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  • 流行や娯楽のわなに掛からないようにしなさい
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 11/15 691–696ページ

流行や娯楽のわなに掛からないようにしなさい

「好意的でない人たちを柔和な態度で諭すことが必要です。神が彼らに悔い改めを授け,真理の正確な知識に至らせてくださるかもしれないからです。そして彼らは,悪魔の意志に仕えるべくその者に生きながら捕えられていたことを知り,そのわなから出て冷静さを取り戻すかもしれません」― テモテ第二 2:25,26。

1 人間の気持ちを捕えるサタンの方法は,どんな点でわなまたは落し穴になぞらえられていますか。

動物を油断させておいて捕えるには,わなを隠しておく必要があることを猟師たちは知っています。わなは,不注意な獲物が気づかないうちに,不意に音をたてて閉ります。つまり獲物はわなにしっかりと捕えられています。えさがつけてあるわなもあります。わなの鋼鉄のあごの間に収まっているおいしそうな食べ物に気を取られて油断するために,多くの動物がわなに掛かります。神の敵である悪魔サタンは,利己的な欲望に動かされて一つの体制をつくりました。ですからこの体制はわなや落し穴で満ちており,もし絶え間ない用心を怠るなら,クリスチャンも容易にそのわなにかかって命を落す危険があります。―詩 119:110。

2 今日クリスチャンが以前よりもさらに用心を必要とするのはなぜですか。

2 しかもわたしたちは,「終わりの時」も深まった時に住んでいますから,ある人々が,この世の魅惑的なわなに掛かる危険のみならず,エホバの大いなる日がわなのように彼らの上に臨む危険も,いつの時よりも大きくなっています。彼らはこの世の仕事にすっかり巻き込まれてしまっているので,悪い者が滅びるエホバの時は,制動装置が突如はずれた,隠されていたわなのように彼らに臨んで,彼らは滅びるでしょう。(ルカ 21:34,35)『悖れる者の途にはいばらとわなとあり たましいを守る者は遠くこれを離れん』― 箴 22:5。

3 流行はどのように定義されますか。流行を追うことにはどんな危険がありますか。

3 この研究では,流行と娯楽に注意を向けて考えてみましょう。これらは,悪魔がクリスチャンを誘惑するために仕掛けるえさのついたわなの中でも最も巧妙なわなとなることがあるからです。流行<ファッド>とは,人々が一時の間異常な熱心さで追う習慣または娯楽,と定義されています。それは熱狂的な流行もしくは一時的な気まぐれです。流行にもいろいろありますが,最も一般的なのは,衣服の型や身繕いの仕方,食物などに関するものでしょう。流行は,一時的な性格のものであるとはいえ,真の崇拝や,命に関する神のご要求を満たすことと関係のある重要な事柄が,たいして,いや全く重要でないものになるような方法で,クリスチャンの気持ちを捕え,時間を奪ってしまう可能性があります。

4 近年,どんな極端な型の服が登場しましたか。

4 世界のある地域では,男性の服の型も女性の服の型も,年々変わるということはほとんどありません。しかし,多くの国では,ここ幾年かの間,より極端で慎みを欠いた型に向かう傾向が強まっています。「何を着ていたってかまわない」という態度を取る人たちさえいます。不道徳で高慢な考えや反抗的な考えを心に抱くだけでは飽き足りず,さらに身繕いの仕方や服の型によってそうした態度を他の人々の前で宣伝し,これみよがしに誇示せずにはいられないのです。欧米のある地方では,男が女のような服装をし,女が男に近い服装をしています。今はやっているスタイルの多くは,二,三年前には風変わりなスタイルと考えられていたものです。

5 服の型や身繕いの仕方はどのように悪魔のわなとなりますか。

5 このような状態なので,クリスチャンの男子や婦人は,何を着るか,または着ないかを,どうして決めればよいでしょうか。当然のことながら,クリスチャンは古風なことや流行遅れの服装をしていることで目立つのは望みませんが,かといって他の極端に走り,服の型や身繕いの仕方で古い世に完全に主導権を握らせるのは,悪魔が仕掛けた流行という魅惑的なわなに落ち込むことを意味します。悪魔は次のことをよく知っています。それはつまり,人を誘惑して,自分の支配下にあるこの世のスタイルと同様のスタイルで外面をよそおうという最初の段階を踏ませることができれば,この世的なものを追求するさらに他の段階に誘い込むのは多くの場合容易であるということです。

6 服の型を選ぶことや身繕いをすることにおいてクリスチャンの導きとなるのは何ですか。

6 クリスチャンの婦人は,テモテ第一 2章9,10節で,よく整えられた服装をし,慎みをもって身を飾るように勧められています。この原則はもちろん会衆内の男子にも当てはまります。ある型のものを着るかどうかを決める際には,その服または身繕いが慎み深さを表わすものであるか,あるいは慎みのないもので人を当惑させるものであるかを,考えてみるとよいでしょう。男子の場合,体にぴったりつくズボンは慎みに欠けたものと言えるでしょう。短い,またははだもあらわなドレスが女性にとって慎みのないものであるのと同じです。姉妹は,演壇の上で体をかがめる時,あるいは慎み深いすわり方をしようとするとき,ドレスが短いために困難を感じますか。わたしたちは,着ているものや身繕いによって,ふしだらな者,あるいは高慢で好戦的な態度をとる者,という間違った考えを他の人々に抱かせるようなことがありますか。

7 地球上のどこに住んでいようと,どんな事実は,エホバのクリスチャン証人がきちんとした服装をする助けになりますか。

7 エホバのクリスチャン証人は,宇宙の偉大な主権者であられるエホバのしもべです。ですから,この自覚こそわたしたちの服装を左右するものでなければなりません。ある特定の地域の人々は,神のしもべたちがどのようであることを期待しますか。スタイルは世界中でそれぞれ異なっています。したがって,各国または地域社会で,どのスタイルが適当なもの,または慎み深いものであるかを具体的に決めるのは,エホバの証人の統治体の責任ではありません。もしあるスタイルがひどく問題のあるものであれば,着ないほうがよいでしょう。慎みのない者,あるいは高慢な者,またはだらしのない者と見られるよりは,少しばかり流行に遅れていると見られるほうがましです。

8 姉妹は,自分が住んでいる地域社会の中で,パントスーツやスラックスを着用してさしつかえないかどうかを,何から知ることができますか。

8 女性のスラックスやパントスーツが地域社会の中で多くの人のひんしゅくを買っているなら,クリスチャンの姉妹は,人中に出るとき,別の型の服を着るほうがよいでしょう。気候の寒い間は,寒さに身をさらす時間を短くしたり,体を暖めるために一息入れるときを増やすようにしたりすることもできるでしょう。寒さの厳しい,そして地域社会の人々がみな,スラックスのようなその気候に適した衣服を着用する所では,もちろん,クリスチャンの婦人も同じようにしてさしつかえありません。ある場所の開拓者たちにとっては,そうすることが,健康を保って長い時間を奉仕にささげる助けとなっています。もしある型が適当かどうかを決めかねる場合には,クリスチャンの姉妹は,夫かまたはクリスチャン会衆内の長老にそのことを話すことができます。長老は自分の好みを他の人々に押しつけようとしてはなりませんが,その地域社会の中でどんな服装がふさわしいかについて忠告を与えうる立場にあるでしょう。子どもたちは,ドレスや身繕いの問題について両親に従順でなければなりません。

9 どんな経験は,他の人々が命の道について学ぶのを妨げないために,自分の風さいで,改善の望ましい点を改める必要のあることを示していますか。

9 極端な髪型も,人を容易に悪魔のわなに導き,他の人たちをつまずかせます。例えば,アメリカに住むある青年は,聖書研究においてすばらしい進歩を見せていました。そして,経験を積んだ証人と一緒に,自分が聖書から学んでいる良い事柄を他の人々に宣べ伝えたい,という気持ちになりました。その人は早くからあごひげをのばしていました。実業界にもあごひげをのばした人がいくらかいたので,伝道するときにあごひげをのばしていても人々は受け入れてくれるだろう,と彼は考えました。ところが,ひとりの婦人に話しかけたとき,彼は自己紹介以上のことは何もすることができませんでした。その婦人は,「悪いけど,お若いかた,わたし学生の反抗などに巻き込まれたくないんです」と言いました。そう言ったが最後,なんと説明してもその間違った印象を拭い去ることはできませんでした。ドアを閉めて会話を終えたあと,彼は経験を積んだ証人に,これはいったいどういうことなのでしょうか,と尋ねました。彼は,自分が主張している身分,すなわち神のしもべという立場から自分の外見を考えてみるように勧められました。そこでこの新しい王国伝道者は,自分につまずいて永遠の命の道を歩みそこなう人が一人でもいてほしくないと考え,あごひげをそり落しました。もしあなたの外見が,ある地域社会で間違った印象を与えるなら,あなたは進んでそのようにしますか。

10 人は,地域社会に入り込んで王国の良いたよりを宣べ伝える目的を,服の型や身繕いの仕方によってどのように達成しそこないますか。

10 エホバの民は世間の人々からよく観察されている,ということをわたしたちは考慮に入れておかねばなりません。彼らが人々のところへ携えてゆく王国の音信は,それを携えて行く者の外見によって判断されることがあります。ある型の服装をしているクリスチャンの兄弟または姉妹は,戸口で自分に家の人の注意を奪ってしまい,そのために家の人は,クリスチャンが話している事柄には注意を払わない,ということがあるかもしれません。あるいは,わたしたちも道徳や主義の面で俗人となんら変わったところはない,と結論するかもしれません。もしそんなことになれば,音信を携えて行った者は,彼の,または彼女の野外奉仕の目的の遂行に完全に失敗していることになります。人をつまずかせないためには,多かれ少なかれ,必要に応じて自分の便宜を犠牲にすることを求められる時があります。これが使徒パウロの取った態度でした。「わたしたちはどんな事にも決してつまずきの原因を作らないようにしています。わたしたちの奉仕の務めが非難されるようなことのないためです。かえって,あらゆる事において自分を神の奉仕者として推薦するのです」― コリント第二 6:3,4。

健康と関係のある流行もわなになりうる

11 健康に関係した流行は,クリスチャンにとってどのようにわなとなる恐れがありますか。

11 食べることや健康管理と関係していろいろな事柄がはやっています。しかし,健康と関係のある流行もわなとなることがあります。食物や病気のことに夢中になってしまって,神の王国を宣べ伝えることや,肉体が真にいやされる新秩序を待ち望むことよりも,そうしたことのほうが重要になる危険があります。もちろんわたしたちは現在,自分で自分の面倒を見るのに実際的な知恵を働かせる必要があります。そしてある食物ないしは薬は,自分自身の状態に有効かもしれません。しかしこうしたことは,わたしたちのエホバに対する奉仕に付随する事柄であるべきです。パウロは,食物のことで騒がないよう強く戒めました。(ローマ 14:1-23)「ですから,あなたがたは,食べるにしても,飲むにしても,あるいはほかのどんなことをするにしても,すべての事を神の栄光のためにしなさい」。(コリント第一 10:31)ですから,食物や健康に関係した流行が自分のわなにならないように,また他の人たちのつまずきにならないようにしましょう。

12 流行に関する実際に即した分析は,聖書の光に照らすとき,わたしたちに何を教えますか。

12 流行は,衣服や身繕いや食物に関係したものであろうと,あるいはその他の事柄に関係したものであろうと,わたしたちが神のご意志を行なうことから離れてこの世の事柄に捕われる原因になりうる,ということをわたしたちは認めなければなりません。流行を追えば,多くの場合,余分の費用がかかります。ですから,そうした物への支払いに追われて,世俗の仕事をもっと多くする必要が生じてきます。したがって流行は,大敵対者悪魔サタンの巧妙なわな意外の何ものでもありません。「ですからあなたがたは,自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の歩き方であるようにし,自分のために,よい時を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからです。それゆえ,もはや道理をわきまえない者となってはなりません。むしろ,何がエホバのご意志であるかを見きわめてゆきなさい」― エフェソス 5:15-17。

娯楽のわなに掛からない

13 (イ)悪魔は,娯楽に対する人間の欲求をどのように利用して人間を害してきましたか。(ロ)娯楽が計画された場合,それはどんなことを成し遂げるものであるべきですか。

13 愛の深い天の父は,人間を創造する際に,種々の娯楽を楽しむ能力を人間にお与えになりました。自分自身や他の人たちを楽しませる能力や手段もこれに含まれます。しかし,良いものを楽しむその能力は多くの場合悪魔の手にかかり,人間にとって悪いもの,恥ずべきもの,あるいは有害なものとなるように悪用されます。娯楽については特にそう言うことが言えます。クリスチャンも,健全な娯楽がある必要を満たすことを認めます。娯楽は生活の速度や活動に喜ばしい変化を与えます。そのために肉体と精神は必要な息抜きと休養を得ます。とはいえ,娯楽が有益なものであるためには,それは身体的にも精神的にも人を築き上げ励ますものであるべきで,有害なものであってはなりません。

14 建設的で励みになる娯楽を選択する際にどんなことを自問すると有益ですか。

14 従ってわたしたちは,娯楽を選択する際に次のことを考えるよう自分を訓練しなければなりません。これはキリスト教の原則と一致しているだろうか。自分の心や思いにどう影響するか。他の人たちにどんな影響を与えるだろうか。このように用心深くあれば,娯楽は,わたしたちを信仰から引き離したり,わたしたちにクリスチャンらしからぬ振る舞いをさせたりするほど,わたしたちの感情と関心を完全に捕えるわなとはならないでしょう。

15,16 (イ)娯楽としてスポーツに非常な関心が持たれることは,どんなことから分かりますか。(ロ)クリスチャンはスポーツに対して,どんな平衡の取れた見方をすべきですか。

15 世間で行なわれている,気晴らしの主な手段の一つは,スポーツを見ることか,またはそれに参加することです。第二次世界大戦以来,種々のスポーツに対する熱が非常に高まりました。競技場は大入り満員です。ファンたちは悪天候もなんのその,遠いところからやってきます。そして試合を見るために法外な入場料を払います。なかには選手や試合についての果てしない統計をおぼえていて話すことができる人もおり,こうした事柄がどの程度彼らの時間と注意を奪っているかが分かります。

16 使徒パウロは,若い監督テモテに指示を与えるに際し,次のように述べました。「敬神の専念を目ざして自分を訓練してゆきなさい。身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。(テモテ第一 4:7,8)このように使徒パウロは,身体の訓練は身体の益になるけれども,敬神の専念という第一目標との関係において下の位置に保たれねばならないことを認めていました。適度に行なうのであれば,スポーツは,健全な交わりを持つ機会となり,娯楽となり,体の運動となります。これは心身のためによいものです。しかしそのような楽しみに夢中になるなら,必要な睡眠や休息を奪われてしまう恐れがあります。それは賢明なことではありません。わたしたちはスポーツのことに真剣になりすぎ,それに精力を費やしすぎるようにならないとも限りません。その結果重大な害を受けるかもしれません。スポーツは競争心を助長することがあります。しかし,平衡の取れたクリスチャンは,競争心を持たないようにします。競争心があると,試合で人を負かすことに誇りを持つようになります。(ガラテア 5:26)敬神の専念と関係のある最も重要な事柄のためにエネルギーと時間を確保するためには,節度が必要です。「あなたがたが道理をわきまえていることをすべての人に知らせなさい」と聖書は助言しています。(フィリピ 4:5)イエスは,心に植え付けられている「神のことば」を「生活上の……快楽」によってふさがれないように,と警告されました。―ルカ 8:11,14。

17 在学中の若いクリスチャンたちは,なぜ運動競技の課外活動というわなに掛からないように用心する必要がありますか。

17 在学中の若いクリスチャンたちは,スポーツが生活の中の重要な事柄とならないように,特に注意しなければなりません。スポーツへの参加が過度になると,聖書の勉強や王国活動がおろそかになりがちです。チームの一員であることの魅力,試合に優勝するときの興奮などは,クリスチャンを,気づかないうちに捕えることのできる巧妙なわなです。自分自身を霊的になおざりにし,それと同時に一方で,悪い交わりや競争心,人気者になりたいという欲望などに足を引っぱられます。これらはみな一緒になって,内部に死の力を宿す一つの結合体となります。『知恵ある人の教訓はいのちの泉なり 能く人をして死のわなを脱れしむ』― 箴 13:14。

18 もし映画やテレビまたは演劇に娯楽を求めるなら,なぜ注意深く選択すべきですか。

18 人は,映画,テレビ,あるいは演劇に気晴らしを求めることができますか。これはもちろん個人が決める問題です。しかし聖書は次のように警告しています。「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」。(ローマ 12:2)サタンは「この事物の体制の神」であり,今日生きている人類の大多数はサタンの悪い影響の下にある,という事実をクリスチャンは直視しなければなりません。『全世界は邪悪な者の配下にある』。(コリント第二 4:4。ヨハネ第一 5:19)このことは,今日映画やテレビのスクリーンに上映されるもの,また舞台の上で演じられるもののほとんどを考えてみるなら分かることです。製作者は金をもうけるために仕事をしているのです。そして彼らのほとんどが,今日よく受けるのは性と暴力である,と率直に言います。ですから,もしクリスチャンの家族の成員が,時折,息抜きに映画か演劇を見ようとする場合には,注意深く選択する責任があります。

19 わたしたちは不健全な娯楽で危険を冒すことはできません。なぜですか。

19 しかし,努力して選択するにもかかわらず,テレビを,または劇場で劇を見ているうちに番組の内容がいつの間にか,単に知識を与えるもの,楽しませるもの,気分をくつろがせるものではなくなってしまうことも,時にはあるかもしれません。それは人を堕落させるものです。あなたには,立ち上がってテレビを消す,あるいは劇場から出る勇気がありますか。わたしたちは,それが悪いものであることを確信するためには悪について知るようにしなければならない,と考えるのではなく,自分の思いや心に入ってくるものに絶えず注意していなければなりません。「まじめなこと,……義にかなっていること,……愛すべきこと,……よく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきこと」を「考えつづけ」ているなら,不道徳なことや暴力行為,あるいは曲がったことなどについてじっくり考える余裕はありません。―フィリピ 4:8。

20,21 (イ)なぜクリスチャンである親は,子どもがテレビで何を見るか厳重に監視すべきですか。(ロ)ほとんど,または全く価値のない番組に時間を浪費する代わりに,何をすることが勧められていますか。

20 分析者たちの報告によると,アメリカの普通の子どもは,一年に500時間から1,000時間テレビを見て過ごします。親のなかには,わずらわされるのをきらって,子どもをテレビの前に座らせておとなしくさせる人もいます。しかしそれは,感受性の非常に強い子どもたちに対して何をしていることになりますか。小児精神医学者のアーサー・R・ティム博士は,そのような状況は,「成長しつつある子どもの思いに非常に有害な影響を及ぼす。……人間の行動における正邪について,全くゆがんだ観念をもって成長する」と警告しています。ニュース供給源は毎日のように,暴力犯罪や悪行に巻き込まれている子どもたちについて伝えます。そして子どもたちが,そのような恐ろしい事を行なう手ぐちのほとんどをどこで知ったかは明らかです。親のみなさん,お子さんがテレビで何を見ているか,厳重に監視しておられますか。

21 また,読書をしたり,考えたり,あるいは他の建設的な活動を行なう代わりにテレビをつけ,画面に映っているものを何でも気晴らしに見るおとなも見られます。部屋は騒音で満ちていることが多く,少しの間でも静かになると,落ち着かない様子が見えてきます。しかし神の真のしもべたちは,この「気を散らす時代」のものとなることはできません。時間は非常に貴重なものですから浪費することはできません。こうしたときに,テレビを消して,神のことばの一部を静かに読めば,どんなに気分がさわやかになることでしょう。そうするには訓練がいりますが,報いは大きなものです。

22 もしあるクリスチャンがダンスを娯楽に選ぶなら,どんな質問と原則が導きになりますか。

22 ダンスもまた別の型の娯楽です。聖書時代には,神に対して喜びと賛美を表わす一つの形式として用いられました。(詩 149:3; 150:4)クリスチャンは現代のダンスに参加できますか。この点で何ができるかは,各自が決めなければなりません。考慮すべき決定的な要素が幾つかあります。つまりだれとダンスをしますか。ダンスでだれと交わることになりますか。ダンスはどこで行なわれますか。そのダンスの起源は? どんな動きをするダンスですか。そのダンスは清くない考えを思い浮かべさせる傾向がありますか。それとも,本当に運動と健全な楽しみだけを目的とするものですか。もし既婚のクリスチャンがダンスをするのであれば,自分の配偶者とするのが賢明です。未婚の男女のクリスチャンたちがダンスをするときには,慎み深く行動すべきで,相手を性的に興奮させるような踊り方をすべきではありません。この世のダンスホールは,たいてい仲間のクリスチャンがいなくてふんいきが悪いばかりでなく,交わりも悪いので,そこで踊るのは危険が少なくありません。クリスチャンたちが集まってダンスをする時でも,大きなグループでしないようにするのが一番良いでしょう。活動が収拾できない状態になることは容易に起こることであり,また賢明な限界を乗り越える人も出てくるかもしれません。わたしたちは,自分自身を守るだけでなく,他の人々をもつまずかせないように行動したいものです。(コリント第一 8:9。ローマ 13:14)もしダンスを楽しむとすれば,よく選択し,すべてのことを神の栄光のために行ない,この種の娯楽においても慎みと品位を保ち,すべてのことを神の栄光のためにするようにしましょう。―コリント第一 10:31。ペテロ第一 1:15,16。

23 神を喜ばせることを望む人は,音楽がわなとなるのをどのように避けることができますか。

23 音楽はすぐれた気晴らしの手段になりますが,これとてももし許せば,わたしたちのわなとなりかねません。今日作曲,演奏される音楽の多くは,人の利己的な欲望をかきたてるためのものです。従ってクリスチャンは,どんな種類の音楽についても,その起源はどこにあるか,その目的は何か,自分にどんな影響を及ぼすか,ほかの人たちに迷惑にならないか,と自問してみる必要があります。今流行している「ロックンロール」の中にも見られるように,ある音楽は,反抗的な精神を反映していたり,挑発的な歌詞や暴力行為を刺激するものを含んでいたりすることが少なくありません。クリスチャンが,様々な音楽の中から,おもしろくて心をさわやかにする,そして良心を痛めない音楽を選ぶのはよいことです。

24 (イ)流行や娯楽と関係のあるわなを仕掛ける悪魔の目的はどこにありますか。(ロ)わたしたちは死のわなに掛からないようにすると同時に,わなから逃れることを望む誠実な人々に対してどんな責任を感ずるべきですか。

24 この世は,自分自身の腐敗の泥沼にいよいよ深く沈み,やがて滅びてしまいますが,クリスチャンはこの世の精神によって誘惑されたり,陥れられたりしないようにすることの重要さを知っています。この世の流行や娯楽は,全人類の心を捕えて「悪魔のわな」に掛けるためのえさであることを認めています。(テモテ第二 2:25,26。詩 140:4,5)悪魔はすでに人類の大多数をわなに掛けましたが,彼の手中から逃れようとする誠実な人々を一人も逃すまいとすると同時に,神のしもべたちをも自分のわなにおびき寄せることを望んでいます。ごく近いうちに悪魔自身が鎖で縛られて底知れぬ深みに入れられるでしょう。しかし,それまでの残された短い期間,エホバのことばの真理を絶えず道の前方に輝かせ,エホバのみ前における歩みかたに注意するなら,わたしたちは悪魔の死のわなから逃れていることができます。(啓示 20:1-3。詩 119:105)そして,わたしたちの特権は,人を自由にする真理を宣明することにより,また自分か快楽を愛するだけの者ではなくて本当に神を愛する者であることを示すことにより,自由になろうとしている人々を助けることです。―テモテ第二 3:4,5。ヨハネ 8:32。

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