あなたがたの足のため,まっすぐな道を作り続けなさい
1 1914年以来のこの時代はなんと呼ばれていますか。
人類史上未曽有の大変化が始まったのは,1914年です。現存する事物の体制の終わりの始まりをしるしづける聖書預言を別にしても,この年に始まった注目すべき時代は史上比類のないもので,これが「暴力の時代」と呼ばれているのも,もっともなことです。
2 昔の世代と比べるとき,1914年以来それぞれの世代の人々にはどんな相違が見られますか。
2 昔の習慣は幾世代を経てもほとんど変化しなかったので,何百年もしくは何千年にもわたり子はその親とほぼ同じような生活をしました。しかしいわゆる宗教改革の時代に至って,一世代ごとに人は進歩を求め,すでに成し遂げられた以上のことを行なおうとし,以来1914年まで目ざましい発展を遂げました。ところが1914年以来,すべては逆行しはじめ,そのあまりの激しさに一新聞の論説員はこう言わざるを得ませんでした。「歴史上,最後の真に『正常な』年は第一次世界大戦勃発前の1913年であった」。科学が長足の進歩を遂げなかったという意味ではありません。国際関係はもとより人間個人の社会的な関係にみられる進歩発展が1914年に爆発的な破綻を見,最悪の世界戦争が引き起こされ,以来,事態は退廃の一途をたどり,今日広く見られる無政府状態に近い段階に達しているのです。
3 (イ)パウロは現代どんな状態の生ずることを予告し,またどんな勧めのことばをつけ加えましたか。(ロ)こうした状態に関してどんな異なった見方がありますか。
3 この「暴力の時代」と広範囲に及ぶ道徳の頽廃とを予告した著しい預言はテモテにあてたパウロの手紙に収められています。次のとおりです。「しかし,このことを知っておきなさい。終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来るであろう。人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,高慢な者,不敬な者,親に従わない者,感謝しない者,不忠実な者,自然の情愛をもたない者,容易にうけがわない者,そしる者,自制しない者,荒々しい者,善良さを愛さない者,裏切る者,強情な者,誇りのために高ぶる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬虔の形をとりながら,その実をもたない者となるからである」。そしてパウロは,「これらの者から離れなさい」とつけくわえました。(テモテ後 3:1-5,新)この暴力の時代の今,そうした関係を「離れ」ることを願い,安全と平安を見いだす多くの人がいます。しかし物事の標準がそれほど低下したとは思わない人々もいます。そして,そうした事柄以外のものを知らないため,みんながしているのだからという理由で,現状を「正常な」あたりまえのものと考えています。他方,現代の生活につきまとう不安とむなしさに直面してあとずさりし,世界中ではやっている若者のあいだのさまざまな流行や,各種の麻薬に逃げ道を求めるものもいます。おとなさえ現状に対する不満を表わして「抗議」運動に参加し,そのためにしばしば暴動や略奪そして市民や警官との撃ち合いが引き起こされています。
源を知る
4 (イ)現状が今の時代を対処しにくいものにしているのはなぜですか。(ロ)今日のダンスなどの流行に従うとき,人はどのようにそうしたものにとらわれますか。
4 パウロはこの時代を評して「対処しにくい危機」の時代と呼びました。しかし今が「終わりの日」であることを知っているわたしたちにとってもむずかしい時代となっているのはなぜですか。一つの理由は,急速に展開してゆく現情が,「この事物の体制の神」によって巧妙に作り出されており,それ自体は昔の危機の時代となんら変わらない自然の成り行きのように装われている点にあります。その結果,不注意な人は,従来の慣行の徹底的な変化や道徳水準の低下や崩壊を重大な問題,警戒すべき事態とは少しも考えません。たとえば“ツイスト”その他の流行がはじまった時,若者は一も二もなくそれを受け入れました。親たちはしばしのあいだ驚いたり,また大目に見て笑っていましたが,やがて自らの若さを誇示しようとして若者に劣らぬほどそうした流行に熱中するようになりました。しかし彼らは,こうしたダンスが,むかし不道徳をこととする宗教儀式の一部として行なわれた多産を祈る異教の踊りに由来することを見落としています。それが宗教的な乱行に携わる者の性欲をあおるためのものであったと同様,そうした現代のダンスも道徳上の抑制力をゆるめる働きをするのです。婚前交渉を認める現代の道徳観に賛成する者はこうしたダンスに異議を唱えません。しかしそうした考えを持たず,それが単に普通に行なわれているからとの理由で,それにふける人はどうなりますか。そうした人は自らを欺いてはなりません。やはり感情の面で悪影響を受けるのです。この種の興奮はまちがった傾向を助長し,そして誤った欲望をもてあそぶ者は,昔のイスラエル人の時代にペオルのバアルの崇拝にふけった2万4000人の者と同様,突如として災いに巻き込まれるでしょう。―民数 25:1-9。
5 ある人は誤った行為をどのように正当化しようとしますか。しかしそうした行為はどうしてキリストの律法をあなどるものですか。そこにはどんな危険がつきまとっていますか。
5 自由な婚前交渉や場合によっては姦淫さえ許す道徳観がますます多くの人に受け入れられているため,聖書の原則を守っていると単に主張するだけの人の道徳観念は弱められています。そうした人は淫行そのものさえ慎めば,その他のことは何でも許されると考え,こうした誤った理屈に従って,きわどいペッティングにふけります。これは,クリスチャンをもって自任する人すべてに清さと神聖さとを要求するキリストの律法をあなどる行為です。パウロに述べました。「されば愛する者よ,われらかかる約束を得たれば,肉と霊とのけがれより全く己をきよめ,神をおそれてそのきよきを成就すべし」。(コリント後 7:1)悪い欲望をいだき自らを満足させることに腐心している人は,山上の垂訓中の次の戒めにどうして従えるでしょうか。「あなたがたは,『姦淫をしてはならない』ということを聞いたことがある。しかしわたしはあなたがたに言う,だれでも女を見続け,その女に欲情をいだく者は,すでに心のうちでその女と姦淫をしたのである」。(マタイ 5:27,28,新)こうした行為は正しい原則を破るにとどまらず,死に通ずる違反への門戸を大きく開くものです。強い欲望のあるところには,悪行を求める性向だけでなく,そのための機会もあるのです。妥協の道にしばしば,あるいは長い期間とどまる人はついには欲望に屈してしまいます。これは証明ずみの事柄です。「人は火をふところに抱きてその衣をやかれざらんや」と箴言は述べています。―箴言 6:27。
6 現代の社会の風習や慣行を取り入れることは,他のどんな有害なものと同様,人に悪影響をもたらしますか。なぜですか。
6 ゆえに,「キリスト・イエスにあって敬虔をもって生活しようとする」人は,今日の社会の風習や慣行を自分個人の欲望あるいは好みに従ってではなく,わたしたちのために啓示された神のみことばの光に照らして吟味し,評価しなければなりません。(テモテ後 3:12,新)わたしたちがのがれ出ることを勧められている偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンが人を汚すことは明らかですが,ここで考えている事柄は,「新しい人格」を築く点でそれに劣らずきわめて有害です。どんな形であれ,偽りの崇拝と関係すれば,その大いなる帝国にまもなくもたらされる崩壊の理由と同じ罪に問われることをわたしたちはよく知っています。(黙示 18:4)しかし,今の世の風習や慣行に従って自分の考えを変え,ついにはこの世の生き方に心を向けるなら滅びに定められた現存する事物の体制の一部となり,運命をともにすることになるのです。このことに気づいていない人がいるかもしれません。宗教上の伝統や,カイザルの要求する事柄などは昔からのものですが,生活の仕方,風習,服装の流行,生活態度などはすべてその時々の世代に属する事柄です。そして昔は,こうした事柄は人々の信仰生活と結びつき,またその影響を大きく受けていました。今日,世界は急速に無神論の文明の風扉するところと化しています。そして世の風習や生活の仕方は同じようにこの世的な考えの影響を受けています。したがってこの事物の体制下の人々の生活の仕方を受け入れるのは,この世的な考えを受け入れることになります。こうして世の罪にあずかるなら,その報いを免れることができません。
個人の好みと分別
7 (イ)服装のスタイルの問題では,どんな自由,また,どんな制限のあることを認めるべきですか。(ロ)このような平衡のとれた見方を失えば,どんな結果が生じますか。
7 今日,服装のスタイルなどは個人の好みで決める事柄であり,好みや風習は世界中でみな異なっています。しかし献身したクリスチャンにとっては,個人の好みが問題の是非を判断する唯一の基準であってはなりません。この事における選択が,自分の宣教や会衆内外の人々および自分自身の考えや物の見方にどう影響するかをも考慮しなければなりません。スコットランド人にとって“ミニスカート”は少しも目新しいものではありませんが,今日,女性のあいだに見られるその流行は多くの人のまゆをひそめさせるものであり,また,今やそれは英国の若い男子のあいだの流行として人々の目を見はらせる新奇な風物となっています。中世の若者や一部のおとなの男子は肩に届くほどの長い髪をしていました。しかし今日ちまたに見られる,頭髪を伸びほうだいにした若者たちは,一種独特の人物として人々の目に映ります。そうした人物を見る一般の人は,その容ぼうを単なる個人の好みに類するものとして見過ごすわけではありません。そうした若者は,ある特殊な考えをいだく青年,世間一般とは合わない物の見方を持つ人間と見なされるのです。さてクリスチャンの若い男子が,ミニスカートに魅力を感ずるクリスチャンの娘の場合のように,若者の長髪を好ましく思うことがあるかもしれません。しかしもし宣教に及ぶ影響を考えずに個人の好みをほしいままにするなら,奉仕に関する多くの特権を疑いなく失うでしょう。ある会衆はついに講演者の名簿からひとりの若い奉仕者の名前を取り消すことにしました。それは近くの町の別の会衆の公開集会で話をする割当てをその奉仕者に与えるたびに,この青年の異様に長い頭髪のことで苦情が返ってきたからです。その青年は再三助言を受けたにもかかわらず,考え方を改めませんでした。
8 (イ)服装に関するある種の制限はどうして個人の自由の侵害ではありませんか。(ロ)服装に関してエホバはどんな見方をしておられますか。
8 ある人々,特に若い人はこれを個人の自由に対する不当な侵害と思うかもしれません。しかしパウロは,「もし食物わが兄弟をつまずかせんには,兄弟をつまずかせぬために,我はいつまでも肉を食はじ」と言いました。(コリント前 8:13)彼はどんな論議に基づいてこうした結論を出したのですか。こう語っています。「わたしたちを神に推賞するのは食物ではない。たとえ食べなくても,何かに欠けるわけではなく,たとえ食べても,自分に誉れとなるわけではない。しかしあなたがたはこの権威が,弱い人々のつまずきとならないように見守り続けなさい。なぜなら,知識を持っているあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見た場合,その弱い人は良心を建てられ,偶像にささげられた食物をたべるようにならないであろうか」。(8-10節,新)食物の場合がそうであれば,服装の流行も同じことです。髪の毛や衣服の長短それ自体は救いの点でエホバにとってなんら重要な事柄ではありません。エホバはそのいずれをも色々の時代に認めてこられたからです。しかしそれが人をつまずかせ,命の道から落後させる原因となる風習や慣行であれば,これは確かに重大な問題です。この点をパウロはこう述べています。「実にその弱い人は,あなたの知識によってそこなわれているのである。キリストはその兄弟たちのためにも死なれたのである。しかしあなたがたがこうしてあなたがたの兄弟たちに対して罪を犯し,その弱い良心を傷つけるなら,あなたがたはキリストに対して罪を犯しているのである」。(11,12節)エホバはこうした罪を見過ごし,罰を施さずに放置なさるでしょうか。
9 (イ)奉仕者を自任する人の身なりにつまずく人がいるのはどうしてですか。(ロ)どんな時には,服装や流行に関して他の人の意見に従うほうが良いでしょうか。
9 しかし服装のスタイルがどうして人をつまずかせる問題になるのでしょうか。またスタイルや流行に関する個人的な選択において各人の見解をどこまで受け入れるべきですか。エホバはこの事に関する特定の規制をわたしたちクリスチャンに与えておられますか。与えておられます。しかしそれは霊的に認識されるものですから,それを見分けることはそれほど簡単でないかもしれません。兄弟をつまずかせてはならないというパウロの戒めは,クリスチャンに対する要求となっており,これは食物以外の面でもわたしたちにあてはまるものです。なぜなら,パウロはここで原則を論じ,その原則がこの特定の事柄にどうあてはまるかを述べて,人をつまずかせる原因となる問題でわたしたちがエホバに対してどんな責任を負っているかを例証しているにすぎないからです。こうした事柄には確かに今日の服装の流行やある種のスタイルの問題も含まれています。なぜなら,そうしたスタイルは,ある特定の生活態度に従う人々,つまり,聖書の原則に反する物の見方をする人間と密接な結びつきを持っているからです。最近,今日の女性の流行というテーマで行なわれたラジオのインタビューで一女流作家はこう語りました。「生活態度はどうしても服装に表われます」。今日たいていの国について言えることですが,長い髪をした男性やミニスカートの女性をクリスチャン奉仕者と見なす人はまずいません。事実,前述の若い女流作家はある率直な質問にこう答えました。「そうした服装の女性が路傍で男から声をかけられるのはむしろ当然と言わねばなりません。a “ミニスカートの母”というあだ名を受けた一ファッション・デザイナーのことばを「ニューズウィーク」誌(1967年11月13日号)はこう報じました。「普通,結婚関係外の性交をする女は,暗くなるのを待つと考えられていました。しかし今ではそれを待たない娘が数多くいます。ミニカートはその種の女のしるしです」。
10 (イ)服装の点で事の是非を定めるべき者はだれですか。(ロ)ファッション・デザイナーの見解が必ずしも安全な導きと言えないのはなぜですか。
10 いうまでもなく,ある人が極端とみなすものでも,別の人にはさほど極端とは思えないかもしれません。これはスタイルを作り出す人々のあいだでも言えることで,よしあしや好みは人によって大いに異なります。しかしそうした人々の中にはいつも扇情的な形を好む者がおり,特に今はこうした暴力の時代だけに,考え方や道徳水準の退廃的な傾向に合うものに心をひかれているのです。それでは何をもって標準とし,また,だれが是非を定めますか。ヤコブは,「上からの知恵はまず第一に廉潔であり,つぎに,平和,また理性的であり,すすんで従(う)」ものであると述べています。(ヤコブ 3:17,新)エホバはそのみことばの中でクリスチャンのために正しい標準を定めておられます。わたしたちは喜んで,またいつでもその標準に従いますか。未成年の子供を持つ親の場合を除けば,服装に関する是非や,適当かどうかを定める規則はだれも設けることができません。しかし子供でさえエホバの御心を心から行なうことができ,疑わしい事態に際して善悪を定める仕方を学べるのです。問題がある場合,現在の体制下で設けられている標準を導きにする必要はありません。では一例として,献身したクリスチャンの女性であるあなたが,宣教の観点から見て適当とされている服装と,女性の美の極致として最新のスタイル・ブックの勧める服装のいずれかを選ばねばならない場合のことを考えてみましょう。その場合,人々の物の見方を,滅びゆく現在の事物の体制の生活態度に合わせようとする人々の見解に従う必要がありますか。それはゆがんだ考え方です。そうしたスタイルは特に,一時代の人々の産物である誤った標準に,感じやすい心を向けさせようとして作り出されているのです。この体制の終わりの時である現代に生を享けたあなたは,この世が提供するものでこれまでに見た標準は,堕落した人間の定めた標準にすぎないことを決して忘れてはなりません。それはこれ以外のものを見たことのないあなたにとって美しく見えるかもしれません。しかしそのほとんど大多数は,エホバの命の書である聖書に描かれた,健康と生気のあふれる姿を備えたものではありません。それであなたの生活の導きの一つとして,神に喜ばれる美の正しい型を心に収めてください。
みだしなみに関してつりあいのとれた見方をする
11 ペテロはクリスチャン婦人の容姿をどのように描写しましたか。また,それはどのように一つの型として役だちますか。
11 使徒ペテロは未信者を夫に持つクリスチャン婦人の美しい姿を描写し,同時にそうした女性を引き立たせる美しさを述べていますが,それは夫の注意を引くために現在の体制下の婦人ときそうことを不要にし,かつ,「ことばによらず」に夫を説得しうる資質です。ペテロはこう書きました。「あなたがたは,髪を編んでうわべをつくろい,金の飾りをつけ,上着で装うなどして飾ってはならない。むしろ柔和で慎み深い霊という朽ちない装いをもった,心のうちの隠れた人を飾りとしなさい。これは神の目にきわめて尊いものである」。(ペテロ前 3:1-4,新)ペテロがこうしたことばをしるして以来,人々の風習はすっかり変わりましたが,その描写の基本となっている原則は決して変わりません。服装のスタイルのことで疑問に思う場合には,クリスチャンの女性の容姿を描いたペテロのこのことばをもう一度を読み,ハルマゲドンを生き残るのに肝要なのは,ヘヤスタイルと柔和で慎み深い霊のいずれかを自問してください。
12 服装のスタイルの選択に際してはどんな動機を考慮すべきですか。わたしたちはどのように自分を欺くことがありますか。
12 ペテロのことばはまた,自分の外見に心を用いすぎる人の動機を重視しています。老若男女を問わず,“流行”におくれまいとして新しいスタイルの服装を追い求める人は,自分自身の動機を大いに吟味すべきです。自分の外見によって人に受ける者となることを望んでいますか。人の注目をひき,スタイルに心を配る人という評判を得たいと考えていますか。自分の服装は自分がある種のタイプの人間であることをあらわにするものですか。そうした人間とみなされることを願っていますか。まわりの人はあなたの服装を見てどう感じるでしょうか。服装や身だしなみが生活態度を表わすものであるとすれば,人はわたしたちをどんな人間と思うでしょうか。わたしたちが人に与えている印象は,わたしたちが与えたいと願っているものでしょうか。クリスチャンの奉仕者でありたいと誠実に願いながらも,ファッション・モデルの容姿を若い女性の理想像と考えていたある若いクリスチャンの女性は,近寄ってきたひとりの男の人から,ひわいな目的の写真をとらせてほしいと頼まれ,大きなショックを受けました。しかしこの女性が若い奉仕者としてふさわしい服装をしていたなら,そうした男は近寄らなかったでしょう。こうした経験にもかかわらず,その若いクリスチャンは自分の考えや物の見方を改めるのに大いに苦闘し,自分の心をきびしく吟味しなければなりませんでした。しかし今では宣教者として外国の任命地で忠実に奉仕しており,『神の目にきわめて尊い,柔和で慎み深い霊』を培う幸福な日々を送っています。わたしたちは自分自身を欺いてはなりません。人々はわたしたちを見守っており,わたしたちの身だしなみや行為に表われているものを見て,わたしたちのことを考えるのです。わたしたちはいつもパウロの次のことばを心にとめねばなりません。「すべてのことは許されている。しかしすべてのことが益となるのではない。すべてのことは許されている。しかしすべてのことが徳を高めるのではない。おのおの自分自身の益ではなく,他の人の益を求め続けるべきである」― コリント前 10:23,24,新。
13 最近交わりはじめた人は服装の問題をどう考えるべきですか。
13 しかし他の人やその考え方だけをうんぬんするのではありません。まず第一に自分自身の考え方と,そうした考えを促すものとに心を用いるべきです。あなたは最近エホバの証人と交わったばかりのかたかもしれません。もしそうであれば,現代の流行に多少なりとも従った生活に慣れているかもしれませんが,御国会館では歓迎されないのではないだろうかと感ずる必要は少しもありません。ほんとうに誠実な人で,神に奉仕しようとする人の努力が妨げられることはありません。しかし神とそのお目的に関する知識を深めるにつれ,あなたは自分の考え方が変化していくことに気づくでしょう。そして,現在の体制下の風習や生活態度に従い続けるかぎり,この体制から完全に離れられないことを悟るようになるでしょう。
14 この問題に関する個人の考え方はどうして重大なことと言えますか。
14 他方,ある期間証人と交わってきたにもかかわらず,依然としてこの体制の作り出した姿に強く心をひかれているなら,その真の原因を真剣に考えてください。何に動かされてそうした姿を追い求めていますか。あなたの考え方はどうしてそのような方向に傾いていますか。この体制に見られる考え方,あるいは服装や行為そして身だしなみなどで模倣したいと考えている人々の影響を受けるのは危険なことです。このことを十分にさとっていますか。ヤコブの助言を忘れないでください。(ヤコブ 1:14,15)悪い欲望を絶えずもてあそぶ人は,違反に陥ることを覚悟しなければなりません。
15 個人個人の見だしなみに関する分別のある理性的な見方とはなんですか。
15 選択の自由がかなり許されているからといって,新世社会の固有な型からわたしたちを引き離そうとする自分自身のわがままな性向に従うべきでしょうか。ある標準に従うことがきびしく要求されていないからといって,エホバへの奉仕で円熟した人の,聖書で訓練された良心を無視してもかまわないと考えるべきですか。依然として片足をこの事物の体制にあずけたまま二つの道に迷っている人は,「不自由な部分がはずれることなく,かえって癒されるために,あなたがたの足のため,まっすぐな道を作り続けなさい」というパウロの勧めを真剣に考えてください。(ヘブル 12:13,新)この事物の体制下の風習や流行がこの体制の終わりまでにどれほど極端に走るかを知ることができますか。クリスチャンの品位に関する原則の点で妥協せずにそうした事柄にどこまで従えますか。わたしたちは自分自身の考え方をまず正しいものにして,聖書に定められている標準を逸脱しないようにしなければなりません。これは,せりで入札をする人に似ています。入札の限度を心に定めておかないなら破産してしまいます。わたしたちはまず,この事物の体制下の風習や慣行に関する自分の考え方に限界を設けねばなりません。必要な警戒を怠れば,失敗は必至です。もしあなたの服装のスタイルが新世社会内の円熟した人々のものとあまりにも異なっているために,いつも評判になっているなら,自分自身の宣教と,あなたのことを見ている組織外の人々とに自分の身なりがどんな影響をもたらしているかを真剣に考えてください。なぜあえて自分に汚点をつけるのですか,あなたが得ているものは実際に価値のあるものですか。
16 わたしたちはなぜ自分の態度に関して得意になってはなりませんか。特に親はなぜ自分の足のためにまっすぐな道を作ることを決意すべきですか。
16 この世の考え方に心を寄せる人は,「自分は絶対にだいじょうぶだ」といつも自分に言い聞かせているかもしれません。しかしわたしたちは得意になったり,自分だけはだいじょうぶだと考えたりしてはなりません。油断しても失敗しないのはごくまれで,不幸な事態は何度となく起きています。両親のみなさん,自分自身と子供たちを見てください。あなたは服装や行動で正しい模範を示していますか。もしそうであれば,次に,あなたの責任の下にある子供をそうした模範に従わさせていますか。イエスは,わたしたちをこの世から連れ去ってほしいとはエホバに祈られませんでした。わたしたちが世の一部にならないようにと祈られたのです。聖書の原則とその適用の仕方をよく理解してください。そして原則を子供に教え,子供があなたの世話にゆだねられているかぎり,その足のためにまっすぐな道を作らせることに努めてください。エホバはご自分の預言者エゼキエルを通して次のように述べ,わたしたちのために自ら正しい模範を示されました。「汝らそのもろもろのとがを悔改めよ しからば悪汝らをつまづかせて滅すことなかるべし 汝らその行ひしもろもろの罪をすてさり 新しき心と新しき霊魂を起こすべし イスラエルの家よ 汝らなんぞ死べけんや 我は死者の死を好まざるなり されば悔て生よ 主エホバこれを言ふ」― エゼキエル 18:30-32。アモス 5:14。
[脚注]
a 1967年6月8日,ニューヨーク市WNEW放送の番組,「ジム・ローのニューヨーク」より
[342ページの図版]
せりで入札をする人は入札の限度を心得ていなければ破産します。同様にこの世の慣行に関する考え方にも限界を設けなければ,霊的な意味で破産します