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多くの人が確信を抱いていないのはなぜか目ざめよ! 1983 | 1月8日
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暴力に対して責任があることを認めなければならない。それなのに,あなたは神は愛であるという。一体どちらなのか』。
そのような人々はそれからこう結論付けます。『ほらご覧なさい。納得のゆく説明は,闘争と適者生存,導かれることのない盲目的な進化にしかないのです』。
こうして,意図的な造りイコール設計者の存在という論議は葬り去られたように思われました。その論議を用いれば,残忍さの責任を神に帰することになるという訳です。そして例のごとく,惨めなことに,キリスト教と異教の宗教指導者たちはいずれもこの問題に対して本当の意味での答えを何一つ与えませんでした。
それ以来この型はほとんど変わりませんでした。設計者に関する問題が持ち上がると,大抵の場合に自然界の暴力に関するジレンマが引き合いに出されました。例えば,哲学者のバートランド・ラッセルは自著「わたしがクリスチャンではない理由」の中で次のように述べました。
「自然の造りに基づくこの論議を詳しく調べる時,全知全能の方が幾百万年も掛けて造り出し得たものがせいぜい,あらゆる欠陥を備えたあらゆる物の存在するこの世界でしかないということを人々が信じられるのは実に驚くべきことである。わたしにはとうていそんなことは信じられない。自分が全知全能で,自分の世界を完全なものにするために幾百万年もの時間を与えられたとしたら,クー・クラックス・クランやファシスト以上のものを造り出せないだろうか」。
この考え方をもっと深い所まで分析してみることにしましょう。この考え方は,自然界に見られる造りには設計者が必要であるという概念を否定するためにしばしば用いられるからです。
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それでもやはり意図的に造られている!目ざめよ! 1983 | 1月8日
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それでもやはり意図的に造られている!
動物や人間の領域に闘争が見られるために,設計者,つまり創造者の存在が本当に除外されてしまうのでしょうか。問題を詳しく調べてみると,決してそうではないことが分かります。意図的な造りには設計者が必要という論議は本当の意味で論ばくされてはいないのです。
確かに,設計者の存在を論破するために自然界に見られる闘争を用いても,この問題に取り組んでいることにはなりません。設計者の存在を論破するには,意図的に造られた物の用い方について,倫理的判断を下す以上のことが求められます。
意図的な造りは設計者の存在を意味する
例えば,ジェット機を見ると,それが旅客だけでなく原子爆弾を運ぶ手段にもなり得ることを考え
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