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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1974
塔74 6/1 339–345ページ

人類に対するわたしたちの愛を広げる

1 イエス・キリストが示したとおり,仲間の人間に愛を示す面で全き者となることにはどんなことが含まれていますか。

あなたは仲間の人間に対する愛を表わす面で自分を広くしていますか。あなたは自分の愛を全きものとする点で進歩していますか。これは,自分に好意をいだいてくれる人に親切と寛大さを示すということ以上のものを含んでいます。イエス・キリストはこう語りました。「自分を愛してくれる者を愛するからといって,あなたがたにとってなんの誉れとなるでしょうか。罪人[評判のよくない人]たちでさえ自分を愛してくれる者を愛するのです。そして,自分によくしてくれる者に善を行なうからといって,あなたがたにとっていったいなんの誉れになるでしょうか。罪人たちでさえ同じことをするのです。また,利息なしで貸すとしても,その人から受け取ることを望んでいるのであれば,あなたがたにとってなんの誉れになるでしょうか。罪人たちでさえ,同じだけ取り戻そうとして,罪人たちに利息なしで貸すのです。それとは反対に,あなたがたの敵を愛し,善を行ない,何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば,あなたがたの報いは大きく,あなたがたは至高者の子となるのです。彼は感謝しない邪悪な者にも親切であられるからです」― ルカ 6:32-35。

2 エホバは感謝しない者や邪悪な者に対してさえどのように愛と親切さを示してこられましたか。

2 エホバ神が感謝しない邪悪な者にもいかに親切にしてこられたかを考えてください。そうした人々も,地上の生命活動を可能にするためにエホバが働かせておられる種々の循環から益を受けています。エホバは,空気,太陽の光,雨など,生存に必須なものを彼らから奪い取ることはされません。「ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられ」ます。(使徒 17:25)また,「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせて」おられます。―マタイ 5:45。

3 エホバの過去の行動は,雨や太陽の光を与えないようにするエホバの能力について何を示していますか。

3 エホバ神はご自身の選択によって親切さと寛大さを示しておられます。創造者として,エホバ神は生命活動に必須なすべてのものを掌握しておられ,選別的な方法によってご自分の賜物をある者に与えないようにすることもできます。そのことはエホバの過去の行動から明らかです。モーセの時代,エホバはエジプト人に三日のあいだ太陽の光を与えず,その同じ期間にイスラエル人に対しては光を与えました。(出エジプト 10:23)その幾世紀ものち,イスラエル人が不忠実になった時,エホバは降雨に対する支配力を行使されました。ご自分の預言者アモスを通してエホバは民に次のことを思い出させました。「わたしはまた,刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて,あなたがたの上にくださず,この町には雨を降らし,かの町には雨を降らさず,この畑は雨をえ,かの畑は雨をえないで枯れた」― アモス 4:7,口。

4 (イ)エホバ神が感謝しない者や邪悪な者から生命に必要なものを奪い取らなかったのはなぜですか。(ロ)エホバがその愛の表現として単に必要物を備えるよりはるかに大きなことをなされたことについて述べなさい。

4 しかし,エホバ神が,邪悪な者たちから雨や太陽の光を奪い取ることもできたのにあえてそうされなかったのはなぜですか。神からの賜物に対してなんの認識も示さない者に対してさえ愛と親切さを示してこられたのはなぜですか。それは,そうした人々に変化の機会,エホバに仕える道を選び取る機会を与えるためでした。事実,彼らが単に生活上の必要物を受けるということよりはるかに多くのことを許されたのです。神は,そうした人々および人類の他のすべての人が罪と死から解放されるための備えを設けられました。しかもそれを,ご自身の大きな犠牲のもとに,つまりご自分の独り子を犠牲とすることによって行なわれたのです。(ヨハネ 3:16)「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」,と聖書は述べています。(ローマ 5:8)この愛の行為は,アダムが人間としての完全な命を自分とのちに生まれてくる自分の子孫に対して喪失して以来その受け分となってきた罪への奴隷状態から人類を買い戻すための法的な根拠を据えるものとなりました。

5 人類はだれのものですか。なぜ?

5 その贖いの代償となったのはイエス・キリストの,完全な人間としての命です。代償となったのはイエスの命であったため,イエスは,この取決めの創設者であるエホバ神に加わって,人類に対する所有権を分け持つ者となっています。聖書が神とキリストの双方を,この買い取る行為を行なった者としているのはそのためです。「神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆」について述べられています。(使徒 20:28)また,イエス・キリストについて,啓示 5章9節は,「自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取った」と言明しています。神の会衆の成員だけが買い取られた人々の中に入っているのでないことは,テモテ第一 2章6節から明らかです。その部分は,イエスが「すべての人のための対応する贖いとして」ご自身を与えたことについて述べています。人間はみな実際には神とキリストの所有物であるという認識のもとに,仲間の人間に対するあなたの愛はいっそう広いものとなっていますか。

6 神は命をどのように評価しておられますか。

6 エホバ神は命をきわめて価値のあるものと見ておられます。み子の貴重な血で買い取った人々が滅びることは望んでおられません。社会的身分にかかわらずどこにいる人も真理を学び,神の備えを受け入れて命を得ること,これがエホバ神の願いです。(テモテ第一 2:1-4)神は「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望(んでおられる)」と使徒ペテロは書きました。―ペテロ第二 3:9。

神の手本に見倣う

7,8 自分が人類に対する神の態度を反映しているかどうかについてどんなことを自問できますか。

7 あなたは他の人々との関係において,人類に対する神の態度を反映していますか。エホバ神は邪悪なことを強く嫌悪されますが,それでも,ご自身の所有物としての人類に愛をいだき,人類に最善の事がらだけを願い求めておられます。あなたは人々を神の所有しておられるものとして扱い,神の所有権に敬意を払う人々に神が備えておられる数々の祝福にそうした人々もあずかることを願っていますか。人類に対して神と同じ見方をしているなら,わたしたちは愛と親切さと寛大さを働かせようと努力していることを示すはずです。

8 この問題をさらに調べるにあたって,あなたは次の点を自問できるでしょう。自分の時間,資産,能力などを自分の自由に使えるとき,自分はそれをただ自分自身および自分の家族や友人のためだけに使うだろうか。それとも,たとえその個性が自分に特に好ましく思える場合でなくても,不幸な境遇にある人や淋しい環境にいるのではないかと思われる人たちのために自分にできる事がらについて考えるだろうか。自分は感謝されているという感じを他の人々に与えているだろうか。なんら報いを期待する気持ちをいだかずに他の人々のためにすすんで自分を与えようとしているだろうか。自分に対して非常に不親切な態度を取ってきた人が肉体面で非常に困った状態に陥った場合,自分はそれに対してどのように応じるだろうか。その人をかわいそうに思うだろうか。その人を助けようとするだろうか。食事の準備,買物,洗たく,家のそうじなど,何か家事の面でその人を喜んで助けるだろうか。その人の経済状態が全く望みのない状態で返済できないことがほとんど明らかな場合でも,自分はすすんでその人にお金を貸すだろうか。―出エジプト 23:4,5と比較。

9 イエス・キリストがルカ 14章12-14節で指摘したとおり,寛大さという面で神の手本に見倣うなら,わたしたちはどんなことを確信できますか。

9 あなたの寛大さ,親切さ,愛が,それの当然に示される範囲を超えて,不幸な人,またあなたを好意的に扱わなかった人をさえ包含するようになるなら,あなたはエホバ神を見倣っていることになります。また,仲間の人間に対する愛を広くしていることになります。そして,そうした人々が神とキリストによって買い取られているという事実に一致して行動していることになります。それゆえにあなたは,神が報いてくださることを確信できます。イエス・キリストはその点に注意を引いてこう語りました。「あなたが正さんや晩さんを設けるときには,[いつも]友人や兄弟,また親族や富んだ隣人など[だけ]を呼んではなりません。おそらく彼らはいつかあなたを招き返して,それがあなたへの報いとなることでしょう。むしろ,あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,かたわ,足なえ,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活のさいに報いを受けるのです」― ルカ 14:12-14。

10 親切さは,不親切で愛の欠けた人にどんな良い感化を与えますか。

10 さらに,不親切で愛のない精神を示す人々に対しても愛と親切さとをもって接することによって,そうした人々に,自分に対する神の所有権を認めるべきことを悟らせることができます。ローマ 12章20節がこの点でどう述べているかに注意してください。「あなたの敵が飢えているなら,食べさせなさい。渇いているなら,飲む物を与えなさい。そうすれば,燃える石炭を彼の頭に積み上げることになるのである」。火が鉄を溶かすのと同じように,あなたの親切さが相手の固い態度をやわらげさせることになるかもしれません。そして,恥じらいを感じさせ,あなたに対する以前の態度を後悔して改めさせることにもなるでしょう。それは,真のキリスト教がどのようなものであるかに目を開かせ,あなたに加わって真の崇拝を始めるための段階を踏むようにその人を促すことができます。

11 愛や寛大さや親切さを示す面で全き者となっているかどうかを決定するのはなんですか。

11 当然のことですが,わたしたちが個人として他の人のためにどれほどのことをできるかは状況によって左右されます。身体的または経済的な限界,もしくはその両面の限界があるかもしれません。したがって,他の人と同じほどにできない場合があっても,だれも失望する必要はありません。わたしたちが愛や寛大さや親切さの表現において全き者であるかどうかを決定するのは,その量ではありません。それは,自分の支配的な霊として寛大さ,親切さ,愛をいだいているかどうか,自分の能力や資産を存分に活用して他の人の励みや祝福のもととなっているかどうかの問題です。

12 神から離れた人類世界に対する責任がクリスチャンの主要な責任ですか。

12 クリスチャンとして,わたしたちには,自分の家族や仲間の信者に対する優先する務めがあります。聖書はこう述べています。「自分に属する人びと,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪い」。(テモテ第一 5:8)「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)したがって,人類世界の他の人々を助けようとする一方で,自分の家族や仲間の信者のことをなおざりにするのであれば,それは正しくありません。肉的また霊的な意味でつながりを持つ人々に対するわたしたちの関係は,親切さや愛,またその福祉に対する積極的な関心をとくに反映すべきです。

13 どんな場合には物質上のものを与えないことがその人に対する愛の表現となりますか。

13 しかし,寛大さを示すことがそれを受ける人の助けとならない場合もあります。ある人々,ときには仲間のクリスチャンの中にさえ,自分の責任を負わず,怠惰で,できる仕事があるのにそれに就こうとしない人がいます。そうした人が物質面での援助を受けるとすれば,それは,仕事に対するその人の誤った見方を正すように励ますことにはなりません。そうした人の場合,聖書のテサロニケ第二 3章10節にある指示が当てはまります。「働こうとしない者は食べてはならない」。また,自分に与えられるものを神の非としておられる活動や習慣のために用いるような人の援助を拒むのは,クリスチャンにとって正当なことです。人にあるものを与えないでおくことが,考え方を改めるべきこと,また他の人がほねおって得た資産を誤用すべきでないことをその人の心と思いに銘記させるのに役だつならば,それは実際には,その人に対する愛と関心の表現となります。

重要な仕事 ― 王国を宣べ伝え,弟子を作ること

14 霊的な援助を与えることが今日とくに急を要するのはなぜですか。

14 物質面で人に与えるよりさらに重要なのは,クリスチャンが与えることのできる霊的な面での援助です。特に今,これは急を要する問題であり,人の生死を左右する事がらです。どうしてですか。聖書の預言と,それの成就となる実際のできごととは,西暦1914年以来の世代が「終わりの時」を迎えていることを証明しています。(マタイ 24:3-14,32-34。ルカ 21:25,26。テモテ第二 3:1-5。啓示 6:2-8)a つまり,献身してみ子の弟子となり,エホバ神のしもべとなっていない人はみな,自分の命を失うかもしれない危険な立場に立っているのです。

15 今日の人々の立場は,神の裁きが執行された以前の幾つかの場合にそれに直面した人々の立場とどのように異なっていますか。

15 どこにいる人もこの危険について知らされなければなりません。今日の人々の立場は,以前に神の裁きが執行された幾つかの場合にそれに直面した人々の立場と異なっています。例えば,エホバ神がバビロニア人を用いて不忠実なユダとエルサレムに対する裁きを執行したさいに滅びた幾千人の人々は,そうでなくてもやがて死ぬことになっていました。そして,彼らの死は全くの滅亡を意味していたわけではありません。しかし,神を知ろうとせず,イエス・キリストについての「良いたより」に従わない人々に対して今の世代に表明される裁きは最終的なものです。聖書はこう述べています。「この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」。(テサロニケ第二 1:9)「これらの者は去って永遠の切断にはいりま(す)」。(マタイ 25:46)一方,その滅びを生き残る人々は,その後何年か生きたのちにやはり死ぬのではありません。彼らの前には,病気や悲しみや苦痛から解放されて永遠に生きる見込みがあるのです。―啓示 7:14-17; 21:3-5。

16 エホバ神はエゼキエルの時代,不忠実なユダとエルサレムに裁きを執行する以前に何を行なわれましたか。

16 ここで問題となっている事がらの重大性のゆえに,今日のエホバのクリスチャン証人が,人の命を救う,神のことばからの音信を人々に伝えるために最善の努力をするのは当然のことではありませんか。その業に携わることによって,すべての人が悔い改め,正確な知識にしたがって生きるようにとの神の願いに対する正しい顧慮を示すことになります。エルサレムを滅ぼしてユダの土地を荒廃させることをバビロニア人に許すに先だち,エホバ神は必要な警告を伝えさせました。エホバは,その警告に注意を払う人々が持つあと幾年かの命をさえ貴重なものとみなされました。そして,戦争やそれに伴うできごとの結果としての恐ろしい死をできるだけ多くの人が免れることを望まれました。それゆえエホバはご自分の預言者エゼキエルに重い責任を課してこう語られました。「人の子よ,わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口からことばを聞くたびに,わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき,あなたは彼の命を救うために彼を戒めず,また悪人を戒めて,その悪い道から離れるように語らないなら,その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。しかし,もしあなたが悪人を戒めても,彼らがその悪をも,またその悪い道をも離れないなら,彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う」― エゼキエル 3:17-19,口。

17 エゼキエルの受けた任務は,宣べ伝えて弟子を作るわたしたちの任務を認識するうえでどのように役だつはずですか。

17 今日の人々が迎えているさらに重大な危険について考えるとき,人々の命に対するわたしたちの責任はエゼキエルの場合よりも小さいと考えてよいでしょうか。もとよりそのようなことはありません! 19世紀以上前にイエス・キリストによって与えられた,宣べ伝えて弟子を作るという任務は「事物の体制の終結の時まで」継続されるものです。(マタイ 28:19,20)あなたはこの任務を遂行する自分の責任をはっきり自覚していますか。

18 忠実でない人がいても,警告を発するという神の目的が果たされないで終わることはありませんが,それはなぜですか。

18 これは,もしあなた個人がこの任務を果たさなければ人々は永遠の滅びを被るという意味ですか。そうではありません。これは人間の仕事ではなく神の仕事だからです。各人の心を開いておられるのは神であり,「神とともに働く者」となることはわたしたちの壮大な特権です。(使徒 16:14。コリント第一 3:9)警告を発するために,エホバ神は,必要であれば『石に叫ばせ』ることもできます。(ルカ 19:40)したがって,任務を果たさない人がいるとしても,それによって神の目的の遂行が阻まれるようなことはなく,神は,現在の事物の体制の滅亡以前に,どれだけでもご自分の望むだけ警告を伝えることができます。そして,エホバのクリスチャン証人の集合体は,警告を発する業を怠ったりはしません。エホバと仲間の人間たちに対する彼らの愛は非常に強く,時の残されているうちに救いの道を見いだせるように人々を助ける点で最善の努力を行なわせます。彼らはこれを成し遂げるために喜んで自分の個人的な事情を整え,自分の環境を調整することさえします。こうして,石が叫ぶことは必要でありません。

19 不忠実な人が血の罪を免れないのはなぜですか。

19 しかし,これによって,仲間の人間に対する真の愛と関心を示さない人各人が血の罪から免れるわけではありません。例を挙げて説明しましょう。父親が自分の子どもをなおざりにしてその子どもが危険な状態になったとすれば,だれかほかの人がその子どもを死から救い出したとしても,父親自身は罪を免れません。同様に,エホバのしもべであることを唱えながら,他の人に対する務めを怠る人も罪を免れません。彼の愛と関心の欠けた態度は殺人にも等しいと言えるでしょう。その人は,自分が多少の伝道をしたということで言いのがれることはできません。エホバ神は人の怠慢の程度を知っておられ,それに応じて裁きを下されます。―ローマ 14:12。

20 なぜ今はしるしだけの奉仕をする時ではありませんか。例を挙げなさい。

20 だれにしても,今は,単なるしるしだけの奉仕ですませようとしたり,他の人々のために少しの時間も取れないほど生活の心配や商業上のもくろみにまとわれたりする時ではありません。命を救う,人類史上最大の仕事が今や急速に終わろうとしています。したがって,わたしたちがすすんで犠牲を払い,個人的な楽しみや欲望を慎しむのは正しいことではありませんか。これは,何かの災害があった場合に人々が行なうことではありませんか。そうした場合,人々はその救出活動を時計に支配されて行なうのではなく,その必要があるかぎり,またなんとか用いる力があるかぎり最善の努力を続けます。

21 王国を宣べ伝える業に対するわたしたちの感じ方についてどんなことが尋ねられますか。

21 きわめて重要な王国伝道の業に対してあなたはそのように感じていますか。人々の家を訪ねるさい,あなたの心は,いこいや休息の必要性また他の聖書的な務めを見落とさないなど道理にかなった範囲で,できるだけ長くその業を続けようとする方向に働きますか。それとも,その業を切り上げること,そしておそらくは何かの娯楽やレクリエーションに携わることを楽しみにしますか。また他の場合,学校や職場その他の場所で日ごろ人と接するさいに,その機会を活用して人々に真理について話しますか。聖書の音信を親族や知人に伝えることにほんとうに関心をいだいていますか。また,ことばよりもりっぱな行動で証しをするほうがよい場合があれば,それを目ざとく見きわめますか。

22 弟子を作る業にはどんなことが関係していますか。

22 イエス・キリストが与えた任務は,神の真理を宣べ伝えたり宣明したりすることだけではありません。この点も銘記すべきです。人々は,イエスの弟子となるために教えられることが必要です。あなたは,なんらかの関心を示している人を再び訪ね,そうした人との家庭聖書研究を始めるために道理にかなった努力をしていますか。人々は,単に聖書の述べる事がらだけでなく,どうしたらそれに従って生活できるかをも知らなければなりません。真理を教えることに最善の努力を尽くした使徒パウロは次のように言うことができました。「わたし(は)すべての人の血について潔白で(す)……何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなたがたに伝えたからです」。(使徒 20:26,27)あなたは,パウロと同じように,自分の教えが重要な点で不備にならないように,また,あなたの教えている人が神のご要求を十分理解するようにしていますか。人の知るべき情報を伝えないで人の悪行に寄与するようなことは望まないはずです。

23 コリント第二 3章2,3節を用いて,教えを受ける人に対して持つべき態度および正しく教えることの結果について述べなさい。

23 もうひとつ大切なのは,自分の教える人たちに対する深い関心と愛です。使徒パウロは自分自身および自分の同労者たちについてコリントの人々にこう書き送りました。「あなたがた自身が,わたしたちの心に書き込まれ,すべての人に知られ,かつ読まれている,わたしたちの手紙なのです。あなたがたは,奉仕者であるわたしたちによって書かれ,インクによらず生ける神の霊によって,石の書き板ではなく肉の書き板に,すなわち心に書き込まれた,キリストの手紙として示されているからです」。(コリント第二 3:2,3)自分の教える人たちに深い愛と関心をいだくとき,その教えを受ける人たちはわたしたちの心に書き込まれた「手紙」のようになります。そして,わたしたちが神の霊の助けに頼り,自分の可能な範囲内で力を尽くすなら,それに答え応じる人々は,神の霊によって心に書き込まれたキリストの手紙のようになります。そうです,そうした人々の心に対する神の霊の働きの結果としてクリスチャンの人格が表わし示されるようになり,観察する人々はそれを見,もしくは『読む』ことができます。あなたは,神の『同労者』として,そうした「手紙」を生み出すために精力的に努力していますか。

24 エホバのしもべとしてのわたしたちの活動について真剣に考えるなら,それはどのような結果になりますか。

24 エホバ神のしもべとしての自分の活動を考えるとき,あなたは多くの喜びを思い返すことができるにちがいありません。確かにあなたは,さらに多くのことができたらと考え,また自分を改善できる分野があることに気づくかもしれません。また,生きた「手紙」をこれといって示せないということでときに失意することもあるかもしれません。しかし,宣べ伝えて教えるというクリスチャンの任務を果たすために努力してきたのであれば,エホバ神とイエス・キリストがあなたの身をささげた奉仕を喜んでくださることを確信できます。今,他の人々に対する自分の責任を,霊的な「赤子」であった時以上に強く自覚するのは全く当然であり,また良いことです。他方,もしわたしたちの中に,多少利己的な傾向をいだいてきた人がいるならば,そうした人たちは,自分を広くして,仲間の人間に愛と親切さと寛大さを示す面で全き者となることについて真剣に考えるべきです。わたしたちは,エホバ神とイエス・キリストが人類に対して持つ愛に一致して行動する者となり,それによって,神の報復の日に,保護を受けるに価する者として見いだされますように。

[脚注]

a 西暦1914年以来の時代がこの体制の「終わりの日」であることを明確に示す詳細な事項については,「真の平和と安全 ― どこから得られるか」という本の71-86ページをご覧ください。

[344ページの図版]

エルサレムの滅びに先だってエゼキエルが神からの警告を伝えたのと同じように,イエスの弟子たちも,人類が今日直面しているはるかに大きな危険について人々に警告する責任がある

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