偶像崇拝によって,何回神を試みたことでしょう! それでも神は,彼らのためを思って説得しつづけられました。特にあなたが,力に物を言わせることもでき,また相手のためだけになることをしているばあいに,相手に嘆願することは,けんそんさがなければできないことです。そうです,神はイスラエル民族に嘆願されたのです。「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が,その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ,あなたはどうして死んでよかろうか」。―エゼキエル 3:11。歴代下 36:15,16,新口。

愛がけんそんさを助長し,けんそんさが愛にともなうということは,イエス・キリストの示された模範の中に実証されています。「キリストは,神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事とは思わず,かえって,おのれをむなしうして僕のかたちをとり,人間の姿になられた。その有様は人と異ならず,おのれを低くして,死に至るまで,しかも十字架〔刑柱=新世訳〕の死に至るまで従順であられた」。何がイエスをしてこのけんそんの道を歩ませたでしょうか。イエスご自身がこう言われています,「わたし」は「父を愛している」。「人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛はない」。―ピリピ 2:6-8。ヨハネ 14:31; 15:13,新口。

事実,イエスの地上における全宣教の特徴は,愛にもとづくけんそんでした。当時の宗教指導者たちが彼に加えたかずかずのはずかしめを耐えるには,けんそんさが必要ではなかったでしょうか。欠点の多い,またよく誤解する弟子たちを教えつづけるには,けんそんさが必要ではなかったでしょうか。イエスはけんそんの生きた手本であったばかりでなく,けんそんであるようにと教えることもされました。小さな子供を例として弟子たちのまん中に立たせたとき,祈りをささげるために宮に上ぼった高ぶったパリサイ人とへりくだった取税人について語られたとき,また弟子たちの足をお洗いになったときなど,けんそんについて教えられています。―マタイ 18:1-4。ルカ 18:9-14。ヨハネ 13:1-17。

イエス・キリストにならう者であったかの使徒パウロは,このけんそんという問題においても,やはり彼の師にならいました。彼はへりくだって『どうにかしていく人かの人を救うためにすべての人にはすべての人のさまに従い』ました。確かにそれはけんそんでなければできないことです。パウロは兄弟たちに対しても同じけんそんな態度を示しました。「あなたがたを高めるために自分を低くし……たことが罪になるのだろうか」。イエス・キリストの使徒としての彼の権利を主張して兄弟たちに負担をかけるよりも,パウロはむしろ,彼らのために自分のお金を使いました。なぜですか。それは彼が兄弟たちを愛していたからです。―コリント前 9:1-23。コリント後 11:7; 12:15。テサロニケ前 2:7-12。

パウロの書いた物は,けんそんが愛を補足するものであることを明確に示しています。「知識は人を誇らせ,愛は人の徳を高める」。「愛は寛容であり,愛は情深い。また,ねたむことをしない。愛は高ぶらない,誇らない……いらだたない」。愛はなぜこうしたことをしないのでしょうか。なぜなら愛は,高慢でなくてけんそんだからです。けんそんであるがゆえに愛はまた,進んで「すべてを忍び……すべてを耐え」ます。―コリント前 8:1; 13:4-7,新口。

「だから,あなたがたは,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい」と私たちは助言されています。これは,けんそんな心をもって神の原則と制度に従いなさいということです。従うことは時にめんどうなことかもしれません。しかし,神への愛と,私たちが従わねばならない人々に対する愛が,けんそんな態度で従うことを助けてくれるでしょう。愛は,私たちが,『クリスチャン会衆内にあって,私たちを指導している人々の言うことを聞きいれて,従えるように』してくれるでしょう。また愛は,『子供たちが,主にある両親に従うこと』も助けてくれるでしょう。―ペテロ前 5:6。ヘブル 13:17。エペソ 5:24; 6:1。

私たちはのがれることはできません。けんそんな心を持つのは賢明な道です。私たちはそれによって,仲間とのよりよい関係を強めることができるのはいうまでもなく,神の恵みを得ることができます。エホバ神と,同胞とに対する愛は,あなたがけんそんな心を培う援助となるでしょう。それというのも,けんそんは常に愛と共にあり,愛を補って完全なものとするからです。

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