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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
塔57 12/15 463–466ページ

イエスは何と言うでしようか

クリスマスは,イエスの誕生祝いであると言われます。従つて,クリスマスを判断するには,キリストに優る者はいません。もし,キリストがこの地上に居られるとしたら,キリスト教国で行われる最大の祭日について,何と言われるでしようか。

キリスト教国の大都市で,花やかに飾りつけられて灯の明るい通りを,イエスが歩んでいると想像して下さい。時はクリスマスです。町のクリスマス・ツリーは燦然と輝き,サンタ・クロースは何処にでもいるように見えます。買物客も同じく,最後の買物をしようと群をなして百貨店につめかけています。拡声器からは,やかましい広告と入り交つてクリスマスの歌がうるさく流れてきます。金銭登録器も商人を喜ばす歌で騒音をまし加えます。『クリスマスおめでとう』が盛んに交わされます。クリスマス気分は最高潮に達しました。この騒ぎの中で,イエスは一人の人に,この大騒ぎは何の意味かと尋ねます。『ああ』とその人は答えて,『クリスマスですよ。一年中で最大の誕生祝いです。』イエスは尋ねます,『しかし,誰の誕生日ですか。』

誰の誕生日? これは変つた質問ですか。そうではありません。キリスト教国に初めて来た人は,本当に訝かるでしよう。つまり,盛んな贈物のやりとりは,誰のために祝いが行われているのかを明らかにしていますか。何百万ドルに上る広告は,誰の誕生祝なのかを告げていますか。店の飾り窓にあるぜいたくな品物や,飾りつけたクリスマス・ツリーや,通りに下げられた色電球は,誰の誕生日なのかを告げていますか。何百万の家庭で大きな中心人物となつて居り,他の誰よりもこの祝いを象徴しているサンタ・クロースも,これが誰の誕生日なのかをこの見知らぬ人に教えることが出来ません。

それで,イエスが『誰の誕生日ですか』と尋ねたのも不思議ではありません。『ああ,12月25日,それはキリストの誕生日です』という答です。さて,イエスは何と言うでしようか。この祝いは神の子に誉を与えないだけでなく,日付が全く間違いなのです。イエスは聖書の記録を示して,彼が生まれたのは12月でない事を説明するでしよう。どのように? 聖書はイエスの誕生がキリスト前2年の10月1日か或はその頃であること,イエスは西暦29年にメシヤとして来られ,3年半の後,西暦33年4月1日頃に殺されたことを示しているからです。ダニエル書 9章24-27節の『七十過』の予言,ルカ伝 3章1,23節その他の聖句は,これを証明しています。

しかし,イエスはそれ以上のことを指摘できるでしよう。というのは,パレスチナで10月の気候と12月の気候とは著しい相違があります。イエスが生まれたとき,羊飼いが野にいたと聖書は示しています。『さて,この地方で羊飼たちが夜,野宿しながら羊の群れの番をしていた。「あなたがたは,幼な子が布にくるまつて飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが,あなたがたに与えられるしるしである」。』(ルカ 2:8,12,新口)羊飼が12月に羊の群れを外に出すことはありませんでしたが,10月には外に出したのです。12月の日付は全くの間違いです。

偽りの話にそれる

さて,キリスト教国の宗教が人々を欺いて,イエスの誕生は12月25日であると信じ込ませようとしている事について,イエスは何と言うでしようか。イエスは彼の使徒の一人がなした予言を指摘するでしよう。『人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして,真理からは耳をそむけて,作り話の方にそれていく時が来るであろう。』― テモテ後 4:3,4,新口。

『作り話の方にそれていく』それはなぜですか。『自分勝手な好みにまかせて』これは何とあてはまつた聖句でしよう! 多くの人は,イエスが12月25日に生まれなかつた事を知つています。しかし,それにも拘らず『自分勝手な好みにまかせて』この祭日を持つことを選んでいるのです。偽りであるにも拘らず,彼らは偽りのままを望んでいます。それだけに留らず,この祭日が商業化してさえいるのに,彼らはそのことを望んでいます。この理由で,1953年1月1日付「ワシントン・ポスト」紙の社説は次のように述べていました。

『アメリカのクリスマスは多くの外国人に驚きを与えるほど商業化して居り,感傷的な物質主義の国家的ばか騒ぎと化している程である。しかし,次の事実は依然として残つている。すなわち,このようなクリスマスを望んでいるのは,製造業者や広告主だけでなくて大部分のアメリカ人なのである。』

イスラエル人は,偽りの話から得られる利己的な益のために宗教的偽りと憎むべき事を許容しました。クリスマスを祝う人々も彼らと同じく,キリストの誕生祝いという偽りを許している上に,それを選んでいるのです。それで,イエスはヱホバの言葉をよく指摘するでしよう。『この地に驚くべき事と憎むべきこと行わる。予言者は偽りの予言をなし祭司は彼らの手によりて治め我民は斯る事を愛す。』― エレミヤ 5:30,31。

12月25日については,イエスは更に多くを言うでしよう。すなわち,それは深い異教の意義を持つているのです。歴史はこの事をはつきりと証明しています。異教徒は12月25日にペルシャの神ミスラスの誕生日を祝いました。また,12月25日あるいはその頃に,異教のもう一つの大きな祭りが行われました。これはサターンの祭りで,農耕の神サターンを崇めるために行われたものです。この祝いの時,人々は歌いながら通りを行進しました。火をともしたろうそくが窓に置かれ,贈物が交換され,誰でも御馳走を食べたり友人を訪問したりしました。これら異教の風習が12月25日を祭日にした本当の基礎であることは,歴史家の認めているところです。

誕生日を祝うことは命ぜられていない

その間違いの日付や異教の背景にも拘らず,クリスマスを正当化しようと努めている自称クリスチャンに向つて,イエスは何と言うでしようか。イエスは言うでしよう。彼は決してそれを命じなかつたし,使徒や初期の弟子は決してイエスの誕生日を祝わなかつた,そして,予言された背教の後に初めて自称クリススチャンはクリスマスの祝いを始めたと。キリストの使徒はこの背教を予言して,それが『曲つたこと』をひき起すと述べました。『わたしが去つた後,狂暴なおおかみが,あなたがたの中にはいり込んできて,容赦なく群れを荒すようになることを,わたしは知つている。また,あなたがた自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて……者らが起るであろう。』(使行 20:29,30,新口)クリスマスを祝うことが,自称クリスチャンの間で行われ始めたのは4世紀になつてからです。その時までに背教は起つて居り,異教の祭日にはクリスチャンの名が冠せられてローマ・カトリック教会はこの祭日に祝福を与えました。―すべてこれは,名前だけのキリスト教信奉者の数を増すためです。

イエスはこう言われました,『わたしを記念するため,このように行いなさい。』これは誕生日の祝いの事ではありません。この言葉は,人類にとつてイエスの誕生よりも遙かに重大な出来事であるイエスの死の記念に関するものです。このように,誕生日ではなくてその死を記念するように弟子たちに命じたイエスは,聖書の原則に従つたのです。『事の終はその始よりも善し。』それで聖書に出ている誕生日は,すべて異教徒の祝つたものです。創世記 40章20節に述べられているパロの誕生日およびマタイ伝 14章6-10節にあるヘロデの誕生日は,何れも生命を奪う処刑によつて暗いものになつています。クリスチャンはどの祭日を祝うことも命ぜられていません。『しかし,今では神を知つているのに,否,むしろ神に知られているのに,どうして,あの無力で貧弱な,もろもろの霊力に逆もどりして,またもや,新たにその奴隷になろうとするのか。あなたがたは,日や月や季節や年などを守つている。わたしは,あなたがたのために努力してきたことが,あるいは,むだになつたのではないかと,あなたがたのことが心配でならない。』― ルカ 22:19。伝道之書 7:8。ガラテヤ 4:9-11,新口。

また,クリスマス・カードや飾りつけの中には,『三人の』賢人が目立つていますが,イエスはこれについて何と言われるでしようか。イエスは,なぜ彼らを崇めるのかと尋ねるでしよう。賢人たちは星占いで悪鬼崇拝者だからです。神の律法は星占いをはつきりと罪に定めています。(申命 4:19。列王紀略下 17:16。イザヤ 47:13,14)この星占いたちの旅行には,大勢の男の子を殺すことが関連していますから,神が彼らをイエスの許に導いたということは道理に合いません。神でないとすれば,誰が導きましたか。それはサタン悪魔に違いありません。空にある自然の光は星占いを導く筈がないからです。ヘロデの手によつてイエスを殺そうと企てたサタンは,『星』を用いて星占いたちを導いたのです。

キリストは王であり赤子ではない

イエスを何時までも赤子として画くことに対して,イエスは何と言われるでしようか。彼はもはや赤子ではない,イエスが赤子であると人々に思わせるのは何故かと,イエスは問うでしよう。イエスをただ赤子であると考えるのは危険なことです。それは,イエスが御父から王の力を与えられたこと,なおかつ,彼はいま支配して居られ,『義によつて戦う』ときに,間もなく鉄の杖をもつて諸国民を打ち砕くという大切な事実から人の注意をそらしてしまうものです。世を打ち砕く王,事実,『王の王,主の主』である方を赤子と考えるべきでしようか。このように赤子のイエスに人々の注意を集中させることは欺きであり,欺きの張本人サタン悪魔のなす仕業です。―黙示 19:11-16,新口。

また,イエスは,クリスマスを祝う人々自身について何と言われるでしようか。彼らの行いはキリストをあがめていますか。『神よりも快楽を愛する者』が出るという『終りの日』の予言を引用して,イエスはずばりと答えることができます。クリスマスの時期は,これらのものを有り余るほどに生み出します。そればかりでなく,クリスマスの時期に人々は古代の異教徒と同じく,暴飲,暴食と不道徳という汚れに落ち込みます。クリスチャンに対するキリストの命令は,片時といえども古い世のならわしに後戻りすることを許しません。かりにもキリストを崇める筈の時においては,なおさらのことです。『過ぎ去つた時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけつてきたが,もうそれで十分であろう。』― テモテ後 3:1-4。ペテロ前 4:3,新口。

ひいらぎの枝,やどり木の枝などを用いること,クリスマス前夜に炉にたく大薪,クリスマス・ツリーなど,クリスマスの習慣についてイエスは何と言われるでしようか。イエスは百科辞典が述べている如くに,事実そのままを述べるでしよう。すなわち,このような習慣はクリスチャンの行いではなくて,異教の起源を持つものです。

贈物をすることについては,イエスは何と言われますか。もちろん,イエスは与えることが悪いとは言わないでしよう。イエスは与える事を勧めて,それは幸福の源であると言われました。しかし,クリスマスの時に行われる贈物の交換は,イエスの是認を受けないでしよう。その与えることは異教のサターンの祭りに行われた贈物の交換にならつたものだからです。それに,大抵のクリスマスの贈物はお返しを当てにして交換されますが,キリストはお返しのできない人々に与えよ,と言われました。また,ある人々の考えとは違つて,聖書は贈物の交換という手本を残していません。誰がイエスの許に贈物を携えてきましたか。それは外ならぬ悪鬼崇拝者の星占いたちでした! たしかに,クリスチャンは彼らに倣うべきではありません。また,クリスチャンは異教の祭日を俟つまでもなく,1年の365日にあわれみ深く親切を示すべきです。

更に,イエスはクリスマスを祝う無数の人々について何と言われるでしようか。その人々の大騒ぎは,彼らの無智,世界の希望であるとキリストが伝道した御国について彼らは知識に欠けていることを,さらけ出しているのです。人々は生命への道を学ぶことができないほど忙しすぎるのに,クリスマスはそれだけ余計に人々を忙しくさせていると,イエスは言われるでしよう。それで,イエスはルカ伝 17章26,27節(新口)で言われたことを,そのまま言われるでしょう。『そして,ノアの時にあつたように,人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで,人々は食い,飲み,めとり,とつぎなどしていたが,そこへ洪水が襲つてきて,彼らをことごとく滅ぼした。』これらの事を行うのが悪いのではありません。問題は,人々がこれらの事に没頭するの余り,そして特にクリスマスの時には食べたり,飲んだり,買つたりに忙し過ぎるため,彼らの生活の中には,御子を通しての神の御目的を学ぶ余裕が全くないという事なのです。それで,近づいているハルマゲドンの戦いと来りつつある新しい世についての無智は,いまだに広く見られます。

故に,キリストはクリスマスについて何と言われるでしようか。クリスマスとは宗教的な欺き,商業の仕掛けるわな,異教の祭日であり,キリストの名誉を汚してキリスト教を堕落させるものである,という事です。キリストは決してクリスマスを是認せず,それが,真のクリスチャンの行であるとは決して認めません。それで,クリスマスを祝う者はキリストに是認されない事になります。そうであるなら,どうしてクリスマスを祝いますか。商業の仕掛けるこの巨大なわなから,なぜ自由にならないのですか。他の自称クリスチャンたちがするからと言つて,私たちが祝う必要は全くありません! まつたくのところ,無数にいる自称クリスチャンの一人になる必要はありません。彼らがキリストの名によつて,業を為したことを抗議しても,王は彼らを認めることを拒絶するでしよう。

『その日には,多くの者が,わたしにむかつて「主よ,主よ,わたしたちはあなたの名によつて悪霊を追い出し,あなたの名によつて多くの力あるわざを行つたではありませんか」と言うであろう。そのとき,わたしは彼らにはつきり,こう言おう,「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ,行つてしまえ。」』故にキリストから離れ去ることのないように,いまクリスマスから離れ去りなさい。―マタイ 7:22,23,新口。

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