何を信じても,結局は同じことですか
あなたが信ずる事柄のうち,あなたのしあわせになんの影響をおよぼさぬものはたくさんあるでしょう。たとえばあなたは,ある色を他の色より美しい,と信じているかも知れません。しかしそう信じていても生命には少しも影響しません。それは個人の趣味の問題です。
けれども,もしあなたが,落下速度をゆるめるパラシュートをつけずに,高空を飛ぶ飛行機から飛びおりても平気だと信じたならどうなりますか。そんなことを信じたらたいへんだ,というでしょう。なぜなら,そういうばかばかしいことを信ずると生命にかかわるからです。それは実際に命を危険にさらすことです。ですからことが命に関係してくるとあなたは,真実を信ずるように注意します。他人の信じていることはとやかく言わないでしょう。しかしそういう信念をもつと自分が不しあわせになると思うなら,その信念をもとうとはしないでしょう。
あなたと神との関係という信仰の問題についても,それと同じほどの注意を払いますか。神が要求されていることを正確に知るためにどの程度の注意を払いますか。神の目的と自分の立場について,健全な基礎にもとづいた信仰をもっていますか。そのことについては何かを信じてさえいれば,どんなことを信じようと問題ではない,という人が多いのは事実です。しかし次のことを自問してください。あなたが何を信じようと他人はかまわないでしょう。しかし神はどう思われますか。
重力を無視してパラシュートをつけずに飛行機から飛びおりるとどうなりますか。それと同じく,「自然の」法則にかんして間違った考えをもつことが人間にとって危険なことをあなたは認めます。こうした「自然の」法則は,実際に神がお定めになったものです。このことから私たちは,人間のために定められた他の法則について,間違った考えをもつことも危険であることに,気づくべきではないでしょうか。「自然の」法則に対する間違った考えかたが人間の命を危険にさらすなら,人間のために定められた神の他の法則についての間違った考えが,それ以上に危険なことは明らかです。
人々はいく世紀にもわたって,神とその目的につき奇妙なことを信じてきました。そして無数の神々とそれらに関係した信仰をつくり出しました。しかし今日の一般の人で,昔のそれらの神の名を二,三あげ,それらが何の神であったかというのは容易なことではなでいしょう。そうした神々は想像上の存在にすぎなかったため,時と共に消えうせました。実際には存在しない今日の偽りの神々もまた,なくなってしまうでしょう。一貫して,変ることなく存続し,信頼できるのは全能の神エホバとその目的だけです。
最近のこと,入院中のある病人が,間違った宗教的信仰から悪い影響を受けた話があります。この患者は,いく日かこん睡状態に陥っていました。彼はいたれりつくせりの手当を受けていました。ところが胸と腹部にぶどう状球菌による皮膚病が発生しました。なぜ細菌の感染を受けたのかだれもわかりません。すべてが申し分なく清潔で,その病気をもっている患者はほかにひとりもいませんでした。ある日,皮膚科の専門医は,患者の母親がむすこのおなかの上になにかふりかけているのを見ました。このことからその母親が定期的に「聖水」をむすこにふりかけていたことがわかりました。母親は「聖水」がむすこの回復を早めると信じていたのです。医師がその水を少しもっていって調べたところ,細菌がいっぱいいたことがわかりました。「聖水」をふりかけるのをやめると同時に皮膚病も直りました。(1963年7月27日号ライフ誌より)母親の誠実な気持を疑う余地はありません。しかしその行いは無益でした。それは神の道ではなく,単なる迷信にすぎません。そしてこの場合相手のためを思ってしたことがかえって害を招く結果になりました。
私たちと神との関係においては,私たちが何を信ずるかによって大きな相違が生じます。いまから4000年以上昔のノアの時代に,大多数の人は,神の道を捨てて自分の好むままを行なうことができると信じました。その結果,「人の悪が地にはびこり,すべてその心に思いはかること」は「いつも悪い事ばかり」でした。「世は神の前に乱れて,暴虐が地に満ちた」。神が,心の正しい人ノアを通して,世界的洪水による破滅ののぞむことをその世代に警告されたときも,人々は信じませんでした。そのことは彼らの命に影響しました。人々は神を信ぜず,神のみことばに従って行動しなかったために,その大洪水で命を失ってしまったのです。他方ノアとその家族は,神を信じ,神のみことばに従って行動したため,その時の世の終りを生き残りました。従うかどうかは彼らの命を左右しました。というのは彼らはその世界的災害から救われたからです。また今日地上にいる全人類もその影響を受けました。私たちはみなノアとその家族の子孫です。信じなかった者は洪水で断たれ,子孫を残しませんでした。
聖書の預言は,私たちがさばきの時に住んでいること,またこの悪い組織制度の終りの近いことを明確にしています。イエスは私たちの時代こそ,神がノアの日のように地から悪を一掃されるときであることを示されました。(マタイ 24:37-39)それを信じ,その知識に従って行動するかどうかは大きな相違をもたらします。「われ今日生命と福徳および死と災禍を汝の前に置けり」。これがその僕モーセを通して述べられたエホバの道です。(申命 30:19)永遠の生命と永遠の死の相違です!
たしかに地の住民の大部分は,そのような選択を迫られていることを信じません。けれどもノアの時代の人々も信じなかったのです。それを信じないであざわらうひとは,あることを忘れているのです。使徒ペテロは言いました。「彼らはこのことを認めようとはしない。……その時の世界は,御言により水でおおわれて滅んでしまった」。(ペテロ後 3:5,6,新口)昔の世が神のみわざによって滅びたように,現在の世も滅びます。
誤導されてはなりません。神とその目的についてあなたが何を信ずるかは,あなたの生命にかかわる問題です。もし神の祝福を得たいなら,神のみことばである聖書を研究して,神のご要求を確かめねばなりません。そうすれば,神の明確なみ旨に一致して生活することを望むようになるでしょう。というのは,「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる」からです。―ヨハネ第一書 2:17,新口