生きた本は地の果てにまで達する
その人はヨーロッパを制覇し,何者をも恐れませんでした。あたかも向かう所敵なしといった観を呈していました。ところが,聖書の歴史を調べた後,その人,ナポレオンは次の事を認めました。「聖書はただの書物ではない。それに敵するものすべてを征服する力を持つ生きた被造物である」。
確かに,聖書は不滅であることを証明してきた書物です。人を動かすその影響力を受けたのは,その発祥の地だけではありません。中東で生まれはしましたが,聖書は世界各地へ歩を進め,人類の心そのものに向かって,幾百もの言語で“語りかけることを覚え”ました。しかし,深刻な問題が生じなかったわけではありません。
世界の諸言語に訳される
15世紀末から19世紀末にかけて,聖書の“語りかける”言語の数は,30から450へと増加しました。これは容易ではありませんでした。翻訳者たちは,しばしば,文字のない言語や全く異質の構造を持つ言語に取り組んだからです。ビルマ語の聖書を翻訳したアドニラム・ジャドソンはこう説明しています。
『我々が目にしたのは,これまでに出会ったどんな言語とも全く異質の文字や語であった。しかもそれらの語の区切りははっきりしておらず,途切れることなく一列に続き,文も段落も,長々と続く一語にしか見えないのである。辞書もなく,ただの一語といえども説明してくれる通訳もいない。現地の人の助けを得られるようにするためには,まずその前にその言語について幾らかでも知らなければならないのである。このような状況の下では,それは大仕事である」。
しかし,もっと厳しい障害がほかにもありました。
中国語の聖書
1807年,中国の広東<カントン>で秘密裏に聖書を翻訳することになったとき,ロバート・モリソンは,『今後,秘密裏に本を印刷し,自分の宗教を広めるヨーロッパ人は死刑に処す』という中国の法律と闘わねばなりませんでした。
使用されなくなった倉庫の中で,モリソンは発覚するのを恐れながら,「使徒たちの活動」を訳し終えました。そして,それを印刷し,偽の表紙を付けて,書店へ自由に配送しました。手製の印刷用木版を隠すためにそれを埋めたこともありましたが,後で見るとすべてが白アリに食われていました。それでも自分の目標を断念することなく,やがてモリソンは聖書全巻を訳し終えました。
しかし,その翻訳は,中国人の大半が話すことのなくなった文語への翻訳でした。そこで,アイザック・シェレシェウスキーは日用語への翻訳を手掛けました。それに着手して間もなく,この人は脊髄の病気にかかり,全く体の自由がきかなくなってしまいました。一本の指しか動かせなくなってしまったのです。それでも翻訳は続けられました。自由のきく一本の指を使ってタイプを打ち,助け手たちが漢字へ書き直していきました。「聖書の中国語訳」という本によると,七年間というものは,『彼の眼中には文字通りただ一つの目標しかなかった。すなわち,神の言葉を中国人にとって分かりやすいものにすることである。来る日も来る日も,休むことも,休憩を取ることもせずに,彼は刻苦し続けた』と,言われています。そしてついに,“一本指聖書”と呼ばれる聖書によって,神の言葉は世界のどの言語よりも多くの人々が用いている言語へと訳されたのです。
そのような翻訳者の揺らぐことのない努力のおかげで,現在では聖書のいずれかの部分を1,660の言語で入手できます。一つの聖書協会だけでも,現在,年間2億冊以上の聖書を頒布しています。
その力は衰えつつあるか
しかし,広く頒布されているからと言って,必ずしも生きた影響力を及ぼしているということになるでしょうか。聖書の中味は何だか知っているか,と尋ねられた一人の少女の答えは情けないものです。「ええ知ってるわ。ぺしゃんこになったリスのしっぽに,モリーおばさんのお墓から取ってきたバラに,おじいちゃんの髪の毛が一束に,保険の領収証に,パパのフリーメーソンの記章よ」というのです。多くの人はこの子と大差がありません。
あなたは聖書をお持ちかもしれません。しかし,この前それを読んだのはいつでしたか。その内容にどれほど精通していますか。バプテスト派の一牧師は次のように語りました。「多くの人は,ジョージ・ワシントン,ソクラテス,ナポレオンを知っていると同じように聖書を知っている。つまり歴史的に知っているのである。それらの人物は,我々が個人的な知己になれないという意味では死んでいる。同じように,聖書も今日の多くの人々の考えの中では死んだものになっている」。
拡大する一方のテレビやラジオの影響と,いよいよ忙しくなるスケジュールとが相まって,読書は妨げられています。人々は,今日の情緒面の緊張や圧力に対処するのに,数千年も昔の本が役に立つのだろうかと疑念を抱いています。しかし,すべての人がそう考えているわけではありません。
聖書は幾百万もの人に生きた力を及ぼす
自分で売春宿を経営していたブラジルの元売春婦,グアテマラの刑務所にいる以前は冷酷な殺人犯だった人,アイルランドの万引き団の一員で,一日に100ポンド(約4万円)を自分で“稼いで”いた人,結婚生活上の問題を苦にして二度自殺を図り,神経衰弱になっていたアメリカの主婦,以前は大酒飲みで,賭博に明け暮れ,「女を殴ることが楽しみだった」というガイアナ人。この人たちすべてに共通しているのはどんなことでしょうか。
この人たちは皆,品行方正と正直を旨とする聖書の原則に合わせるため,行動を改めました。その例を一覧表にすると,尽きることなく続いてゆきます。毎年,老若を問わず,幾千幾万もの人々が,聖書の助けを借りて今日の世界の圧力に対処するための力を見いだしているからです。そうした人々の生活は,人間としての尊厳のある,幸福で,満足のゆくものになっています。それは以前には夢見ることさえしなかったような生活です。
それはどのようにして可能になったのでしょうか。そうした人々はただ聖書を取り上げて読み始め,変化を遂げたのでしょうか。決してそのようなことはありません。一人の人が,「常々聖書を理解したいとは思っているのですが,実に難しくて」と言っているとおりです。いずれの場合にも,それらの人々は個人的な援助を受けました。使徒 8章に登場するエチオピア人の廷臣の場合とよく似ています。このエチオピア人が聖書を読んでいるときに,初期のクリスチャンの一人であるフィリポが近付いてきて,「あなたは,読んでいることが,おわかりですか」と尋ねました。それに対するその廷臣の慎み深い答えは,「だれかが,手びきをしてくれなければ,どうしてわかりましょう」というものでした。フィリポは快くその廷臣を援助しました。―使徒 8:30,31,口。
グループで聖書を研究するために設けられている集会に出席することも,生活を形作るのに役立ちました。これらの集会は一世紀のクリスチャンの集会に似ています。その場では,聖書が幾度も読まれます。また,一世紀に『預言者や教える者』がしたと同じように,資格のある教え手が奉仕しています。(エフェソス 4:11-14)一世紀当時のそうした人々について,「注釈者の聖書辞典」は次のように述べています。「預言者や教える者たちは,使徒たちのもたらした救いの音信を,信者たちに説明し,その生活や状況に当てはめた」。
そうした聖書研究の効果に第三者は気づいていますか。前述の人々はすべてエホバの証人になりました。エホバの証人について,「新カトリック百科事典」は,証人たちが「世界で最も行儀の良いグループの一つとしての名声を最近」得ており,伝道には「不屈の熱意」を抱き,「結婚や性道徳の面ではかなり厳格である」と述べています。
アフリカからは次のような報告が寄せられています。
「皆の話から推して,アフリカ人の間でエホバの証人の勢力の最も強い地域は,今や平均的な地域よりもずっと問題の少ない地域になっている。確かに,エホバの証人は,扇動者や魔術,酔酒,いかなる種類の暴力にも積極的に反対してきた。聖書の厳密な研究が勧められている」― ザ・ノーサン・ニューズ紙(ジンバブウェ・ローデシア)。
もちろん,その振る舞いは完全ではありませんが,全般的な状態は確かに際立ったものです。聖書の助言を当てはめる200万以上の人々から成るこうした大規模な国際的兄弟関係は,今や聖書の音信が「生きた力」となり,信者の間で働いていることを,これまでになくはっきりと示しています。―イザヤ 2:2-4。
聖書はあなた自身の生活において生きた力となっていますか
あなたは人生を幸福なものにし,成功させたいと思っておられるに違いありません。正常な神経の持ち主ならだれでもそう思います。では,次の勧めに注目すると良いでしょう。
「この律法の書はあなたの口から離れるべきではなく,あなたは昼も夜もそれを小声で読まねばならない。それは,すべてそのうちに記されていることにしたがって必ず行なうためである。そうすれば,あなたは自分の道を成功させ,あなたは賢く行動することになるのである」― ヨシュア 1:8,新。
人生を成功させる秘けつは,単に聖書を所有していることにではなく,それを読み,注意深くそれに従ってゆくことにあります。聖書の大部分は非常に明快ですが,「理解しにくい」箇所もあります。(ペテロ第二 3:16)これら難しい部分は,人の動機を明らかにするのに役立ちます。(ヘブライ 4:12)人がもし自分の内奥で,神のご意志を学んだり行なったりすることに関心を抱いていないなら,聖書を余り読もうとしない“言い訳”として難解な聖句を指摘することができるのです。―マタイ 13:10-16と比較してください。
聖書を生活の生きた力としてゆくには,誠実な努力が求められる,という事実は無視できません。箴言 2章1-5節(新)は,「神の知識」を見いだすために,『理解を求めて叫び,隠された宝や銀を求めるように,それを捜さ』ねばならないことを示しています。「隠された宝」はすぐに拾えるような所にはありません。地面を掘らなければならないのです。中には寝食を忘れ,宝を求めて掘り続ける人もいます。しかし,宝が見付かれば,そのすべてもむだではなかったことになります。
同じように,聖書を読んで益を受けるには,時間と集中力と黙想のいずれをも欠かすことができません。現代語に訳された翻訳は,多くの場合に役立ちます。毎年聖書を読み通すことを目標にしている人は少なくありません。一日に3章ずつ読んでゆけば,それを成し遂げることができます。
自分たちに理解できる聖書を手に入れるということだけのために,昔の人々がどんなことをしたか決して忘れてはなりません。燃える杭に付けられて死ぬことさえいとわなかったのです。一般大衆が聖書を読めるようにするため命懸けでそれを翻訳した人々がいたことを思い起こすのです。このような模範は,聖書を注意深く読むことによってこの貴重な本に対する認識を示すよう,わたしたちを動かさずにはおかないはずです。
とこしえの命の希望を提供する本
さて,まだ答えられぬままになっていた質問を考慮しましょう。すなわち,神が聖書を保存し,世界中のすべての人が理解できるような形で手に入るよう見守ってこられたのはなぜか,という質問です。それは,聖書によって創造者を知ることができるようになるからであり,また聖書の中には永遠の命に関する神の約束が含まれているからです。神はすべての人がそのような祝福を享受することを望んでおられます。聖書は,テトス 1章2節で,『長く続いた時代の前に約束された,永遠の命の希望』に言及しています。
どのような状態の下での永遠の命ですか。聖書は,『義が宿る新しい天と新しい地』について語っています。義が行き渡る時,神の言葉はすべての人の心に働きかけ,だれもが互いに愛のある仕方で接するようになるでしょう。神は,困窮からの解放と完全な健康で人々を祝福します。実にすばらしい世界ではありませんか。ご自分のみ言葉を通して今日に至るまでこの約束が保存されるよう神が見守ってくださったことに対して,深い感謝の念を覚えるのではありませんか。―詩 37:10,11; 85:10-12。ペテロ第二 3:13。啓示 21:3-5。
神はあなたがこの希望について知り,それを享受することを望んでおられます。聖書を自分の生活の中にあって生きた力とする意志のある人々すべては,今すぐそうするように勧められています。あなたもそうなさってみてはいかがですか。エホバの証人は喜んでご援助いたします。
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現在では1,660の言語で,聖書の全巻あるいは一部を入手できる。これは全人類の話す言語をほぼすべて網羅している
[21ページ,全面図版]