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目ざめよ! 1998
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聖書の見方

独身制はクリスチャン奉仕者に対する要求ですか

独身(セリバシー)とは,厳密に言えば,結婚していない状態のことです。しかし,新ブリタニカ百科事典(英語)によると,この語は「普通,宗教当局者,宗教の専門家,敬虔な信者としての独身者の役割に関して用いられ」ます。“独身者<セリベイト>”という語は,「神聖な誓いをした,つまり快楽を放棄した結果,あるいは自分の宗教上の立場または宗教に対する自分の真剣さを考えるなら独身のほうが望ましいと信じた結果,結婚しないでいる人」を指しています。

著名な宗教の中には,過去において,独身を聖職者になる条件としていたものもあります。しかし,キリスト教世界の諸宗派の中でもカトリック教会ほど独身制が際立った特色になっている教会はほかにありません。今日では,カトリックの独身制を巡って大きな論争が巻き起こっています。ウィルソン・クォータリー誌は次のように指摘しています。「教会は司祭の補充と保有の問題をかかえているが,ここ数十年間調査を重ねた結果,その問題の根底にあるのは,12世紀以来カトリック司祭に要求されてきた強制的な独身であることが判明した」。社会学者のリチャード・A・シェーンハーは,「歴史的事実と社会の変化は,独身の男性しか司祭職に就けないカトリックの制度に不利に働きつつある」と述べています。聖書は独身に関してどんな見方を示しているでしょうか。

結婚か独身か

歴史を通じて,様々な宗教に属する数多くの敬虔な男女が,自ら選んで独身を保ちました。なぜでしょうか。そういう人たちは多くの場合,現世的で物質的なものは“悪の根源”であると信じていたからです。この考えは,完全な禁欲によってのみ霊的清さが得られるという哲学を生みました。しかし,それは聖書の見方ではありません。聖書の中では,結婚は神から与えられた清くて神聖な贈り物とみなされています。創造に関する創世記の記述は,結婚を,神の目に『良い』ものとはっきり描写しており,決して神との霊的な清い関係を妨げるものとはしていません。―創世記 1:26-28,31; 2:18,22-24。箴言 5:15-19もご覧ください。

使徒ペテロや,初期クリスチャン会衆の中で権威ある立場にあった他の是認された神の僕たちも既婚の男性でした。(マタイ 8:14。使徒 18:2; 21:8,9。コリント第一 9:5)そのことは,使徒パウロが会衆の監督たち,つまり“司教”たちの任命に関してテモテに指示した事柄からも明らかです。パウロはこう書いています。「司教は非難されるところのない人で,一人の妻の夫でなければならない」。(下線は本誌。テモテ第一 3:2,「改訂標準訳」,カトリック版)注目すべきなのは,どんな形にせよ“司教”が結婚するのはふさわしくない,とはどこにも述べられていないことです。パウロは単に,“司教”は多妻主義者であってはならないと述べたにすぎないのです。既に結婚しているのであれば,妻は一人しかいないはずです。実際,マクリントクとストロング共編の「聖書,神学,教会に関する著作百科事典」は,「新約聖書のいかなる記述も,福音天啓法下の聖職者の結婚を禁止するものと解釈することはできない」と結論しています。

聖書は結婚を誉れあるものとする一方,独身でいることを自らの意志で決定したのであれば,それを決して非とはしていません。ある人にとっては望ましい道であるとして,独身を勧めています。(コリント第一 7:7,8)イエス・キリストは,よく考えて独身の道を選ぶ男女がいるとおっしゃいました。(マタイ 19:12)なぜでしょうか。結婚には,霊的成長を妨げる本質的に不純なものが何かあるからではありません。神のご意志の中に時代の緊急性を読み取り,神のご意志を行なうことに努力を集中することのみを目的として,その道を選ぶのです。

独身制への道

しかし,キリストの時代のあと幾世紀かの間に,事態は変わりました。結婚するためにドミニコ会の司祭職を離れたデービッド・ライスは,西暦300年ごろまで,「聖職者には既婚者も独身者もいた」と述べています。その後,自称クリスチャンたちは,ある宗教著述家が「ギリシャ思想と聖書の思想の混合物」と呼んだものに影響されるようになりました。その思想は,セックスと結婚に関して歪んだ見方を生み出しました。

もちろん,中には純粋に,「神の王国の業に打ち込むための完全な自由を得るべく」独身を保った人もいます。しかし,自分たちが吸収していた異教の哲学からより大きな動機づけを得た人もいます。新ブリタニカ百科事典はこう述べています。「性交は汚れた行為で神聖さとは相いれないという信条が[自称キリスト教教会]に生じ,独身制の実施を目指す強力な動機づけとなった」。

4世紀には教会は,「聖体拝領の前夜に既婚司祭が肉体関係を持つことを禁じた」と,ライスは述べています。教会が聖体拝領を毎日行なうことに決めたとき,司祭たちは永久に性交を控えなければならないことになりました。やがて司祭の結婚は全面的に禁止されました。こうして独身は,教会の聖職者になろうとする人すべてに対して必須の条件となりました。

使徒パウロは物事がまさにそのように進展することについて警告し,「霊は,終わりの時の間,ある人たちが信仰を放棄し,欺きの霊や悪霊からの教理に耳を傾けるようになることをはっきり述べている。……彼らは,結婚は禁じられていると言う」。―テモテ第一 4:1,3,「エルサレム聖書」。

「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」と,イエス・キリストは言われました。(マタイ 11:19)神が定めた規準からそれることの愚かさは,その働き,つまり結果によって証明されてきました。作家のデービッド・ライスは,独身制という問題について世界中の多くの司祭にインタビューしました。インタビューを受けた人の中にはこう言った人もいます。「司祭職にとどまって,できる限り良いことを行ないます。そして性関係を持つ用意のあることを示す,私を愛慕する,献身的な女性のその気持ちを慎み深く受け入れます」。

ライスはマタイ 7章20節を引用して,「『その実によってそれらの人々を見分けるのです』とイエスは言われた」と述べ,独身が強いられた結果生じた悲劇について,「強制的な独身が結んだ実は,二重生活を送る大勢の男性,破綻した人生を送る大勢の女性,それに聖職者である父親に見捨てられた大勢の子供である。自ら傷ついた司祭がいることは言うまでもない」と述べました。

誉れある結婚は神からの祝福です。独身制は人を霊的な破滅に至らせるものとなりました。しかし,自らの意志で独身を選択することは,神聖さや救いのために不可欠というわけではないものの,ある人にとっては,実りの多い,霊的に満たされる生き方なのです。―マタイ 19:12。

[16ページの図版のクレジット]

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