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  • “キリスト教”の宗派がこれほど多いのはなぜか
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 6/15 357–359ページ

“キリスト教”の宗派がこれほど多いのはなぜか

聖書はただ一つであるのに,聖書に従うと唱える教派がこれほど多いのはなぜだろうか,と疑問に思われたことがあるでしょう。中には,『すべての道はみな同じところに通じている』と言って,そうした疑問に答えようとする人がいます。

しかし,実際の場合を考えてみると,それは誤った考えであることがわかります。すべての道がみな同じ町に通じているわけではありません。直角に交差している道路や一方通行の道路で反対方向に向かい合っているような場合,なおさらのことです。

キリスト教世界の諸宗派を調べてみるとすぐにわかることですが,種々の宗派の唱道するそれぞれの“道”はまさに直角に交差しているか,さもなければ反対方向に向かっています。事実,その違いがあまりにも大きいため,教義や慣行の上で対立が激化し,争いや大規模な戦争にまで発展することがあります。それぞれの宗派の成員が互いに争い合ったり,殺し合ったりしているのであれば,それらの宗派は一つの群れを成してはおらず,救いのために互いに助け合ってもいないことは明らかです。

初期のキリスト教においては一致が保たれていた

ところが第一世紀のクリスチャン会衆の歴史をさかのぼってみると,そこには,種々の宗派が争い合って信者を獲得したり,支配力の優劣を競ったりするような事態は全く見られなかったことがわかります。使徒たちは,人々が自分の好き勝手な道を信じ,自らの定めた“道”を歩み,自分たちの意にかなった特定の人物に従いながら,なおも神の真の会衆でありうるとは言いませんでした。クリスチャンは,互い同士の間だけでなく,神およびそのみ子イエス・キリストとの間においても,一致と平和な関係を保たねばなりませんでした。(コリント第二 13:11)コリントの会衆内に分派を引き起こした誤った考えを正すため使徒パウロは手紙を書き送りました。パウロはこう論じています。

「さて,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧めます。あなたがたすべての語るところは一致しているべきです。あなたがたの間に分裂があってはなりません。かえって,同じ思い,また同じ考え方でしっかりと結ばれていなさい。というのは,わたしの兄弟たち,あなたがたについて,クロエの家の者たちからわたしに打ち明けられたのですが,あなたがたの間には争論があるとのことです。あなたがたがそれぞれ,『わたしはパウロに属する』,『いやわたしはアポロに』,『わたしはケファに』,『わたしはキリストに』と言い合っていること,そのことをわたしは言うのです。キリストが分裂してしまっています。パウロがあなたがたのために杭につけられたとでもいうのですか。それとも,あなたがたはパウロの名においてバプテスマを受けたのですか」― コリント第一 1:10-13。フィリピ 1:27と比べてください。

それでは何が原因で,キリスト教徒を名のる人々の間に分裂が生じ,宗派や教派が作り出されたのでしょうか。そうした宗派のどれかに属せば,神を喜ばせることになりますか。それらの宗派がどのようにして始まったか,またどのような結末を迎えるかを理解する上で,聖書はなんらかの助けとなるでしょうか。

反抗

これらの質問に対する答えは,使徒たちのことばの中に見いだせます。聖書から明らかなように,分派を作り出す不穏な動きは,すでに使徒たちの存命中にありましたが,使徒たちが強い霊性を保ち,キリストによって教えられた諸原則に堅くつき従っていたため,分裂を引き起こそうとするそうした動きは押し止められていました。使徒たちの働きにより,当時のクリスチャン会衆は霊的な強さと一致を保つことができました。しかし使徒たちは,後日,分裂つまり背教の生じることを繰り返し警告しました。テサロニケ会衆に書き送った手紙の中で,パウロはこの点に会衆の成員の注意を引きました。テサロニケ会衆の成員たちは,「エホバの日」つまり,この世界の事物の体制がエホバによって滅ぼされる日が今や目前に迫っているという誤った考えを抱いていました。会衆の成員たちは,当時経験していた厳しい迫害から救い出され,まもなく天の報いを受けるものと考えていたのです。

そこで使徒はこう書きました。「だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされてはなりません。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わされてからでなければ,[その『エホバの日』]は来ないからです」― テサロニケ第二 2:3。

「背教」とは何ですか。単にクリスチャンとしての信仰や行ないから不注意にもはずれたり,離れたりすることですか。そうではありません。「背教」ということばは,それよりもずっと強い意味を含んでいます。ここで用いられているギリシャ語には,「遠ざかっている」とか「それている」,あるいは「身を引いている」という意味があります。このギリシャ語の動詞形が出てくるテモテ第一 4章1節を,モファット訳は,「ある者たちは信仰にさからうであろう」と訳しています。

また,さきに引用したテサロニケ第二 2章3節の部分で,使徒は(ローマ・カトリックのエルサレム聖書の訳出するところによると),「エホバの日」は「大反逆が起こり,反抗者つまり滅びに定められた者が現われるまで訪れることはない」と語っています。同様にモファット訳や新英語聖書も,この部分で「反抗」という語を用いています。

だれに対する反抗か

この反抗はだれに対するものでしたか。教会内の権威を持つ特定の個人に対するものでしたか。もちろん使徒たちの時代にも,反抗をもくろむ者たちが,使徒たちの権威に異議を唱えました。しかしそうした反抗は,実際には神に対するものでした。というのは,彼らは権威に対して異議を唱えただけでなく,教義に対しても疑いをさしはさみ,加えて神の会衆の中に分裂と不一致をもたらそうとしたからです。エホバのみことばと取決めにさからい,不忠実な道を歩む者は,だれであっても神に敵対する側に立っているのです。こうした反抗が生じることを予告していた聖書の記述は,それがエホバ神に向けられたものであることを明らかにしています。

反抗をもくろむ者,つまり「不法の人」は,文字どおりの一人の人間でしょうか。そうではありません。というのは,この預言が成就をみるのに要する長い期間にわたって命を保てた人は一人もいないからです。こうした考えと全く調和して,アメリカ訳聖書は,「滅びに定められている……不従順の権化」という表現を用いています。

この反抗をもくろむ「者」は,ヨハネ第一 2章18,22節の使徒ヨハネのことばに示されているように結局は反キリストとなるのですが,ここではそう呼ばれていません。その者はまず,み父エホバ神の権威を否認します。そしてそれは確かに,キリストであり,神のみ子であり,かつ油そそがれた王であられるかたを否認することにもなります。したがってその者は実際には神に敵対する者,神に対して不法を働く者なのです。そうした反抗をもくろむ者は「滅びの子」と呼ばれます。というのは,その者が滅ぼされて無になることが定められているからです。その滅びは「エホバの日」に臨むでしょう。こうした反抗をもくろむ者は,その「日」に先だち十分明らかにされることになっています。―ヨハネ 17:12と比べてください。

背教はだれとともに始まったか

背教はどこで始まることになっていましたか。使徒パウロは,エルサレムに上る最後の旅行の途上,エフェソスの長老たちに語ったさい,その点を明らかにしました。パウロは彼らにこう警告しました。「わたしが去ったのちに,圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなたがた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」― 使徒 20:28-30。

使徒ペテロも,後にクリスチャンに宛てて手紙を書き,次のように注意を喚起しました。「民[ユダヤ国民]の間に偽預言者が現われました。それは,あなたがたの間に偽教師が現われるのと同じです。実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認するのです。さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。また,彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう」― ペテロ第二 2:1-3。

パウロは,同労者テモテに対しても,将来背教が起こることを告げました。会衆におけるふさわしい振る舞い,監督に要求される高度な資格,強力な訓戒のことばを与える必要性,悪行者を正すこと,そして聖書の純粋な教えを保つことの重要性について,強いことばを用いてテモテに説き勧めました。そしてパウロはこう警告しました。「霊感のことばは,のちの時代にある者たちが信仰から離れ去り,人を惑わす霊感のことばや悪霊の教えに気を奪われるようになることを明確に述べています」― テモテ第一 4:1。

使徒が,「あなたがた自身の中から……曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」と語りかけたのは「長老たち」つまり「監督たち」でしたから,背教はクリスチャン会衆の宗教的指導者を自認する人々,つまり神の会衆を『牧す』べく叙任された,あるいは任命された人々によって始められることは明らかです。そうした者たちは「偽教師」であり,「弟子たちを引き離して自分につかせ[キリストの弟子を自分自身のものにし]ようと」もくろんでいます。つまり,こうして「破壊的な分派」を作り上げるのです。彼らは,『群れを優しく扱おう』としない,「圧制的なおおかみ」と言えます。―使徒 20:29,30。

現代の歴史があらわにした事がら

キリスト教世界の宗教指導者をみて,次のように尋ねることができます。これと同じことを行なってきたのはだれだろうか。また,今日行なっているのはだれだろうか。「自分たちを買い取ってくださった[天の]主人」をその教えによって否認してきたのはだれだろうか。宗教指導者のうち,自らも「不品行」の罪を負い,群れの中でもそれを容認することにより,「真理の道があしざまに言われる」ようにしてきたのはどんな者たちだろうか。会衆の成員の持ち物を強欲にも貪り,『まことらしいことばで彼らを利用した』のはどの宗教指導者たちだろうか。

“キリスト教国”と呼ばれる土地に住む人々の霊的また道徳的状態をみれば,前述の状態が各宗派に分かれている同世界の宗教指導者たちに当てはまることがよくわかります。そうした宗教指導者たちの物質主義的で貪欲かつ高慢な態度や行為のゆえに,いわゆる“異教”の土地に住む人々は,それら宗教指導者たちやその群れに対してだけでなく,神のことば聖書に対しても憎しみをいだくようになりました。

こうした事実を注意深く考えると,キリスト教世界に数多くの宗派のある理由が歴然としてきます。身の安全と幸福を計るために,そうした宗派に関して真実を知ることが必要です。キリスト教世界の指導者たちが神の目にどのような立場を占めているかに関する真理は,「不法の人」について語った使徒パウロの記述の中に明らかにされています。パウロのこの記述を考慮することは,『すべての道はみな同じところに通じている』という考え方の持つ危険を見抜く上で助けになります。またそれにより,「不法の人」がだれであるかを識別し,その結末を見きわめることも可能になります。そのために,わたしたちは近刊号の「ものみの塔」誌上でテサロニケ第二 2章3-12節のパウロのことばを考慮する予定です。

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