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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1976
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聖書中の幾つかのエルサレムを見分ける

エルサレムが幾つもあるのですか。そうです,聖書は様々なエルサレムについて語っています。この都市の名が,ヨシュアの時代から使徒ヨハネの晩年に至るまで,聖書中に800回以上も現われることからすれば,それは少しも不思議ではありません。ですから,「エルサレム」(ヨシュア 10:1),「上なるエルサレム」(ガラテア 4:26),「天のエルサレム」(ヘブライ 12:22),そして「新しいエルサレム」(啓示 21:2)などについて書かれているのです。

しかし多くの場合,聖書に出てくるエルサレムは,形容詞句だけでは見分けがつきません。どのエルサレムを指しているかを知るには,文脈や聖書の他の箇所を調べることが必要になるでしょう。この都市は,アブラハムの時代に,「平和」を意味する「サレム」という名で知られていました。後日付けられた「エルサレム」という名には,「二重の平和の所有(あるいは基礎)」,もしくは単に「平和の町」という意味がありました。エルサレムは普通イスラエル人の町と考えられてはいますが,ヨシュアの時代にはエブス人が住んでいました。イスラエル人は,ヨシュアの指揮の下に同市を占領した際,それらの異教徒を完全に追い出せませんでした。(ヨシュア 15:63)こうした事態はダビデが王になるまで続いたと思われます。―サムエル後 5:4-10。

その初期の時代,エルサレムはそれほど大きな都市ではなく,面積が194ヘクタールほどあったにすぎません。同市は古来,地中海から約56㌔ほど内陸に入り,死海の北端から真西へ24㌔ほど行った地点,ユダヤの荒野の外れに位置する町でした。そして,12部族から成るイスラエル王国の首都にふさわしく,同国の中央部に位置していました。モリア山,シオン山,そして西部丘陵などの丘が町の大半を占めています。さらに,キデロンの谷,ヒンノムの谷,そしてテュロペオンの谷など,この町と関係のある谷もあります。周囲の地勢が起伏に富んでいるため,遠くから見るとエルサレムはそれほど高い所にあるようには思えませんが,同市は標高760㍍の地点にあり,今だに世界で最も高い地点にある首都の一つです。

エルサレムが際立った町であった理由は,その地理的な位置とほとんど関係がありません。同市が重要で有名な町となったのは,エホバがご自分のみ名を置く所としてその町を選ばれたからです。(申命 26:2。列王上 11:36。歴代下 7:12)ダビデ王が同市に契約の箱を携え入れた時にはあたかも,エホバ神がそこに居を構えられたかのようでした。そして,ソロモン王がモリア山上の壮大な神殿をエホバにささげた時,同市はいよいよもって神の「高い住みか」と呼べるようになりました。―列王上 8:13,新。

古代のエルサレムは,適切にも,エホバの『休み所』,神の『住みたもう』所と呼ばれています。(詩 132:14; 135:21)同市はまた,『聖き町』,『大いなる王のみやこ』,『正義の町 忠信の町』,「シオン」,「エホバの都」,『エホバのみ位』などと呼ばれています。―ネヘミヤ 11:1。詩 48:2。イザヤ 1:26; 33:20; 60:14。エレミヤ 3:17。

神の国民と「女」を象徴

創世記からエステル書までの聖書の歴史書の中で,「エルサレム」という名は常に前述の文字通りの都市を指して用いられています。また,マタイによる書から使徒たちの活動までのクリスチャン・ギリシャ語聖書の歴史書についても,それと同じことが言えます。ヘブライ語聖書中の詩的および預言的な書,そしてクリスチャン・ギリシャ語聖書中の残余の部分で,「エルサレム」という語はしばしば象徴的な意味で用いられています。

エルサレムはイスラエルの首都でしたから,同市がイスラエル国民そのものを表わすために用いられる場合があるのはごく当然です。ですから,エホバはイザヤ 52章1節,2節,そして9節で,エルサレムをバビロンでの捕らわれから連れ戻すと述べておられます。それは文字通りの都市,あるいは単に同市の住民だけを表わしているのではなく,バビロンに捕らわれて行ったユダヤ国民の残りの者を表わしていました。使徒パウロは同じような点に言及し,ガラテア 4章25節でこう述べています。「そこで,このハガルは,アラビアにある山シナイを表わし,今日のエルサレムに当たります。彼女は自分の子どもたちとともに奴隷身分にあるからです」。

文字通りのエルサレムは神の国民であるイスラエルを表わし,その国民はエホバと契約関係にあったので,神は象徴的に同市をご自分の妻,ご自分を同市の夫と呼ばれました。「わたしは[エルサレム,新]のために黙せず……あなたはもはや『捨てられた者』と言われず……あなたは『わが喜びは彼女にある』ととなえられ(る)。……花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる」。(イザヤ 62:1-5,口)『なんじを造りたまえる者はなんじの夫なり その名は万軍のエホバ(なり)』。(イザヤ 54:5)もちろんこうした預言には,対型的な成就もあります。

神に対して不忠実であったにもかかわらず,同市の住民が自らを神の民であると唱えたことから,そうした背教期間中のエルサレムはキリスト教世界を見事に予表していたと言えます。同世界も神の民であると唱え,神のみ子の名をさえ冠しているにもかかわらず,神に対して不忠実になり,名前だけのクリスチャンと化しています。ですから,古代エルサレムに対するエホバの怒りについて述べ,神の裁きの執行について警告している預言は,さらにキリスト教世界にも当てはまると結論付けるのはふさわしいことです。その一つの例は,エゼキエル 9章4節(口)に見られます。「町の中,エルサレムの中をめぐり,その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。a エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら逃れるようクリスチャンに警告を与えたイエスの預言もやはり,文字通りのエルサレムに直接当てはまり,ひいては今日のキリスト教世界にも当てはまるのです。―ルカ 21:20-22。

「上なるエルサレム」

エルサレムによって代表される,忠実であったときのイスラエル国民は,王イエス・キリストの栄光に輝く14万4,000人の追随者からなるエホバの霊的イスラエルの予表,すなわち象徴でした。(ダニエル 7:13,14,27)彼らの霊的な「母」は,奴隷女ハガルの女主人,すなわちアブラハムの本妻で,イサクの母であるサラによって予表されていました。この点は,ガラテア 4章26節で,キリストの追随者にあてられた言葉によって実証されます。「上なるエルサレム[対型的なサラ]は自由であって,それがわたしたちの母です」。これこそ,今日人々が流れのように集まって来ている天のエルサレムです。―ミカ 4:1。

国々の民は地上におり,「上なるエルサレム」は天にあるのに,どうしてそのようなことが言えるのか,とお尋ねになるかもしれません。それは,キリストの足跡に従う油そそがれた追随者たちの「残りの者」が,地上でこの「上なるエルサレム」(「自由な」女サラの対型)を代表しているからです。ですから,イザヤなどの預言および啓示の書の中で,神の女であるこの天のエルサレムに起こるとして述べられている事柄は,実際にはまだ地上に残っているその「子たち」の身の上に起きるのです。

その良い例は啓示 12章に見られます。その中で神の「女」,つまりその天の組織は名前をもって呼ばれてはいませんが,神のメシア王国である一人の男の子を産むことが示されています。それから,女は荒野に行って,千二百六十日間,「へびの顔から離れ」て養われました。その後もサタンはこの女を迫害し,自分の口から吐き出した川のような水で,彼女をおぼれさせようとしました。もちろんこうした事柄が神の「女」,すなわち天にある宇宙的な組織に起こるはずがありません。しかし,聖書預言の成就は,こうした事柄すべてが彼女の「胤」,地上にいる子供たちの身の上に起きたことを示しています。この点を実証するものとして次のように書かれています。「龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守(る)……者たちと戦うために出て行った」。(啓示 12:1-17)同様に,イザヤや他の預言者たちの預言も,当時の地上の「エルサレム」,二部族のユダ王国の上にまず成就しましたが,神の天の「女」の上に大規模な成就を見ます。その天の「女」は,自らの霊的な子たちである,キリストの油そそがれた追随者によって代表されているのです。

「新しいエルサレム」

聖書に現われる別のエルサレムは,「新しいエルサレム」です。啓示の書の中で言及されているエルサレムは,新しいエルサレムだけです。(啓示 3:12; 21:2,10)新しいエルサレムは,神のみ子イエス・キリストの「妻」です。それは,聖なる霊の被造物からなる天の宇宙的な組織がエホバ神の妻,あるいは「女」であると言うのと同様に組織的な意味においてです。それゆえに,使徒パウロはこう書くことができました。「あなたがた[霊によって生み出された,キリストの弟子たち]を貞潔な処女としてキリストに差し出すため,わたし自身があなたがたをただひとりの夫に婚約させた(の)です」。(コリント第二 11:2)この比喩的表現と呼応して,使徒ヨハネは次のように述べています。「また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た」。(啓示 21:2,10)この新しいエルサレムの正体を見分けるのに役立つ別の事柄は,そこにイスラエルの12部族の名が書き込まれた12の門があるという事実です。とはいっても,それは古代イスラエルの部族ではなく,啓示 7章4節から8節に述べられている霊的イスラエルの12部族を指しています。この点をはっきりさせているのは,この新しいエルサレムに12の土台石があり,その上に12使徒の名が書き込まれているという事実です。―啓示 21:12-14。

聖書の中では,字義通りのシオンの山が地上のエルサレムとたびたび結び付けられていますが,霊的なエルサレムについても同じことが言えます。時としてそれは,都市や組織を指すのではなく,ある場所を指している場合があるようです。ヨハネはこう書いています。「またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた」。言い換えるならば,14万4,000人の霊的イスラエル人から成る新しいエルサレムが,シオンの山に花婿とともに立っている場面が描かれているのです。―啓示 14:1。

この点と関係があるのは,クリスチャンになったユダヤ人に対して述べられたヘブライ 12章22節と23節の次の言葉です。「あなたがたは,シオンの山,生ける神の都市なる天のエルサレム,幾百万ものみ使いたち,すなわちその全体集会,天に登録されている初子たちの会衆,すべてのものの裁き主なる神,完全にされた義人たちの霊的な命(に近づいたのです)」。

この聖句をどのように理解したらよいでしょうか。次のように理解できます。「幾万ものみ使いたち」を伴った,「生ける神の都市」,そして「天のエルサレム」は,対型的なサラであるエホバの宇宙組織,すなわち「上なるエルサレム」を指していると思われます。キリストの花嫁である14万4,000人の成員は,「天に登録されている初子たちの会衆」によって表わされています。彼らも,「生ける神の都市」の住民の一部です。同様に,「完全にされた義人たちの霊的な命」という言葉も,14万4,000人を指す別の言い回しです。その中には,義と宣せられ,霊的円熟に達した,まだ地上にいる残りの者たちも含まれています。

ルカ 21章24節には次のように書かれています。「エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。この預言はイスラエル共和国の首都であるエルサレムの上に成就するのではありません。この聖句を理解するための手懸かりとなるのは,エゼキエル 21章27節の聖句です。そこでエホバ神は,ユダヤの最後の王が倒されることを予告し,さらにこう語っておられます。『権威を持つべき者の来る時までこれはあることなし 彼に我これをあたう』。この預言の言葉からすれば,異邦人つまり諸国民の定められた時が満ちるまで,足の下に踏みにじられるのは,単なる地上のエルサレムでないことは明らかです。むしろそれは,エホバがダビデと結ばれた契約に従って,ダビデの王統の上におかれたメシアの王位に対する権利を表わしています。その契約は,ダビデの王朝が永遠に続くことをダビデ王に保証するものでした。実際のところ,それゆえにこそ,イエスはダビデの直系から生まれなければならなかったのです。メシアの王位に対するこの権利は,地上のエルサレムが倒され,その王ゼデキヤが取り除かれた,西暦前607年以来踏みにじられるようになりました。諸国民はいつまで,こうして踏みにじることを続けましたか。それは,権利を持つべき者,イエス・キリストが来る時までです。啓示 11章15節から12章10節までの言葉のような預言の成就は,キリストが1914年に,天でその権利を執行し始めたことを示しています。その時エホバ神は,敵のただ中にあって征服をしに出掛けて行くようイエスにお命じになりました。―詩 2:7,8; 110:1,2。

以上の事柄は確かに啓発を与えるものです。エルサレムという言葉は文字通りの都市そのものの名前であり,時としてイスラエル国民,あるいは二部族から成るユダ王国を表わしていることが分かります。それはまた,古代のエルサレムが不忠実になったのと同じように不忠実なキリスト教世界をも表わしていました。さらに,その都市の名は,エホバの宇宙的な組織に当てはまり,時には新しいエルサレムとして,キリストの「花嫁」を表わします。そしてまた,「エルサレム」は,メシアの王権を表わすこともあります。

これまでの論議は単に興味深いというだけではなく,わたしたちにとって非常に重要なものです。エホバ神は,西暦前537年に故郷に戻ったユダヤ人に当てはまる,エルサレムの復興に関する預言を,より偉大で,より壮大な仕方で成就させました。それは,今日「天のエルサレム」を代表する人々,つまりキリストの体のまだ地上にいる残りの者たちの復興をもって成就しました。それら残りの者たちは,自分たちの仲間である,「ほかの羊」の「大群衆」と共に,今日霊的パラダイスを享受しています。神に神聖な奉仕をささげる際に,『上にあるエルサレム』を代表する「残りの者」と交わり,協力することは,創造者エホバ神を誠実に崇拝する人々すべてにとって特権であり,責務でもあります。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9,15。

[脚注]

a この預言は,「腰に物を書く墨つぼをつけている者」によって予表されていた,エホバの油そそがれたしもべたちが,キリスト教世界に見られる邪悪な事柄のゆえに嘆いている人々に,『しるしをつける』業を率先して行なうことによって成就します。そうしたしるしをつける業は,人々がキリストのような人格を身に着けるよう助けることによって成し遂げられます。

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