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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
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あなたの徳はどの程度のものですか

真珠にもたぐい得る徳という資質は今日ほとんど尊ばれていません。大多数の人は,快楽を求め,私利私欲を追い,この資質のことは生活の背後に押しやって,顧みようとしません。しかし聖書は徳をクリスチャンの基本的な条件の一つと見なし,「信仰に徳を加え,徳に知識を……加え」よと告げ,また,「すべて真実なこと……純真なこと……徳といわれるもの」を引き続き心にとどめよとさとしています。―ペテロ第二 1:5。ピリピ 4:8。

徳とは,「道徳的な実践もしくは行動。正義の標準に従うこと……道徳的高潔さ,行為の廉直さ」と定義でき,また,「道徳的善,悪徳の逆」とも言えます。クリスチャン・ギリシャ語聖書中で徳と訳されているギリシャ語はアレテーで,ギリシャ語の学者によればこの語は,「本質的な価値,道徳的善,徳……特定の道徳的美点」と定義されています。徳(virtue)ということばにはまた,このことばのラテン語の語根から英語の“virility”(男らしさ)が派生したとおり,道徳的力および男らしさという意味がひそんでいます。それで,徳という資質は,加熱と冷却を繰り返して堅さのみならず強靭さをも増し加えて,相当の圧力に耐え得る鋼鉄に鍛えあげられてゆく鉄材になぞらえることもできます。

十戒の中の一つをも破ってはいないと考えて,自らを有徳の士と見なす人もいます。しかしそれはどう見ても消極的な徳にすぎません。そのうえ,この種の徳はその価値にさまざまの相違さえあります。たとえば,ある人が盗みをしないのは,莫大な相続財産があるゆえかもしれません。もしそうであれば,盗みをしないということも大した徳とは言えません。そうする機会がなかったというだけの理由で盗みを働かなかったという場合も同じです。

また,自分を人よりも「良い」人間だとする不当な誇りゆえに盗みをしない人もいます。この点では,イエスのたとえ話に出てくるひとりのパリサイ人の祈りが思い出されます。「神よ,わたしはほかの人たちのような貪欲な者,不正な者,姦淫をする者ではなく,また,この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており,全収入の十分の一をささげています」。さてこの男は神の目に,徳のある人間と映りましたか。そうではないとイエスは答えています。―ルカ 18:9-14。

処罰あるいは恥辱をこうむるなどの事後の情況を恐れるただそれだけで,盗みを思いとどまることがあるかもしれません。それらの理由は徳を培うための正しい基礎ではあっても,それのみに根ざした徳は最善のものとは言えません。それは概して,啓発された利己主義であり,原則の分野というよりはむしろ方針のそれに属する事柄と言えるでしょう。この点を強調しているのは,怒りあるいは処罰に対する恐れのためだけでなく,「良心のためにも」国家の法律に従えとクリスチャンに勧めた使徒パウロの助言です。―ローマ 13:5。

それよりもさらに高位の徳とは,わたしたちの創造者エホバ神に対する愛および神の不興を買うまいとする恐れに根ざした徳です。霊感を受けた詩篇の筆者はそれをこう表現しました。「エホバを愛しむものよ悪をにくめ」。そうです,正しいことを愛し,悪,邪悪,神に憎まれる事柄を憎まねばなりません。「あなたは義を愛し,悪を憎む」とさえ述べられているとおり,イエス・キリストは地上にいられた時,この種の徳を備えていられました。そして正義を愛し,悪を憎むこの資質のゆえに,誘惑および迫害という方法で悪魔があびせたあらゆる攻撃に打ち勝てたのです。―詩 97:10,文語。45:7。ヘブル 5:8。

正義に対するこの種の愛,創造者の不興を買うまいとするその恐れがあれば,ただに悪を退け得るにとどまらず,積極的な徳を実践するよう促されます。と言うのは,厳密に言って徳とは結局のところ,悪徳が単に存在しない以上のことを意味しているからです。聖書中ではしばしば義として言及されているように,徳とは消極的な善以上のものです。イエスは積極的な見地からモーセの律法を要約し,こう言われました。「だから,何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」― マタイ 7:12。

この理由で,幼児はその幼稚さゆえに無邪気とは見なされても,徳があると言うことはできません。しかし実際のところ,わずか6歳で殺人を犯したというニュースを見聞きする昨今,幼稚さのみで無邪気な子供と見なされるのはごく幼い子供でなければなりません。6歳のひとりの子供は故意に猟銃で父親を殺し,同年のもうひとりの子供はライフル銃で遊び友だちを撃ち殺したのです。こんな幼い子供の犯罪を取り扱う法がないために,この種の幼年犯罪は警察および裁判所の頭痛の種になっています! 1967年10月24日付,ニューヨーク・タイムズ紙,1967年11月19日付,ニューヨーク・サンデー・ニューズ紙。

徳という資質の積極的な面を強調しているのは,ある金持ちの若い支配者に語ったイエスのことばです。彼はイエスに向かって,永遠の生命を相続するには何を行なうべきかと尋ねましたが,モーセの律法のおもに消極的な事柄を守って明らかに自己満足していたのです。それでイエスは,彼が何に欠けているかを次のように指摘しました。つまり積極的な善あるいは徳に欠けていたのです。「貧しい人々に施し……わたしに従ってきなさい」― マルコ 10:17-22。

徳には明らかに,程度を異にするさまざまの種類があり,決して一様ではありません。単に悪を退ける,あるいは人を害さないという消極的な徳もあれば,原則よりもむしろ方針に根ざした徳もあります。この点に関してイエス・キリストは言われました。「あなたがたの義[あるいは徳]が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ,決して天国にはいることはできない」。(マタイ 5:20)徳という真珠を保ち,その報いである永遠の生命を刈り取るためには,それを絶えず向上させることに努め,この資質を守らねばなりません。徳に関して決して自己満足に陥らないようにしましょう。「立っていると思う者は,倒れないように気をつけるがよい」という助言にいつも聞き従わねばなりません。―コリント第一 10:12。

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