ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 「良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」
    ものみの塔 1988 | 1月1日
    • この時代に宣べ伝えられるべき王国

      7 「事物の体制の終結」の時期になされるべき宣べ伝える業について,イエスは何と言われましたか。

      7 イエスは「事物の体制の終結」の時期に生じる出来事に関する預言の中で,「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と,言われました。(マタイ 24:3,14)あるいは,マルコ 13章10節に記されているように,「また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」と言われました。―啓示 14:6,7もご覧ください。

      8 (イ)使徒時代の良いたよりには何が含まれていましたか。(ロ)今日,良いたよりの音信には何が含まれていますか。

      8 「終わりの日」の王国の良いたよりには,イエスが地上におられた時よりも多くの事柄が含まれます。イエスは王国は近づいたと宣べ伝え,ご自分がメシアまた王として民の間にいるという事実に注意を引かれました。(テモテ第二 3:1。マタイ 4:17。ルカ 17:21)初期クリスチャンが宣べ伝えた良いたよりには,イエスの復活と昇天に関する事柄が含まれていましたが,その良いたよりは,来たるべき王国に信仰を置くよう柔和な人々を励ましました。(使徒 2:22-24,32; 3:19-21; 17:2,3; 26:23; 28:23,31)「事物の体制の終結」の時期に入ったので,王国の良いたよりを宣べ伝える業には,天で王国が設立されたという際立った音信が含まれています。―啓示 11:15-18; 12:10。

      良いたよりを宣べ伝えるのはだれか

      9 (イ)どのように一部の人々は,良いたよりを宣べ伝えるのは今日におけるすべてのクリスチャンの務めではないと論じるかもしれませんか。(ロ)過去において,エホバはみ言葉を宣べ伝えさせるためにだれをお用いになりましたか。それは今日のわたしたちにとって何を意味しますか。

      9 今日,だれが宣べ伝える業に参加すべきでしょうか。それはすべての人の務めではないとキリスト教世界は考えているようです。また,イエスは良いたよりが宣べ伝えられると言われた時,だれがその業を行なうかを明示されなかったのは確かです。しかしエホバは,そうした業のために,ご自分のみ言葉に信仰を置き,自分の生活にそれを当てはめるようになった人以外のだれをお用いになるでしょうか。エホバはノアの時代に,邪悪な人類の世に対して来たるべき滅びに関する警告を与えることを決意された時,「まことの神と共に歩んだ」一人の男子をお用いになりました。(創世記 6:9,13,14。ペテロ第二 2:5)エホバはイスラエルに預言的な音信が伝えられることを願われた時,「自分の僕である預言者たち」を遣わされました。(エレミヤ 7:25。アモス 3:7,8)献身したイスラエル国民は,エホバの証人から成る国民でした。(出エジプト記 19:5,6。イザヤ 43:10-12)そうです,エホバはご自分の献身した僕たちをご自分の証人としてお用いになるのです。

      10 マタイ 28章19節と20節の言葉遣いから,弟子を作るようにとの命令がすべてのクリスチャンに当てはまることがどのように分かりますか。

      10 マタイ 28章19節と20節にある,弟子を作るようにとの命令は使徒たちだけに与えられたもので,一般のクリスチャンには当てはまらないという人がいました。しかし,イエスが語られた事柄に注目してください。イエスは「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」と言われました。イエスの追随者たちは,イエスが命令した事柄すべてを守り行なうよう,新しい弟子たちを教えなければなりませんでした。さらに,イエスがお命じになった事柄の一つは,『行って弟子を作る』ことでした。確かに,新しい弟子たちはみな,ほかならぬこの命令をも守り行なうことを教えられなければなりませんでした。

      11 (イ)西暦1世紀のクリスチャン会衆はどんな務めを担っていましたか。(ロ)人は救われるために何が必要ですか。その中には何が含まれますか。

      11 西暦1世紀のクリスチャン会衆は,『彼らを闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の卓越性を広く宣明するための,特別な所有物となる神の民』と呼ばれました。(ペテロ第一 2:9)その成員は神の王国について熱心に証ししました。(使徒 8:4,12)ローマにいたすべての「聖なる者」,つまり油そそがれたクリスチャンは,「人は……救いのために口で公の宣言をする」,また「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」と告げられました。(ローマ 1:7; 10:9,10,13)バプテスマの際になされる,救いのためのこの公の宣言には,エホバの王国の良いたよりを公に宣べ伝えることも含まれます。

      12,13 (イ)ヘブライ 10章23節で述べられている「わたしたちの希望を公に宣明すること」には,何が含まれますか。(ロ)詩編 96編は,会衆外で公に宣明する必要をどのように示していますか。啓示 7章9節と10節は,その点をどのように支持していますか。

      12 使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンに次のように書きました。「わたしたちの希望を公に宣明することを,たじろぐことなくしっかり保ちましょう。約束してくださったのは忠実な方だからです」。(ヘブライ 10:23)この公の宣明は,会衆の集会だけに限られてはいません。(詩編 40:9,10)次に挙げる詩編 96編2節,3節,そして10節の言葉からは,会衆外で,つまり諸国民に宣べ伝えるようにとの預言的な命令がはっきり読み取れます。「日から日へとその救いの良いたよりを告げよ。諸国民の中でその栄光を,もろもろの民すべての中でそのくすしいみ業を告げ知らせよ。諸国民の中で言え,『エホバ自ら王となられた……』と」。確かに,マタイ 28章19節と20節,および使徒 1章8節で,イエスは諸国民に宣べ伝えることをクリスチャンに命令されました。

      13 公に宣べ伝えるこの業については,油そそがれたヘブライ人のクリスチャンに対するパウロのその後の言葉の中で言及されています。「この方を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明する唇の実です」。(ヘブライ 13:15)啓示の書の中でも,あらゆる国民から集め出された「大群衆」が,「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と大声で叫んでいる様子が描かれています。(啓示 7:9,10)このように,事物の体制の終結のこの時期に,良いたよりを宣べ伝える業は献身したエホバの証人によって,つまりキリストの霊的な兄弟たちの残りの者と,「大群衆」を構成する羊のようなその仲間たちによって行なわれています。しかし,それらの人たちは実際のところ,どのようにその業を行なうべきなのでしょうか。

      「公にも家から家にも」

      14 イエスはどこで宣べ伝える業を行なわれましたか。そのことからどんな原則を学べますか。

      14 イエスは直接人々に宣べ伝えられました。例えば,イエスは諸会堂で宣べ伝えたと記されています。なぜでしょうか。人々は安息日になるとそこに集まり,聖書の朗読と討議に耳を傾けたからです。(マタイ 4:23。ルカ 4:15-21)イエスは道端でも,海辺でも,山腹でも,市外の井戸端でも,家の中でも人々に宣べ伝えました。人々がいるところならどこででも宣べ伝えたのです。―マタイ 5:1,2。マルコ 1:29-34; 2:1-4,13; 3:19; 4:1,2。ルカ 5:1-3; 9:57-60。ヨハネ 4:4-26。

      15 (イ)イエスは宣べ伝えるよう弟子たちを遣わした時,彼らにどんな指示をお与えになりましたか。(ロ)ある聖書注釈者は,その点をどのように説明していますか。

      15 イエスは宣べ伝えるよう弟子たちを遣わした時にも,彼らを直接人々のもとへ遣わされました。マタイ 10章1節から15節,および40節から42節に記されているイエスの指示を見るとそれが分かります。11節でイエスは,「どんな都市または村に入っても,そこにいるふさわしい人を捜し出し,去るまではそこにとどまりなさい」と述べておられます。エルサレム聖書はこの節を,良い評判があり,それゆえに音信に値する人を捜し出すために,弟子たちが村の中の著名な,あるいは聡明な人に尋ねなければならないかのように,「信頼に値する人に尋ねなさい」と訳出しています。(ウェイマス訳,およびジェームズ王欽定訳もご覧ください。)実際,ある聖書注釈者はこの11節について,そのような説明を加えています。

      16 マタイ 10章11節のイエスの言葉について,より客観的などんな考え方をすると,使徒たちが用いるべき,ふさわしい人々を捜し出すための方法が分かりますか。

      16 しかし,忘れてはならないのは,キリスト教世界の神学者の大部分は家から家へと訪問することはなく,多くの聖書注釈者は自分自身の経験を背景にして聖書を解釈する傾向があるということです。イエスの指示をもっと客観的に考えてみると,イエスは弟子たちが家から家を訪ねて,あるいは公に人々を一人一人捜し出し,彼らに王国の音信を示すことについて語っておられたことが分かります。(マタイ 10:7)それらの人たちの反応は,彼らがふさわしいかふさわしくないかを明らかにするでしょう。―マタイ 10:12-15。

      17 イエスの弟子たちが,推薦や約束に基づいて,ふさわしい人だけを訪ねていたわけではないことを,何が証明していますか。

      17 その点はマタイ 10章14節のイエスの言葉に示されています。「どこでも,人があなた方を迎え入れず,またあなた方の言葉を聴かない所では,その家またはその都市から出る際に,あなた方の足の塵を振り払いなさい」。イエスは,招かれなくても弟子たちが人々を訪ね,彼らに宣べ伝えることについて語っておられました。さらに弟子たちが,音信にこたえ応じた家の人のところに泊まるのを適切なこととみなしたのは確かです。(マタイ 10:11)しかし,主要な事柄は宣べ伝える業でした。ルカ 9章6節にはこう記されています。「そこで彼らは出かけて行き,村から村へと区域を回り,いたるところで良いたよりを宣明し,また治療を行なった」。(ルカ 10:8,9もご覧ください。)恐らく『一杯の冷たい水』や宿舎をも提供して弟子たちを預言者として家に迎え入れたふさわしい人々は,自分たちの報いを失うことはないでしょう。そのような人たちは王国の音信を聞くでしょう。―マタイ 10:40-42。

      18,19 (イ)使徒 5章42節によれば,初期クリスチャンはどのように宣べ伝える業を行ないましたか。(ロ)使徒 20章20節と21節のパウロの言葉は,同使徒が内部的な牧羊の業ではなく,未信者への宣教について語っていたことをどのように示していますか。

      18 クリスチャン会衆が形成された後の使徒たちについて,このように記されています。「そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続けた」。(使徒 5:42。参照資料付き聖書の脚注もご覧ください。)「家から家へ」と訳されているギリシャ語の表現は,カト オイコンです。ここでカタは配分的な意味で用いられています。したがって,弟子たちの宣べ伝える業は,家から家に配分されたと言えるかもしれません。彼らは,あらかじめ取り決められた社交的な訪問をしていたのではありません。同じようなカタの用法は,「都市から都市,村から村へ」というルカ 8章1節の表現にも見いだされます。

      19 それを複数形にした同様のカト オイクースという表現は,使徒 20章20節で使徒パウロが用いています。同使徒はそこで,「公にも家から家にもあなた方を教えることを差し控えたりはしませんでした」と述べています。「家から家に」という表現を「あなたの家で」と訳している翻訳があるので,キリスト教世界の一部の聖書注釈者は,ここでパウロは信者の家庭を牧羊訪問することに言及しているのだ,と言います。しかし,パウロの次の言葉は,同使徒が未信者への宣教について語っていることを示しています。「むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです」― 使徒 20:21。

      20 (イ)エホバの証人は現代において,王国の良いたよりをどの程度宣べ伝えてきましたか。(ロ)ある人々は,宣べ伝える業を続けるという問題をどのようにみなすかもしれませんか。

      20 ですから,人々のもとへ達するためのこの方法は,『王国の良いたより』が「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝え」られるべきこの時代に用いられなければなりません。(マタイ 24:14)エホバの証人は65年余りの間,設立された神の王国の良いたよりを公にも家から家にも熱心に宣べ伝えてきました。現在では210の国や地域でそのようにしています。何と壮大な証言が成し遂げられているのでしょう。しかも,今日の大半の人々は音信を聞いても「反応がなく」,うるさがる人もいるというのに,そうした結果が生じているのです。(マタイ 13:15)

  • 王国を宣べ伝え続けなさい
    ものみの塔 1988 | 1月1日
    • 王国を宣べ伝え続けなさい

      「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:14。

      1,2 (イ)今世紀における最も重要な業は何ですか。それはどの程度遂行されていますか。(ロ)この業にエホバの祝福があることを示すどんな証拠がありますか。

      神の王国の良いたよりを宣べ伝えることは,今世紀における最も重要な業です。全能の神はこの業がいま遂行されることを望んでおられ,その業は現在,預言的なみ言葉の成就として完成の途上にあります。この業にどんな反応を示すかということは,人々のとこしえの運命を左右します。―コリント第一 9:16,23。

      2 この宣べ伝える業にあずかる人の数が増え続け,参加する人々が300万を超えているのを見ると,胸の躍るのを感じます。かつてなく大勢の人々が全時間奉仕に入っています。また,それよりも多くの関心ある人々が,聖書研究に同意し,神のご意志を行なうことを学ぶために努力を傾けています。

      3 ある人々は,良いたよりを宣べ伝える業を続ける必要に関して,どのように言うかもしれませんか。

      3 とはいえ,宣べ伝える業に関する限り,「りっぱなことを行なう点であきらめ」たり,「疲れ」たりする人がいるかもしれません。(ガラテア 6:9。ヘブライ 12:3)そのような人たちは,自分たちの区域内で良いたよりは既に広く宣べ伝えられたとか,区域の人々は自分の立場を明らかにしているし,わたしたちが家を訪問するとうるさがるようになったと言うかもしれません。その区域で宣べ伝える業を行なう人たちは,ほとんど,あるいは全く成果を上げていないので,業は基本的に成し遂げられたように思えるから,続ける必要はないと考えます。このような考え方はどこが間違っていますか。

      なぜ粘り強く行なうのか

      4 わたしたちは何に動かされて,良い反応が見られない区域でも宣べ伝え続けるようになるはずですか。

      4 まず第一に,宣べ伝える業において忠実に忍耐することは,人々がわたしたちの述べる事柄を聴くか否かには依存していないはずです。エレミヤは,話を聴く人はごくわずかしかおらず,多くの人が暴力をふるって反対したにもかかわらず,エルサレムで40年間宣べ伝えました。エレミヤが粘り強く行なったのはなぜでしょうか。それは,エホバがお命じになった業を行なっていたからです。それに加えてエレミヤは,エルサレムに生じようとしていた事柄を預言から知っていたので,語り続けざるを得ませんでした。(エレミヤ 1:17-19)「それはわたしの心の中にあって,わたしの骨の中に閉じ込められた燃える火のようになりました。わたしは抑えるのに疲れ,それに耐えることができませんでした」と,エレミヤは述べました。(エレミヤ 20:7-10)わたしたちの状況もそれに似ています。人の住む全地に「良いたより」を宣べ伝えなければならない,とイエス・キリストを通して命じられたのは,エホバです。(マタイ 24:14)人々が聴こうとしない時は,わたしたちが正しい事柄を粘り強く行なうことによって,エホバへの愛と専心の深さを示すための機会となります。(ヨハネ第一 5:3)その上,近い将来に人類を待ち受けている事柄を黙想するなら,どうして隣人に警告するための努力を差し控えることができるでしょうか。―テモテ第二 4:2。

      5 (イ)宣べ伝える業において忍耐すべきほかのどんな理由がありますか。(ロ)宣べ伝える業はどのように裁きの根拠となりますか。

      5 さらに,エレミヤが行なった宣べ伝える業は,実質的に裁きの業でした。西暦前607年にエルサレムが倒壊した時,死んだ人たちや捕虜にされた人たちの中で,なぜ自分の身にこんなことが生じるのか分からないと言い得た人は一人もいませんでした。エレミヤはそれに先立つ40年間,エホバへの反逆を続けるなら,まさしくそのような結果が生じるという警告を与えていたのです。(エゼキエル 2:5と比較してください。)今日でも同様に,「あらゆる国民に対する証し」として良いたよりを宣べ伝えることは,裁きの根拠となります。使徒パウロは,「神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者」にキリスト・イエスが報復されると述べて,その点を明らかにしています。(テサロニケ第二 1:8,9)人々は良いたよりに対する反応によって裁かれるのです。したがって,宣べ伝える業は終わりまで,はっきり分かるように声高に続けなければなりません。(啓示 14:6,7)この肝要な音信ができるだけ頻繁に人々にもたらされることを,何にも妨げさせてはなりません。そのため,献身したすべてのエホバの僕には大きな責任が生じます。

      6 わたしたちの音信が広く知られているとしても,宣べ伝え続ける必要があるのはなぜですか。

      6 確かにわたしたちは,自分の地域で良いたよりを既にかなり広く宣べ伝えてきたかもしれません。しかし,世界では実に多くの出来事が生じているので,大勢の人がわたしたちの音信を聞いているとしても,わたしたちが宣べ伝えるのをやめてしまえば,その音信はすぐに忘れられてしまうでしょう。革命,テロ活動,ストライキ,醜聞など,広く報道されている出来事について考えてください。それに,人気のある娯楽や他の気晴らしには数多くの種類があります。人々の注意をほかのことに向けさせるこうした事柄があるとしても,わたしたちは人々の前に自分たちの音信を絶えず掲げるため,宣べ伝え続けなければなりません。

      7 今日の多くの人の反応は,イザヤの預言に対するイスラエル人の反応とどのように似ていますか。しかし,これによって宣べ伝える業が妨げられてはなりませんが,それはなぜですか。

      7 多くの人がわたしたちを無視しようとするときには,預言者イザヤがどんな人々に宣べ伝えなければならなかったかを思い起こすべきです。エホバはイザヤにこう言われました。「それは反逆の民,不真実の子ら,エホバの律法を聞こうとしなかった子らだからである。彼らは,見る者たちに向かって,『あなた方は見てはならない』と言い,幻を受ける者たちに向かって,『あなた方はわたしたちのために正直なことを幻で見てはならない。滑らかなことをわたしたちに話せ。欺きを幻で見よ。道からそれ,道筋から外れよ。ただ我々のために,イスラエルの聖なる方をいない者とせよ』と言う」。それにもかかわらず,イザヤは忠実な態度で,「エホバは裁きの神……である。この方を待ち望む者はみな幸いである」と人々に告げました。(イザヤ 30:9-11,18)わたしたちも同じようにしなければなりません。粘り強く行なう限り,わたしたちの音信はある程度,浸透してゆきます。それに注意を払う人も,払わない人もいるでしょう。それでも,すべての人が聞く機会を与えられたのです。

      『人はどうして聞くでしょうか』

      8 人々が真理に反対する立場を取っているように思えても,人々の考えはどんな要素によって変化する可能性がありますか。

      8 ある区域の人々ははっきりした立場を取り,断固としてわたしたちの音信を退け,音信に反対さえしているように思えるでしょう。しかし,人々の生活の状況は絶えず変化しているということを忘れてはなりません。翌日,翌週,翌月には新しい問題や状況に直面し,そのために真理を受け入れるようになるかもしれません。世界で生じている頭の痛い問題について聞くこともあるでしょう。あるいは,経済状態が悪化したり,病気や家族の死に直面したりする場合もあるでしょう。そうしたことが発端となって覚醒し,自分たちの苦しみの理由を知りたいと思う可能性もあります。もしわたしたちが宣べ伝え続けるなら,人々はどこに行くべきかを知るようになります。

      9 わたしたちの宣べ伝える業は,災害地区の救助隊員の業にどのように例えることができますか。

      9 わたしたちの状況は,地震の後などの災害地区で働く救助隊員に例えることができるでしょう。ある人たちは,発見される生存者が比較的少ない地区で働いているかもしれません。しかし仲間の作業員が別の地区でより多くの生存者を発見していても,手をゆるめたり,やめたりすることはないでしょう。むしろ,救助隊員は皆,割り当てられた箇所に生存者がもういないように見えても,たゆまず粘り強く仕事を続けます。そうしていれば,もう一人生存者の見つかる時もあります。捜索が打ち切られるのは,時間の経過からして救援できる見込みのないことがはっきりした場合だけです。わたしたちの捜索はまだ打ち切られていません。そして,今でもこの古い世から救出され,「大患難」を生き残りたいと願う人々が幾千また幾千と見いだされています。(啓示 7:9,14)徹底的な業が行なわれ,大半の人々がこたえ応じない場所でも,やはりある程度の成果は生み出されます。ほかにも,宣べ伝え続けるべき付加的な理由があります。

      10 ローマ 10章13節と14節によれば,人々が真理を探し求めたいときどこに行くべきかは,どのような場合にのみ分かりますか。

      10 「エホバの名を呼び求める者はみな救われる」ということを,絶えず人々に思い起こさせる必要があります。しかし,パウロがローマ人への手紙の中で続けて述べているように,「人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか。また,宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか」。(ローマ 10:13,14)この言葉は,粘り強く神の王国の良いたよりを宣べ伝える必要性をわたしたち一人一人に銘記させるはずです。

      11 わたしたちは,成長して大人に達する若い人たちに対してどんな責任を負っていますか。

      11 終わりの時の経過に伴い,子供たちが誕生し,成長して大人に,つまり責任を持つ年齢に達しています。大抵の場合,それらの若い人々は真理に何の関心も払ってきませんでした。彼らの親は音信を退け,ことによるとその音信に反対する事柄を語ったかもしれません。しかし,今それらの若者は世界情勢について,将来について,人生の目的について真剣に考えられる年齢に達しています。救われるためには,彼らもエホバのみ名を呼び求める必要があります。とはいえ,「人は……自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか」。(ローマ 10:14)多くの場合,それら十代の人々は真理によく反応するので,わたしたちはそのような人たちを探し出して,宣べ伝える必要があります。

      12 わたしたちが宣べ伝える業を続けることは,どのような意味で,エホバの憐れみの表われとなりますか。

      12 宣べ伝えるための道が今なお開かれているという事実は,エホバの憐れみの表われです。使徒ペテロはこのように書いています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人々が遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなた方に対して辛抱しておられるのです。さらに,わたしたちの主の辛抱を救いと考えなさい」。(ペテロ第二 3:9,15)あらゆる種類の人が救われるようエホバが願っておられることは,エホバが裁きを執行するまでの時間を忍耐強く設けておられることだけではなく,ご自分に心を向けて救われるよう人々に絶えず訴えておられることにも表わされています。(テモテ第一 2:4)良いたよりを宣べ伝え続けるわたしたちは,神の憐れみを際立たせ,そのようにして神を賛美しているのです。

      流血の罪を避ける

      13,14 (イ)わたしたちの宣べ伝える業は,エゼキエルの預言に述べられている見張りの者の業にどのようになぞらえることができますか。(ロ)パウロが,自分は「すべての人の血について潔白である」と言い得たのはなぜですか。エホバの証人は今日,どのようにした場合にのみ,そう言えますか。

      13 来たるべき神の裁きについて民に警告するという,エホバの献身した証人たちの責任は,エゼキエルの時代にエゼキエルの担っていた責任になぞらえることができます。エゼキエルはイスラエルの家に対する見張りの者として指名されました。イスラエル人が悪い道から離れないなら,刑の執行が臨むということを彼らに警告するのがエゼキエルの受けた割り当てでした。見張りの者であるエゼキエルが警告を鳴り響かせなくても,やはり邪悪な人々に刑の執行が臨みますが,彼らの血は怠慢な見張りの者の頭に帰するのです。この点に関してエホバは,裁きの執行に対するご自分の態度を次のように示しておられます。「わたしは,邪悪な者の死ではなく,邪悪な者がその道から立ち返って,実際に生きつづけることを喜ぶ。立ち返れ。あなた方の悪の道から立ち返れ。なぜなら,イスラエルの家よ,どうしてあなた方が死んでよいであろうか」― エゼキエル 33:1-11。

      14 使徒パウロは見張りの者としての自分の責任を認め,エフェソスの長老たちにこう述べています。「ですから,今日この日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなた方に証人となってもらいます」。パウロがこのように言い得たのはなぜですか。パウロは,「わたしは何一つ差し控えることなく,神のみ旨をことごとくあなた方に伝えたからです」と続けています。(使徒 20:26,27)今日の見張りの者級である,イエス・キリストの油そそがれた追随者の残りの者の場合も同じです。その人たちは皆,また今の事物の体制の終わりを生き残って地上で永遠の命をいただくという希望を抱く300万以上の仲間も,神の王国の良いたよりを宣べ伝えると共に,来たるべき神の裁きの執行について警告する業の手を決してゆるめてはなりません。このようにして彼らは,流血の罪を避けるのです。

      15 エゼキエル 9章によれば,印を付けられたのはだれですか。また,印を付けたのはだれですか。

      15 今日における宣べ伝える業は,エゼキエル 9章の中で預言的に描写されています。この場合,エルサレムの都に対するエホバの処罰は定められていました。その裁きの執行に先立ち,亜麻布をまとい,腰に書記官のインク入れを帯びた人に対して,都の中を行き巡り,そこで行なわれている忌むべき事柄のために嘆息している人々すべての額に印を付けるよう告げられます。印を付けるこの業が完成するや,都の中にいる人は,生き残るための印を付けられた人を除いてすべて処刑されるのです。印を付ける業を首尾よく完成した時,この人は,「わたしはあなたがわたしに命じられた通りに行ないました」と報告しています。(エゼキエル 9:11)最後まで忠実に自分の割り当てを果たしたのです。

      16 (イ)亜麻布をまとった人は,今日のだれを表わしていますか。(ロ)エホバの主権の立証という論争点は,宣べ伝え続けるようどのようにわたしたちを促しますか。

      16 亜麻布をまとったこの人は,キリストの追随者の油そそがれた残りの者を表わしています。また,その人々には,「ほかの羊」の「大群衆」が加わっています。今日における大きな論争点は,エゼキエルの時代と同様,エホバの主権の立証です。全能者なる神エホバの大いなる日の戦争における現在のこの邪悪な事物の体制の終わりに関して,エホバは,「諸国民は,わたしが……エホバであることを知らなければならなくなる」と述べておられます。(啓示 7:9。ヨハネ 10:16。エゼキエル 39:7)諸国民がそのことを知るためには,地上のエホバの僕たちがあらゆる国民に対する証しとして,神のみ名と目的を宣べ伝え続けることがどうしても必要です。

      17,18 (イ)宣べ伝え続けることは,どのような意味で,ずっと見張っているための助けとなりますか。(ロ)宣べ伝える業をエホバが終わらせる時,わたしたちは皆エホバにどんな報告をしたいと思いますか。どのようにした場合にのみ,そうできますか。

      17 わたしたちは王国の良いたよりを宣べ伝え続けることにより,目覚めている状態を保ちます。そして,エホバのみ名と目的の重要性を意識し続けます。手をゆるめるなら,わたしたちの王国の希望は弱まり,「生活上の思い煩いや富や快楽に」さらわれて『何も完成させない』でしょう。(ルカ 8:14)熱心に粘り強く「良いたより」を宣明することにより,わたしたちは主人であるイエス・キリストの次の命令に忠実に従います。「ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなた方は,定められた時がいつかを知らないからです。しかし,わたしがあなた方に言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」― マルコ 13:10,33,37。

      18 ですから,エホバが時を許しておられる限り,皆で『嘆息している者たち』を粘り強く探し出しましょう。油そそがれた残りの者であろうと,「ほかの羊」であろうと,わたしたちすべてが,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で王国のこの良いたよりを宣べ伝えるという割り当てを忠実に果たすことができますように。(マタイ 24:14)エホバご自身が「大患難」を開始させてこの業を終了させる時,わたしたち一人一人がエホバに対し,『わたしたちはあなたが命じられた通りに行ないました』と言うことができますように。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする