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  • 自涜から離れる ― なぜ? どのように?
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1973
塔73 12/15 757–762ページ

自涜から離れる ― なぜ? どのように?

かつて,マスターベーションは,「ひそかな罪」もしくは「ひとりだけの悪徳」として,ごく内密に語り合われたにすぎません。今日,このことばは家族の間で普通に語られることばと化しつつあります。辞書類はこの語を,『自分の生殖器を摩擦して,性交によらないで性的興奮を得る行為』と説明しています。現代のいわゆる“性の革命”や,それに伴う“新しい道徳”は,こうした習慣をごく普通にはやらせる大きな要素となっており,その点は次に挙げるような今日の代表的意見によく示されています。

シカゴのデイリー・ニューズ紙は,「マスターベーションは身体的には無害」という見出しを掲げました。高さ半インチの太活字で印刷されたその見出しの下では,保健学の一大学教授が,教師や青年の助言者たちに対して,この習慣に伴う「恐れや不安を解消する」のを助けるようにと勧めていることが論じられていました。また,「著名な性問題の権威者」が,学校での性教育講義のさい,「ためらわずにマスターベーションをするように」と学生たちに話したことも報じられています。フランスの学生の間で広く配布されているパンフレットはマスターベーションを勧め,それによって「一時間の授業の空虚さやたいくつな晩を満たすことができる」としています。

宗教指導者の中にもこの習慣を奨励する者が多くいます。例えば,310万人の会員を持つ連合長老教会の総会において圧倒的な支持のもとに採択された一報告は一部次のように述べていました。「われわれは,マスターベーションそのものを非とする神学的,心理学的,また医学的な根拠をなんら見いださない。……マスターベーションの実際的な価値を認める論議さえある」。メソジスト派の制作した映画も,マスターベーション『は性交に代わる有用な手段である』と主張しています。この映画は,男女がそれぞれどのようにマスターベーションをできるかをあからさまに示しています。

医学上の権威者たちも一般に同様の見解を取っています。一医師はこう述べました。「わたしはマスターベーションの正常性,一般性,また無害性という点を強調する」。

きわめて一般的な習慣

今日のような放縦の時代にあって,人は,医師の言うマスターベーションの「一般性」ということに同意せざるをえないでしょう。統計上の資料を見てください。「われわれの手もとにあるまじめな統計調査はいずれも,13歳から25歳までの少年や青年男子の少なくとも95%が,その長さはさまざまであるとしても,皆ひとしく習慣的なマスターベーションにふける時期を何度か経過することをはっきり示している」と,この問題に関する一権威者は語っています。少女について,この同じ人は,「40ないし50%が実際にマスターベーションをすることが知られている」と述べています。

ある人々は,こうした数字こそその「正常性」のしるしであるとし,「健康な若者でマスターベーションをしていないなら,それこそ心配すべき事態である」と言います。

では,あなたはどのように考えるでしょうか。きわめて普通のことであり,ほとんど『一般的な』習慣となっているゆえに,マスターベーションは自然で正常な体の営みである,という点に同意されますか。うそや盗みは今日ごく普通に行なわれ,たばこをのむこともごく普通の習慣となっています。しかしそのゆえに,これらが自然で適正な行為であるとは言わないはずです。風邪にかかることはごく一般的な経験であるとはいえ,そのゆえにこれが自然で正常なこととされるわけではないはずです。

では,マスターベーションは無害である,という点についてはどうでしょうか。その同意語としてかつて使われた「自涜」「自己汚辱」というようなことばはもはや真実ではないのですか。事実は何を示していますか。

この習慣にはどんな影響があるか

19世紀,そして比較的最近にいたるまで,マスターベーションは人の肉体上の健康を損い,顔面の蒼白浮腫,精力消耗,不眠,結核,不妊,意志薄弱,生殖器の萎縮,その他の身体障害の原因になると考えられていました。しかし,今日,マスターベーションがこうしたものの原因とならないことは十分に立証されています。男子が過度にマスターベーションを行なう極端な場合にのみ,不妊状態や精液の質的な低下が起こります。一権威者は医学上の見解を要約して,「マスターベーションが生理学的に見て有害であるという科学上の証拠はない」と述べています。

生理学的には有害でないとしても,マスターベーションを行なう人の精神的,感情的,また道徳的な健康についてはどうでしょうか。

きわめて意味のある点ですが,肉体上の害を否定する医師たちも,この習慣から来る精神的また感情的な弊害について口をつぐんでいることはできません。アメリカナ百科事典はこう述べています。「マスターベーションに対する最も新しい見方は,その精神的な有害性を認める点にある……それは肉体上のなんらかの障害から来るのではなく,自涜を行なう人のいだくある種の罪悪感,およびそれによって仲間との自然な交流を持ちにくくなることから来るものである」。

もちろん,そうした罪悪意識はマスターベーションをみだらなこととみなすように子どものころからしつけられてきたからにすぎない,という主張がなされています。そして,そうした罪悪意識は本来不必要なものである,と唱える人が多くいます。しかし,ほんとうにそうですか。

たいていの人が認める点ですが,マスターベーションに関して自分の子どもとゆっくり話し合ったり,そのことに関心を払ったりする親は多くありません。それでは,初めてマスターベーションをする少年(もしくは少女)が,やはり一種の罪悪感,もしくは自責の念をいだくのはどうしてでしょうか。この習慣を持つ人の大部分が,それを人目を避けてこっそりと行なうのはなぜでしょうか。

それは,マスターベーションが不自然なものであるからです。小さな子どもは男女の性交に関してほとんど先入知識をいだいていないとしても,青春期を迎えるとともに,自分の性的な欲求が異性によって満たされるという内的な意識をいだくようになります。マスターベーションは(同性愛行為と同じように),この自然の取り決めを無視し,あるいはそれを飛び越えることです。これは,「自らの自然の用を自然に反するものに変え」ることの一つの形であり,すべての人間に内在する,神から賜わった良心のなごりが叫び声を上げてそうした行為を非とし,内的な罪の意識をいだかせるのです。―ロマ 1:26,27; 2:14,15と比較。

したがって,多くの精神病医その他の医師たちが,マスターベーションに伴う罪悪意識は全く『社会的な教化やしつけ』の結果にすぎないというふうに唱えてはいても,実際にはむしろその逆のことが言えるのです。つまり,そうした罪悪意識のない人がいるとすれば,それは,他の人からのそれ以前の影響のために,マスターベーションの習慣が実際には「さしつかえのない」「正常な」ものであり,「有益」でさえあると考えるようになっているためである場合が多いのです。実際のところ,現代のさまざまな宣伝は,神から与えられた良心を押えつけ,それを弱める傾向を強くしています。

この習慣は「自然に反する」ものであるために,マスターベーションをする人はそれに対する精神的な科料を払うことになります。これに習慣的にふけることによってその人の社会的また感情的な成育が損われ,物事に対する健全な見方,また異性や他の人々一般に対する正しい態度が取れなくなります。それは『人を内に向けさせ』,引っ込み思案の内向的な性格にならせます。あるいは,それが人を同性愛行為に至らせることもあり,現にそうした例は決して少なくありません。自分だけでする性行為にあきたらなくなり,相互的な性遊戯のための相手を求めるようになるのです。医学および精神科の権威者はマスターベーションの『正常性』を口にしながらも,習慣的なマスターベーションがのちの幸福で満足のゆく結婚生活の妨げとなる場合の多いことを認めざるをえません。事実を言えば,そうした習慣を結婚後も依然として続け,結局は精神科医の助けを求めるようになる事例は決して珍しくありません。この習慣が『正常なもの』,『自然なもの』,『有益なもの』であるなら,どうしてそのようなことがあるでしょうか。

しかしながら,いっそうの明察をもってこの問題を見るために,肉体的,精神的,感情的な面でのわたしたち人間の作りについていくらかの知識を得ることが役にたつでしょう。

わたしたちはどのようにつくられているか

少年や少女が性的な成長を遂げておとなになってゆく青春期の間,その体にはいろいろな変化が起きます。こうした変化を推進するのは,脳下垂体,性腺その他の腺から分泌されるホルモンです。少年の場合には,そうした変化によって,こう丸が精子を作り出すようになります。作り出された精子は管の中を通り,精嚢と呼ばれる内部貯蔵器に入ります。精嚢はぼうこうのわきにあります。こうした貯蔵器が満ちると,男子の性的な関心は刺激に対してより敏感になると言えます。

したがって,健康で正常な男子がある程度の性的な“衝動”を感じるのはごく自然なことです。結婚の取り決めはそうした性的な欲求を満たす機会を備えるものとなります。しかし,結婚していない人々についてはどうでしょうか。結婚関係にない異性との淫行を除けば,マスターベーションだけが,そうした欲求から来る圧迫から解かれる手段でしょうか。そして,マスターベーションを行なわない場合,体に蓄積された精液が何か有害な影響を及ぼすのでしょうか。

否,というのがこれらの問いに対する答えです。性的な圧力を緩和し,あるいはそれから解放される他の方法があります。一つは,「昇華」です。これは,その圧力の方向を転じて,他の身体的また精神的な活動に向かわせることです。つまり,成長過程にある少年や青年はさまざまな研究課題や趣味に忙しく携わり,その中に喜びを見いだすように努めることができます。

体の中にたまった精液についてはどうでしょうか。これが肉体上の障害を引き起こすほどになる危険はありません。そして,実際のところ,性的な関心は,人が頭の中で考える事がらによってより大きく支配されます。また,男子の体は,周期的に夜間の睡眠中に起きる射精によって精液の量を減らすのが普通です。例えば,19歳の少年でこれを経験しないのは5%以下と言われています。(しかし,そうした射精が起きないからといって,それは必ず性的に不具であるという意味ではありません。)普通の男子に起きることを説明すれば,夜間にぼうこうに尿がたまり,結果として,隣接している精嚢が圧迫されるようになります。これがときおり引き金の役をし,睡眠中の無意識の射精を起こします。

こうした夜間の射精が「夢精」と呼ばれ,しばしば奇妙で不条理な夢を伴う理由について,社会学者のハーバート・J・マイルズ教授はこう書いています。

「ぼうこうにたまったものを排出する必要が高まると,人は徐々に眠りから覚め,休止していた意識は,目覚めである活動的な意識状態に向かう。この眠りから目覚めへの漸進的な移行の間,意識は一種の“たそがれ”状態にあり,潜在的な意識が表面に出る。概念や思考は錯雑し,自分の持つ一つの概念や経験や行為からまた別のものへと急テンポに移行したりする。こうしたごたまぜの,もしくはめちゃくちゃで見さかいのない思考が,普通の意識下では容認されない性的な考えや行為と関係しているのであろう」―「結婚前の性の理解」,160,161ページ。

したがって,そうした射精があり,またそれを促す夢を見たからといって罪の意識を持つには及びません。もとよりそれは,不道徳な事がらをあれこれと思いめぐらしたり,性的な事がらを不健全な気持ちで考えたりしたためでないことを知っているならばです。

しかし,性的な緊張をほぐす点では,こうした睡眠中の射精よりも,マスターベーションのほうがさらに効果的であり,満足を与えるのではありませんか。

いいえ,そうではありません。というのは,マスターベーションをする人は,緊張を単純にそして即時的に除くのではなく,自己刺激によって緊張を高め,自分の全神経組織を高度の興奮状態に投ずるからです。これはのちに神経的な欲求不満また不満足感となって残る場合があり,一方では,再びその行為を繰り返したいというやみ難い欲望に駆られるようになります。これは容易に断ちがたい悪循環であり,また人にほんとうの満足を与えません。

マスターベーションが異常な行為であり,不自然なものであるということは,精神錯乱の異常者の中に強度のマスターベーション常習者が多いという点にも示されています。また,幾分か類似のひびきを持つ点として,ブレメルトン・サン(ワシントン)紙は,精神的な乱れをきたしている司祭や修道女の中にマスターベーション常習者の多いことを伝えました。

マスターベーションに対するクリスチャンの見方

多くの教会出席者を含め,今日の世の人々が,「いっさいの道徳感覚を通り越し」,不自然な習慣であるマスターベーションを勧めたり奨励したりしていることは広く知られるところです。(エペソ 4:19,新)しかし,それとは著しい対照をなすものとして,真のクリスチャンは,性や道徳に関して神のことばである聖書の述べる事がらを学んでそれに従うことに努めます。「マスターベーション」とか「自涜」ということばが聖書に出ていないことは確かです。モーセの律法は「精の洩ること」について述べていますが,聖書注解者たちの述べるように,これは夜間に起きる無意識の射精について述べているのであり,意識的に誘導して起こす射精について述べているのではありません。(レビ 15:16)しかし,聖書の中には,マスターベーションの問題に十分にあてはまる幾つかの原則があります。

例えば,コロサイ書 3章5,6節はこう述べています。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい。こうした事がらのゆえに神の憤りは臨もうとしているのです」(新)。すでに見たとおり,マスターベーションはほんとうに「有害な欲望」です。またそれは「汚れ」でもあります。道徳的でない習慣だからです。マスターベーションをする人がそのことで普通恥じらいを感じ,その不快な行為を他の人から隠そうとするのはそのためです。

クリスチャンの使徒パウロの助言は適切です。「神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです」。彼はさらにこう書いています。「それゆえ,わたしたちにはこうした約束があるのですから,愛する者たちよ,肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成しようではありませんか」。―テサロニケ前 4:7; コリント後 7:1,新。

マスターベーションをする人の「性欲」についてはどうでしょうか。それは「死んだもの」とされていますか。それとも,自分の性的な渇望を絶えず養い育て,そうです,聖書の忠告に逆らって,「肉の欲望のために前もって計画する」までになっていないでしょうか。―ロマ 13:14,新。

聖書は「強欲つまり偶像礼拝」をも「死んだもの」とすべきことを述べています。この点もこの問題に当てはまります。マスターベーションをする人の情愛は本来その向かうべき創造者から離れ,その欲心の対象としたもの,つまりこの場合には自分の生殖器に向けられているからであり,それに過度の重要性が付されています。したがって,この習慣は偶像礼拝に近似するものであり,神の嫌悪を受けた古代の男根崇拝にも似ています。マスターベーションをする人は『エホバに対して魂をこめる』のではなく(コロサイ 3:23,新),自分の肉体の性的な衝動や欲望の奴隷となり,それらを自分の献身の対象としています。使徒パウロが述べるとおり,「そのような人はわたしたちの主キリストにではなく,自らの卑しい欲情に仕えている」のであり,「その欲が彼らの神」となっています。―ロマ 16:18; ピリピ 3:19,アメリカ訳。

「対自発情」とは,字義的に自己愛もしくは自己に対するエロチックな愛という語の訳語ですが,これもマスターベーションをよく説明することばです。この習慣を続けることによってその人の思念は内に向けられ,その人は利己的また自己中心的になり,他の人と接するさいに問題を持つようになります。そのために,心理学者の中には,自己の欲望の充足だけを求めるマスターベーションを,ギリシャ神話の神ナルキッソスにちなんでナルシシズムと呼ぶ人がいます。ナルキッソスは自分の姿にほれ込んで身を滅ぼしたとされています。聖書は,この「終わりの日」に『人びとが自分を愛する者』となることを警告していなかったでしょうか。―テモテ後 3:1,2,新。

「天の王国のゆえに自らを閹人とした」者として独身の生活を追い求めてゆくことには,この終わりの時代にあってたくさんの利点があります。(マタイ 19:12,新。コリント前 7:32-38)しかし,マスターベーションという手段に訴えることがそのための道であるとはだれも考えてはなりません。むしろ,自制心こそ,独身生活成功の秘訣です。『自制できないなら結婚しなさい』というのは,今日でも最善の忠告です。―コリント前 7:9,新。

『しかし,性的な感情を抑圧することは自分の性格を損い,神経系に障害をきたすことにならないだろうか』と言われるかたがあるかもしれません。「なぜ結婚まで待つべきか」という本がこれに答えています。「自制することが人の性生活に障害をきたすという証拠は何もない。……いちばん危険な立場に立つのは,自分の欲情をなんら制御せずに行動する若者や娘たちである。自制力のある人はじっとこらえて待つことができる」。そして,神の霊を受けている人にとってこれは決して難しい問題ではありません。霊の実の中には「自制」が含まれているからです。自制力のあるクリスチャンはあらゆる形の自涜を避けることができ,一方では,そのことの良い結果,つまり,死をもたらす「肉の業」よりはるかに大きな満足をもたらす,精神的,感情的,また霊的な益を楽しむことができます。―ガラテヤ 5:19-23,新。

しかし,非常に多くの人の良心を悩ますこのような習慣がそもそもどうして始まるのでしょうか。

その防止と矯正

どんなに悪い習慣でも,その原因を知ることができるなら,その防止策や矯正策を講ずることが容易になります。一つの点として,いらだつ赤子の気を静めようとしてその生殖器をなでる父親や母親は,無意識のうちに,その子がのちにマスターベーションをするようにしむけていることをご存じでしたか。少年や少女が青春期に入って自分の陰部をもてあそぶようになってもなんらそれに対する助言が与えられないなら,それがしばしばこの習慣の始まりになります。そして,高等学校に入るまでそうした自涜の習慣について何も知らない子どもの場合には,仲間の学生や教師自身からそれを学ぶ例も少なくありません。

いろいろな調査は,性的な圧迫そのものよりも,緊張や心配事のために不眠ぎみになり,そのゆえにマスターベーションを行なう場合の多いことを示しています。若者またそれより年長の人の中にも,感情的な問題のゆえに緊張し,その肉体的また感情的な不快感から脱け出る逃げ道としてマスターベーションに訴える人が多いのです。つまり,それを,心理的な圧迫を忘れさせる一種の鎮静剤としているのです。また,失業者や囚人など,たいくつで時間をもてあましている人の中にも,マスターベーションにふける人が多くいます。それまで麻薬類を使用してきた人の場合は特にそうです。

この習慣の起こりとなり,あるいはそれを助長するこれらのことをつとめて避けることによって,そもそもこの習慣が始まらないようにするために大きな防止策を講ずることになります。しかし,すでにこの習慣に陥っている大ぜいの人は,それから離れるためにどうしたらよいでしょうか。

多くのことが提案されます。好色的な読み物や道徳心の低い人々との接触を避けることです。肉体的にも精神的にも終始忙しい活動に従事するようにしてください。いろいろな問題があっても,そのために緊張の高まることのないようにしてください。それは人の気力を弱める心配の原因になります。マタイ伝 6章25,33節,ピリピ書 4章8節などにある聖書の助言に従う人にとって,これは難しすぎることではありません。ひとりきりでいることをことさらに求めてはなりません。夜は家族のだれかほかの人と同じ部屋で寝るようにするとよいでしょう。あお向けやうつぶせではなく,横向きに寝るようにしてください。以上は,日常の活動に対する幾つかの提案です。

しかし,それをやめたいという心からの願いをいだいているのでなければ,この習慣を断つことは期待できません。「肉の欲望と目の欲望」が,エホバを喜ばせたいという欲求を上まわっているかぎり,それをやめることは難しいのです。(ヨハネ第一 2:16,新。ヤコブ 1:14,15と比較)この好ましくない習慣から離れたいという純粋な願いをひとたびかためたなら,意志力,決意,自制など,この面できわめて重要な武器でもって自分自身をさらに強化してください。この戦いに勝とうと思うなら,これが必要です。また,祈りをなおざりにしてはなりません。エホバは,いろいろな問題の解決のために助けを求める者を助けてくださることを約束しておられるからです。―ピリピ 4:13。コロサイ 4:2。ペテロ前 4:7。

この習慣を急に断つことを非常に難しく感じている人がいます。そして,ときおり,特に,半ば眠っているような状態の時にこの習慣に逆戻りし,深い罪の意識をいだいて,もはやエホバのあわれみを受けられないと感ずる場合があります。そのようなときには,クリスチャンの長老の援助や励ましを求めることが助けになり,またそれが勧められる場合もあります。少女がこの問題を持つときには,やはり長老に,あるいは,円熟した尊敬されるクリスチャン姉妹に助けを求めるのもよいでしょう。―テトス 2:2-4。

クリスチャン会衆内にあって他の人々のためにいっそう役だつ者になりたいという願いも,この習慣を断つのを助ける力となります。そうした特権を「とらえようと努めている」男子は,クリスチャンの長老となるための要求の一つとして,「自制心」があることに注目しなければなりません。(テモテ前 3:1; テトス 1:8,新)いつも,そして習慣的にマスターベーションをする人は,そうした規準にかなっていると言えるでしょうか。すでにそうした地位にある人が一時的にこの問題を持つことがあるかもしれません。それと戦って勝利を収めるなら,その地位に対する資格がないと感ずる必要はありません。しかし,マスターベーションを習慣的に行なう,自制力のない人は,さらに他の悪に屈する危険があります。その人は,「群れの模範」となって奉仕する立場にあるとはまず言えません。(ペテロ前 5:2,3,新)したがって,神にも仲間の兄弟にも愛の動機で仕えたいという願いがまた,自涜の習慣から離れるための助けになるのです。

「そうであればこそ,真剣な努力をつくして答え応じ,あなたがたの信仰に徳を,徳に知識を,知識に自制を,自制に忍耐を,忍耐に敬神の専念を,敬神の専念に兄弟の愛情を,兄弟の愛情に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたのうちに在って満ちあふれるなら,それはあなたがたが,わたしたちの主イエス・キリストについて正確な知識に関して無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを阻んでくれるのです」― ペテロ後 1:5-8,新。

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