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目ざめよ! 1999
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聖書の見方

誇るのは間違いですか

誇りは七つの大罪の第一のものである,という昔ながらの格言があります。とはいえ今日,そんな考えはあまりにも時代後れだとする人が大勢います。21世紀を迎えようとしている今,誇りは罪ではなく価値あるものとみなされているのです。

しかし,聖書の中で言及されている場合,誇りは大抵,好ましくない意味合いを持っています。聖書の「箴言」の中だけでも,誇りを非とする箇所が幾つかあります。例えば,箴言 8章13節は,「自分を高めること,誇り,悪い道,ゆがんだ口をわたしは憎んだ」と述べています。箴言 16章5節には,「すべて心の高慢な者はエホバにとって忌むべきもの」とあり,18節では,「誇りは崩壊に先立ち,ごう慢な霊はつまずきに先立つ」と警告されています。

害となる誇り

聖書の中で非とされている誇りは,過度のうぬぼれ,自分の才能や美しさ,富,教育,地位などについての常軌を逸した優越感と定義できます。それは,侮べつ的な振る舞い,自慢すること,不遜またはごう慢な態度に表われるかもしれません。自分を重要視し過ぎると,必要な矯正を受け入れることができなかったり,過ちを認めることや謝罪すること,譲歩すること,面子を失うことを嫌がったり,だれかの言動にむやみに腹を立てたりするかもしれません。

高慢な人は,いつでも物事が自分のやり方でなされるように,さもなければ何もなされないようにと言い張るかもしれません。そのような態度がしばしば何らかの個人的な対立を引き起こすことは容易に理解できます。人種的,あるいは国家的誇りによって数え切れないほどの戦争や流血が生じてきました。聖書によると,誇りという問題のために,神の霊の子の一人は反逆し,自らサタン悪魔となってしまいました。クリスチャンの長老の資格に関してパウロはこう助言しています。「また,新しく転向した人であってはなりません。誇りのために思い上がり,悪魔に下された裁きに陥るようなことがあってはいけないからです」。(テモテ第一 3:6。エゼキエル 28:13-17と比較してください。)誇りがこうした結果になるのであれば,神が誇りを非としておられるのも当然です。しかし,『誇ることが正当な場合もあるのではないでしょうか』と尋ねる人もいるかもしれません。

正当な誇りがあるか

「誇りとする,歓喜する,誇る」と訳される動詞カウカオマイは,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で良い意味にも悪い意味にも用いられています。例えばパウロは,「神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜」できると述べています。また,「誇る者はエホバにあって誇りなさい」とも勧めています。(ローマ 5:2。コリント第二 10:17)これは,自分たちの神としてエホバを誇りとすることを意味します。その感情がエホバの良い名や評判について歓喜することにつながるのです。

例えで考えてみましょう。中傷された時に良い名を擁護したいと思うのは間違いでしょうか。もちろん間違いではありません。自分の家族や自分が敬愛している人について人々が不当なことを言う場合,憤慨して,弁護したいという気持ちに駆られるのではないでしょうか。「[良い]名は豊かな富にも勝って選ばれるべきもの」と聖書は述べています。(箴言 22:1)ある時,全能の神はエジプトの一人の高慢なファラオにこう言われました。「この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである」。(出エジプト記 9:16)ですから,神はご自分の良い名や評判を大いに喜んでおられ,それに対して熱心であられます。わたしたちも自分の良い名や評判を守ることに関心を抱くことができます。もっとも,その動機は虚栄心や利己的な誇りであってはなりません。―箴言 16:18。

敬意は健全な関係に不可欠なものです。社会生活や仕事上の関係は,仲間に対する信頼がなくなると損なわれます。同じように,共同で行なう活動や提携関係も,推進者の内のたった一人が自分自身や仲間の評判を落とすようなことをするだけで台なしになることがあります。どんな目標であれ,それを達成するには評判を維持しなければなりません。クリスチャン会衆の監督が外部の人々から「りっぱな証言」を得ていなければならない理由の一つは,そこにあります。(テモテ第一 3:7)監督たちが良い名を得たいと願う動機は,誇らしげに自分を高めることではありません。品位ある仕方でりっぱに神を代表する必要があるからです。結局のところ,外部の人からあまりよくない証言を受けている奉仕者をどれほど信頼できるでしょうか。

自分が成し遂げたことを誇るのはどうでしょうか。例えば,親は子どもが学校で良い成績を収めていれば喜びを感じることでしょう。そのような成績は,ふさわしい満足感をもたらします。パウロもテサロニケにいる仲間のクリスチャンに手紙を書いた時,成し遂げられた事柄を歓んでいることを表明しました。「兄弟たち,わたしたちは,あなた方について常に神に感謝しなければなりません。それは当然のことなのです。あなた方の信仰が大いに成長し,あなた方それぞれみんなの愛が,相互に増し加わっているからです。その結果,わたしたち自身が,神の諸会衆の間であなた方のことを誇りにしています。あなた方が耐えているあらゆる迫害と患難におけるあなた方の忍耐と信仰について思うからです」。(テサロニケ第二 1:3,4)確かに,家族が成し遂げた事柄に喜びを感じるのは自然なことです。では,悪い誇りと良い誇りはどう区別できるのでしょうか。

自分の評判を守りたい,成功を収めたい,またそうした成功を喜びたいと思うのは間違ったことではありません。しかし,うぬぼれやごう慢,また自分や他の人について自慢することは神から非とされています。だれであれ誇りのために「思い上がる」ようになったり,「自分のことを必要以上に考え」はじめたりするなら,実に残念なことです。エホバ神と,エホバが自分たちのためにしてくださった事柄とを誇ることは別として,クリスチャンには,だれかや何かについて誇ったり自慢したりする余地はありません。(コリント第一 4:6,7。ローマ 12:3)預言者エレミヤはわたしたちが守るべき優れた原則を次のように示しています。「自慢する者はこのことのゆえに,すなわち洞察力を持っていることと,わたしについて,わたしがエホバであり,愛ある親切,公正そして義を地に行なう者であるという知識を持っていることとのゆえに自慢せよ」― エレミヤ 9:24。

[20ページの図版]

「教皇インノケンティウス10世」,ドン・ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・ベラスケス作

[クレジット]

Scala/Art Resource, NY

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