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目ざめよ! 1976
目76 8/22 28–29ページ

聖書はそれをどう見ていますか

「獄にある霊たち」とはだれですか

使徒ペテロは,復活したイエス・キリストが「獄にある霊たち」に宣べ伝えたことを記しています。(ペテロ第一 3:19)これらの「霊たち」は死んだ人々でしたか。それとも,ある種の拘束を受けていた霊者だったでしょうか。

「獄にある霊たち」の正体を確めるために,まず彼らについて言及されている背景を考慮しなければなりません。こう記されています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました。それは,かつてノアの日に神がしんぼうして待っておられた時に不従順であった者たちで(した)」― ペテロ第一 3:18-20。

ノアの日に言及されていますから,「獄にある霊たち」の正体に関する手掛かりを得るため,当時の出来事を調べてみなければなりません。ノアとその家族を除けば,人類社会は神に対して不従順でした。復活したイエス・キリストは,それら不従順な人々の霊に宣べ伝えたと言えるでしょうか。いいえ,そうではありません。それはなぜですか。聖書が明らかに示している通り,すべての意識ある存在は死によって終わるからです。例えば,伝道の書には次のような言葉があります。「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない,また,もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも,ついに忘れられる。その愛も,憎しみも,ねたみも,すでに消えうせて,彼らはもはや日の下に行われるすべての事に永久にかかわることがない」― 伝道 9:5,6,口。

さらに動物を生かしている霊,つまり生命力と,人間を生かしている霊との間には,何ら相違はありません。伝道の書 3章19節(新)はこう述べています。「人の子に関して終局があり,獣に関しても終局がある。そして彼らは同じ終局に遭う。一方が死ぬように他方も死ぬ。そして彼らは皆ただ一つの霊を持っているにすぎ(ない)」。

このように,聖書は全地球的な洪水の際に滅んだ人々が,「獄にある霊たち」であるとは述べていません。ですから,これらの獄に入れられた霊たちの正体に関する手掛かりを,人間の領域以外のところに求めなければなりません。聖書の創世記はそうすることを可能にしてくれます。そこには,「真の神の子たち」つまりみ使いたちのある者が,ノアの日に行なったことが述べられているからです。こう記されています。「人が地のおもてにふえ始めて,娘たちが彼らに生れた時,神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て,自分の好む者を妻にめとった。そのころ,またその後にも,地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって,娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり,有名な人々であった」― 創世 6:1,2,4,口。

夫として女と共に生活することを始めたみ使いである神の子たちは,自分たちの創造された目的に反する行動をしていました。彼らはまた,聖なる天における奉仕の割当てに対しても不忠実であることを示しました。この重大な違反のために,彼らは罰を受けました。聖書はこう述べています。「神[は],罪を犯したみ使いたちを罰することを差し控えず,彼らをタルタロスに投げ込んで,裁きのために留め置かれた者として濃密なやみの穴に引き渡された」― ペテロ第二 2:4。

ですから,「獄にある霊たち」とは,不従順なみ使いたちのことです。全地球的な洪水が始まった時,それらのみ使いは,それまで用いていた人間としての体を非物質化したに違いありません。しかしエホバ神は,彼らが地に来る際に見捨ててしまった天における地位に再び就くことを,許しませんでした。神は,それらの者たちを拘束しました。霊者である彼らは,文字通りの「穴」あるいは,身体的な「なわめ」に拘束されているわけではありません。それでも,穴に投げ込まれたり,なわめに縛られたりする状態に等しい,ある種の制限の下に置かれたに違いありません。そうした監禁状態にあるため,再び人間として化肉し,夫として女と共に生活することができなくなりました。―ユダ 6。

彼らが「タルタロス」に投げ込まれるというのは,卑しめられ,神の恵みとあらゆる啓発から切り離された状態を指しています。それは,「タルタロスに投げ込む」という表現が,原語のギリシャ語では一つの動詞になっているという事実から明らかです。ですから,それは卑しめるという行為を指しており,文字通りの場所を指しているのではありません。そこに表わされている考えは,英語のdebase(卑しめる)という言葉の場合と同様です。この語には名詞base(基底)が含まれていますが,その語自体は,文字通りの基底が存在することを示しているわけではありません。

不忠実なため卑しめられた状態に置かれていることから見て,これらの霊者たちに対しては,イエス・キリストを通して悔い改める機会は開かれていなかったはずです。イエスは,不従順なみ使いのために死なれたのではなく,専ら人類のために死なれたのです。神のみ言葉はこう述べています。「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)『実に,彼[イエス・キリスト]はみ使いたちを助けているのではありません』― ヘブライ 2:16。

贖いの恩恵は不従順なみ使いたちには適用されませんから,彼らの立場は,真の崇拝を捨てて背教した,霊によって油そそがれたクリスチャンの場合と同様です。そうした人々に関して,ヘブライ 6章4節から6節に次のように述べられています。「一度かぎりの啓発を受け,天からの無償の賜物を味わい,聖霊にあずかる者となり,神の優れたことばときたるべき事物の体制の力とを味わっておきながら,なお離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです」。では,確かに,意識的に不従順になった,み使いである神の子たちが,自分たちの反逆行為を悔い改めることは,同じく不可能であると言えます。

したがって,復活したイエス・キリストは,不従順なみ使いに対して有罪宣告に関する音信を伝えることができたに過ぎません。処刑の杭の上で死を遂げる少し前,イエスは弟子たちにこう言われました。「そして,その者[神の霊]が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。まず,罪に関してとは,彼らがわたしに信仰を働かせていないからです。ついで,義に関してとは,わたしが父のもとに行き,あなたがたがもうわたしを見ないからです。さらに,裁きに関してとは,この世の支配者が裁かれたからです」。(ヨハネ 16:8-11)『この世の支配者』は,不従順なみ使いたち,つまり悪霊たちの支配者でもあります。(啓示 12章7節から9節と比較してください。)ですから,神の霊の「納得させる証拠」と一致して,復活したキリストは,「獄にある霊たち」に対して,全く正当な裁きを宣言することができました。

それで,聖書からの証拠を総合的に調べてみると,「獄にある霊」とは反逆したみ使いであることが明らかになります。それらは死者の霊ではありません。人の中にある霊とは,活動を起こさせる生命力にすぎないからです。

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