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  • この畏怖の念を抱かせる幼児の頭脳!
    目ざめよ! 1987 | 5月22日
    • この畏怖の念を抱かせる幼児の頭脳!

      脳は,その発生の段階から畏怖の念を抱かせます。受精して3週間後には12万5,000の細胞から成る脳が発生し,その後1分間に25万という勢いで増殖します。どの胎児もその小さな脳は爆発的に成長し続け,誕生するころになると脳細胞の数はおよそ1,000億,この銀河系宇宙にある星の数ほどになります。

      しかし,胎児の脳は誕生より数か月前,まだ胎内にいる時から機能し始めます。胎児が水に囲まれた状態で感知できる事柄は,その脳に刻み込まれてゆきます。胎児は物音を聞き,味を覚え,光を感じ,押されると反応し,学び,そして記憶します。母親の感情に影響される場合もあります。胎児は,優しい言葉や静かな音楽を聞くと穏やかになり,怒った言葉やロック音楽を聞くと動揺します。母親の心臓の律動的な鼓動は胎児の感情を落ち着かせますが,もし恐れが原因で母親の心臓の鼓動が速くなると,胎児の心臓の鼓動はすぐに2倍の速さになります。母親が悩んでいれば,その不安はおなかの子にも伝わり,母親の気持ちが穏やかであれば,おなかの子も平安です。母親がうれしくてたまらないときは,おなかの子が喜んで跳ねることもあるのです。こうした様々な事柄で,胎児の脳は忙しく働きます。胎内にいる時でさえ,胎児の脳は畏怖の念を抱かせます。

      誕生後も新たな神経単位は形成されるのでしょうか。最新の研究によると,形成されないということです。しかし,各神経単位が互いに何兆もの新しい連接を作りながら,大きさの点で飛躍的な成長を続けることは確かです。誕生時における赤子の脳の大きさは,大人の脳の4分の1にすぎませんが,最初の1年で3倍の大きさになります。そして,十代に達する何年も前に,1.4㌔という大人の脳の重さになります。とはいえ,子供の脳に大人の持つ知識が入っているというわけではありません。知識の量は,脳の重さや脳細胞の数で決まるのではなく,むしろ,脳の各神経単位の間にできる,シナプスと呼ばれる連接の数と関係があるようです。

      そしてその数たるや,畏怖の念を抱かせます。最終的には1,000兆という驚異的な数の連接が作られることもあるのです。それは1の後に0を15付けた数になります。もっとも,それは五感その他の感覚を通して情報を取り入れることにより,脳が十分に刺激されるならばの話です。環境によって精神と感情両面の活動が刺激されなければなりません。その刺激が神経の樹状突起の細かい回路網を作り上げてゆくからです。樹状突起は,神経単位から伸びて他の神経単位と連接を作る,根のような形をした微小な糸状のものです。

      それらの連接の形成には,時間の要素も関係しています。それらの連接は,年を取ってからよりも若い時のほうがずっと速く形成されます。“老犬に新たな芸は仕込めない”ということわざは真実ではありません。しかし,年老いた犬に新しい芸当を教え込むのがより難しいのは事実です。年を取ると,神経単位間の連接は,形成されるのが遅くなり,失われるのが速くなりますが,連接の形成に要する事柄は子供の場合と同じです。つまり,変化に富んだ,刺激のある環境の中に置かれる必要があるのです。頭脳は活動し続けなければなりません! あきらめて精神面で型にはまってしまってはなりません。頭脳に引退があってはならないのです。

      しかし,畏怖の念を抱かせるのは幼児期の脳の発達です。幼児期の脳は,周囲の物事を吸収するスポンジです。幼児は,2歳になるまでに,言葉を聞いているだけで,複雑な言語を覚えます。もし2か国語を聞くなら,両方とも覚えます。3か国語が話されているなら,3か国語全部を覚えます。ある男の人は自分の子供たちに一度に5か国語 ― 日本語,イタリア語,ドイツ語,フランス語,および英語 ― を教えました。また,ある婦人は自分の娘に数か国語を聞かせましたが,その子は5歳のころに8か国語を流暢に話せました。大人にとって言語を学習するのは普通難しいことですが,幼児にはそれがごく自然にできます。

      言語能力は,幼児の脳に遺伝的に組み込まれた能力の一例にすぎません。音楽や美術の才能,筋肉運動の協同,意義や目的の必要意識,良心や道徳的価値判断,利他的傾向や愛,信仰心や崇拝の衝動 ― すべてこれらは脳の特定の神経系統に依存しています。(使徒 17:27をご覧ください。)言い換えれば,遺伝的に確立された神経単位の幾つもの回路網は,これらをはじめ他の能力や潜在力を開発できるようあらかじめ特別にプログラムされているのです。

      しかし子供の誕生の時点では,それらはただの潜在力,可能性,傾向でしかない,ということを忘れないでください。それらを開花させるためには,情報を入力しなければなりません。それらの能力が現実のものとなるには,適切な経験や環境や勉強が不可欠です。さらに,幼児の場合は特に,そのような影響を最も効果的に受けさせるための正しい予定表というものもあります。

      しかし,周囲の状況が整っていて,時もちょうど良いと,様々な驚異的な事柄が生じます。幾種類かの言語を覚えるだけでなく,いろいろな楽器の演奏もできるようになり,種々の運動能力も養われ,良心も鍛えられ,愛を吸収することもなされ,真の崇拝のための基礎も置かれます。幼児の脳に良い種がまかれ,親の愛によって水が注がれると,こうした事柄だけでなく,もっともっと多くのことが生じます。

  • 天才児にならせようとする努力
    目ざめよ! 1987 | 5月22日
    • 天才児にならせようとする努力

      「もし我々が,子供ではなく幼児を教えたなら,世界には,アインシュタイン,シェークスピア,ベートーベン,レオナルド・ダ・ビンチといった知性の巨匠があふれるようになるであろう」― グレン・ドーマン博士,人間潜在力開発研究所所長。

      「したがって,生まれつきの天才はおらず,生まれつきの愚者もいない。すべてはその重要な年月の間の脳細胞への刺激にかかっている。その年月とは,誕生後の3年間である。幼稚園では遅すぎる」― 井深 大,著書「幼稚園では遅すぎる」。

      幼児の脳には,畏怖の念を抱かせる能力が秘められているので,親は決定を迫られます。いつ特別な訓練を始めますか。何を教えますか。どの程度? どれくらい速く? 中には目覚ましい成果の見られた場合もありました。2歳から5歳の小さな子供が本を読み,文字を書き,2か国語以上の言語を話し,バイオリンやピアノでクラシック音楽を演奏し,馬に乗り,泳ぎ,体操の演技をするのです。

      ほとんどの場合,達成目標は身体面よりもむしろ精神面にあります。2歳のある幼児は100までの数字を数えますし,正確に足し算をします。また,2,000の単語を知っており,簡単な文章を読みます。しかも正確な発音を覚えました。ある3歳の子供は,図表の上で細胞の各部を指摘されると,ミトコンドリア,小胞体,ゴルジ体,中心小体,液胞,染色体,などとその名称を言います。別の3歳の子供は,バイオリンを演奏します。4歳のある子供は,日本語とフランス語を英語に翻訳します。幼い子供たちに算数を教えているある教師は,「もし私が1セント銅貨を59枚床に落としたとしたら,私の受け持っている子供たちはすぐに,それらが58枚ではなく,59枚であると言うでしょう」と述べています。

      そのような徹底的な訓練に熱心な人もいますが,そのことについて疑念を抱く人もいます。その分野の専門家たちの代表的な反応は次のようなものです。

      「子供を幼いうちに学究的技能の面で訓練し始めることに関して,証拠は概してあまり好ましいものではない。訓練できるという証拠は十分にあるが,問題は,できるかどうかということよりもむしろ,後々に及ぶ影響はもちろん,現に今どんな影響が見られるかということである」。

      「それは子供を小さなコンピューターに変えてしまう理論であり,子供に息つく暇も与えない」。

      「子供というものは,自ら率先し,身の回りの事柄を探索することによって学ぶのである。我々は[精神面の発育を無理に促すことによって,感情面の発育や社会的な技量など]進行中の他の面の発育を妨げることになるかもしれない」。

  • お子さんを正しい方法で訓練してください ― しかも,幼い時から!
    目ざめよ! 1987 | 5月22日
    • お子さんを正しい方法で訓練してください ― しかも,幼い時から!

      「確かに幼児期は最も充実した時期である。この時期はありとあらゆる方法で教育のために活用されるべきである。人生のこの時期を無駄に過ごしてしまうと,もう絶対に取り返しはつかない。初期の年月をおろそかにせず,細心の注意を払って幼児を教化するのは我々の義務である」― アレクシス・カーレル博士。

      頭と心の両方のプログラムを作る必要があります。人は頭脳の働きによる目覚ましい業績に畏怖の念を抱くかもしれませんが,神は心をご覧になります。頭に知識があれば思い上がりやすくなり,心に愛があれば築き上げられます。明晰な頭脳には愛のこもった心が必要です。「心に満ちあふれているものの中から口は語るからです」。善行や悪行もやはりこの比喩的な心臓に由来します。(マタイ 12:34,35; 15:19。サムエル第一 16:7。コリント第一 8:1)ですから,子供の頭脳を刺激することは重要ですが,さらに重要なのは子供の心に愛を教え込むことです。

      このための機能は生まれつき備わっています。それは絆と呼ばれています。母親は赤ちゃんを抱いてあやし,なでたり,ささやきかけたりします。赤ちゃんのほうは一心に母親を見つめます。絆が生じ,母性愛は高まり,赤子は安心します。「出生直後の数分ないし数時間は感じやすい期間であり,赤子と親が愛着を培うのに最善の時である」と考える専門家もいます。

      良いスタートをきったとしても,それはスタートにすぎません。赤子は無力で,当面必要とするものは身体的なものも感情的なものも,おもに母親からもらいます。赤子は食物がなければ飢え死にしますが,感情面でも飢えて衰弱する場合があります。あやし,抱き締め,揺すり,戯れ,かわいがる ― こうしたことはすべて脳の発達を刺激します。こうした刺激は脳のための滋養物に例えられてきました。それがなければ脳は活気を失い,その発育は生涯止まったままになります。また,この種のことがおろそかにされたため,冷淡な子供になり,非行や暴力に走るという場合もあります。ですから,母親として尽くすことは,子供のためにも社会のためにも優先されるべきことであり,どんな世俗の職業よりも重要です。

      父親の役割

      父親も除外されるべきではありません。もし父親が出産に立ち会うなら,その時から父と子の絆が結ばれるようになります。数週間あるいは数か月すると,父親の果たす役割の影響は急速に増大します。その点については,幼児教育の専門家であるT・ベリー・ブレイズルトン博士が説明しています。

      同博士は,「子供には母親と父親が必要であり,父親がいれば違いも出てくる。赤子にとって,積極的で何かと構ってくれる父親がいることは,単に母親からの世話をより多く受けることと同じではない」と述べ,母親と父親ではそれぞれ子供の扱い方が異なることを示して,「母親には赤子を優しく控え目に扱う傾向があったが,父親のほうは母親以上に赤子と戯れ,くすぐったり,つついたりしていた」という報告を引用しています。

      しかし,父親は単なる楽しい遊び以上のものを子供に与えます。同博士はこう述べています。「積極的な父親がいれば,子供は成長した時に,学校で比較的良い成績を収め,ユーモアを解する心を養い,ほかの子供たちと仲良くやってゆけるようになる。そのような子供には自信があり,学習意欲もある。6歳か7歳にもなれば,比較的高い知能指数を示すだろう」。

      エホバ神は,父親と息子の間に教育のための緊密な関係を定めておられます。「わたしが今日命じているこれらの言葉をあなたの心に置かねばならない。あなたはそれを自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さねばならない」という命令です。(申命記 6:6,7)こうしていれば世代の断絶が生じることは決してありません。

      幼い時から訓練する

      誕生して6歳になるまでの間に,幼児の発育には幾つかの段階,あるいは時期があります。つまり,筋肉運動の協同,言葉の技能,感情面の特質,記憶力,思考力,善悪の判断力などの養われる時期です。幼児の脳が急速に成長し,次々にそれらの段階に達する時こそ,それぞれの能力を訓練するのに絶好の時です。

      その時には,幼児の脳はスポンジが水を吸うようにそれらの能力や特質を身に着けます。愛を示してやると,愛することを学びます。話しかけたり,本を読んでやったりすると,話すことと読むことの両方を覚えます。スキーを履かせれば,スキーが上手になります。廉直さというものを見せてやると,義の原則を身に着けます。学習に適したその段階で適切な情報を与えずに時を過ごしてしまうなら,それらの特質や能力は,後になってからでは習得するのが一層困難になります。

      聖書はその点を認めており,親に対して,「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ。彼は年老いても,それから離れないであろう」と述べています。(箴言 22:6)キールとデリッチの注釈書によると,その部分は,「神の道に従って子供に教えなさい」となっています。『育てる』と訳されているヘブライ語には,「使用を開始する」という意味もあり,ここでは幼児に対する最初の教育を開始することを指しています。子供の道にしたがって教えてください。子供の遂げつつある発育の段階に応じ,神の道に従って教えてください。それは教えを容易に吸収できる適切な時であり,その発育期に学ぶ事柄は身に着くことでしょう。

      これは人の成長を研究している人々の大方の意見でもあり,「幼児教育のいかなる研究分野においても,初期にできあがった人格の型,あるいは社会に対して初期に固まった態度を変化させるような強い力のあることは証明できなかった」と述べられています。それらの人たちは,その変化が起こり得ることは認めていますが,「大抵の場合,矯正はできないであろう」と見ています。しかし,変化をもたらす神の真理の力によって数多くの例外が生じています。―エフェソス 4:22,24。コロサイ 3:9,10。

      ちょうどよい時に与えられる訓練のよい例は言語です。幼児は言葉を話せるよう遺伝的にプログラムされていますが,脳に組み込まれたそのような回路が最も効率よく機能するためには,幼児は発育段階のちょうどよい時に話し声を聞く必要があります。言語中枢の発達は,もしも大人が幼児に頻繁に話しかけるなら,6か月目から12か月目の間に突然始まります。その発達は12か月目から18か月目にかけて,言葉に意味があることを幼児が理解するようになると,速度が速まります。

      幼児は単語を覚えてゆき,その後それを口で言えるようになります。人生の2年目には,この聞いて覚えている,あるいは言葉として表われない語彙は,数語から数百語へと増えます。使徒パウロは,テモテが「幼い時から聖なる書物に親しんできた」ことをテモテに思い起こさせました。(テモテ第二 3:15)この「幼い時」という言葉の英語の文字通りの意味は,「話さない者」ということです。ですから,恐らくテモテは,幼少のころから聖書を読んで聞かせてもらっていたので,話せるようになる前に聖書の多くの言葉を知っていたものと思われます。

      要するに,子供の発育の過程においては,ある事柄を容易に,あたかも吸収するかのように学べる特定の時期がある,ということです。しかし,もし幼児が必要な刺激を受けないままその時期を過ごしてしまうなら,種々の能力は十分には発達しないことでしょう。例えば,もし子供が何年も後になるまで少しも話し言葉を聞かないとしたら,その子供はその時になって言葉を覚えるのに非常に時間がかかり,大変苦労することになり,普通の場合,決して上手に学べないでしょう。

      赤子の時から本を読んで聞かせなさい

      いつ始めますか。最初からです。生まれたばかりの赤ん坊に本を読んで聞かせるのです。『でも,赤ちゃんは理解できないでしょう』。では,あなたはいつごろから赤ちゃんに話しかけるようにしましたか。『話しかけるのは,もちろん,生まれてすぐです』。赤ちゃんはあなたの言っていることを理解したでしょうか。『理解はしなかったでしょうが……』。それなら,本を読んであげてはいかがですか。

      幼児をひざに乗せ,腕を回してしっかり抱くと,幼児は安心し,愛されているのを感じます。そのようにして本を読んで聞かせるのは,幼児にとって快い経験となります。それは印象に残ります。幼児は本を読むことと喜びの感情を結びつけます。幼児は模倣者であり,親は手本です。幼児は親のすることをまねたがり,本を読みたいと思います。幼児は本を読むふりをして遊びます。後日,読書の喜びを経験します。

      そうすることには別の大きな益も伴います。そのようにしてもらった子供は一般にテレビ中毒にはならないということです。人を刺したり,撃ったり,殺したりする場面や,強姦,淫行,姦淫などを何千回となく,ぼんやりした表情で座って眺める子供にはなりません。テレビのスイッチを切り,本を開いて読むことができる子です。それは,読み書きができず,テレビ中毒になっているこの時代にあっては,ある意味で偉業です。

      子供を愛するには時間がかかる

      言うまでもなく,子供に本を読んで聞かせるには時間が要ります。幼児と遊ぶにも,童謡を歌ってやったり,“いないいないばあ!”をするにも時間が要りますし,幼児が詮索し,行動を起こし,目新しさを求め,好奇心を満たし,創造性を刺激する時,その幼児を見守ってやるにも時間が要ります。育児には時間がかかります。ですから,お子さんが幼いうちに始めるほうがよいのです。世代の断絶が始まるのはその時であることが少なくありません。子供が十代になって初めて断絶が生じるということはまずありません。“キャプテン-カンガルー”という子供向けの放送を行なっているロバート・J・キーシャンは,断絶がどのように生じるかを次のように語っています。

      「小さな子が親指をくわえ,人形を抱いて,少々じれったそうに親の帰りを家で待っている。この女の子は小さな砂場で経験したことを話したがっている。その日にあった胸の躍る出来事について聞いてもらいたくてたまらない。その時が来た。親が帰って来た。職場のストレスで疲れた親は,大抵娘に,『今は忙しいから,あとでね。いい子だから,テレビでも見ていなさい』と言う。アメリカの多くの家庭で最も頻繁に口にされるのは,『忙しいから,テレビを見ていなさい』という言葉だ。今がだめなら,いつ聞いてやるのだろうか。『あとで』ということだが,その時間が設けられることはめったにない。……

      「歳月が流れ,子供は大きくなる。玩具や衣類を子供にあてがう。一流銘柄の服やステレオを買い与えるが,娘が最もほしがっている一緒に過ごす時間は作らない。娘は14歳になった。うつろな目をして何か考え込んでいる。『どうしたの? 話してごらん。さあ,話すのよ』。だが,もう遅い。遅すぎるのだ。愛は過ぎ去ってしまった。……

      「親が子供に,『今はだめ。あとでね』と言うとき。『テレビを見ていなさい』と言うとき。『そんなにいろいろ質問しないで』と言うとき。若い人たちが親に求めていること,つまり一緒に過ごす時間を作れないとき。子供を愛することを怠るとき。我々親は気遣っていないわけではない。ただ余りにも忙しすぎて子供を愛する暇がないのである」。

      そのとおりです。子供を愛するには時間が要ります。体によい食べ物を与えたり,着る物を着させたりする時間だけでなく,愛によって子供の心を満たすための時間が必要なのです。それは重さや量を量って配給されたような愛ではなく,「人生の最初の3年」という本の著者であるバートン・L・ホワイト氏の言う,あふれるような「理屈抜きの愛」です。こう述べています。「仕事を持つ親が子育ての役目をほかのだれかに,とりわけ保育施設に肩代わりしてもらうのは非常に愚かなことだ。わたしはそう言ったために沢山のトマトを投げつけられたことがあるが,わたしは幼児にとって最善のことを気遣っているのである」。同氏はそれを「幼児にとって最善のこと」とみなしていますが,それが理想だと分かっていても,片親あるいは二親が働かなければならない家庭では,経済的な面で必ずしも可能であるとは限りません。

      懲らしめ ― 扱いにくい問題

      沢山のトマトが聖書に対しても投げつけられています。それは懲らしめに関して聖書が与えている助言のためです。「むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもって子を捜し求める」というのがその助言です。(箴言 13:24)この節に関する「新国際訳研究用聖書」の脚注には,「むち棒。恐らく,どんな懲らしめかを問わず懲らしめを指す比喩的表現」とあります。「バインの旧約・新約聖書用語解説辞典」は,「むち棒」を「支配の象徴としての笏」と定義しています。

      親の権限の行使には子供のお尻をたたくことが伴うかもしれませんが,多くの場合そうする必要はないのです。テモテ第二 2章24,25節によると,クリスチャンは「すべての人に対して穏やかで,……温和な態度で諭す」べきであるとされています。ここの「諭す」という語は,懲らしめを指すギリシャ語からの翻訳です。懲らしめは子供の気持ちを考慮しながら与えられるべきです。「また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」と述べられています。―エフェソス 6:4。

      自由放任を擁護する心理学者たちは,我が子の尻をたたく親は子を憎んでいる,と言います。これは正しくありません。自由放任は憎むべきです。それによって全世界に青少年の非行や犯罪の洪水が押し寄せ,幾百幾千万という親が悩みを抱えるようになっています。箴言 29章15節に,「したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」とあるとおりです。ジョイス・ブラザーズ博士は,「厳格な親 対 放任主義の親」という見出しのもとに次のように述べています。

      「5年生と6年生あわせておよそ2,000人 ― 厳格な親に育てられた子もいれば,放任主義の親の子もいる ― を対象にした最近の調査で,幾つかの驚くべき結果が出た。厳しくしつけられた子供たちは,しっかりした自尊心を抱いており,交友の面でも学業の面でもりっぱにやっていた」。それらの子供は自分の厳格な親に対して苦々しい感情を抱いていたでしょうか。いいえ,「彼らは,親の決める規則は子供自身の益のためであり,親の愛の表明であると考えて」いました。

      子供に厳しくしても,「大目に見てやる場合よりも子供が親を愛さなくなる」という不安を抱く必要はない,とホワイト氏は述べ,「人生の最初の2年間の子供というものは,自分を世話してくれる主要な人からやすやすと離れてゆくことはない。いつも決まったように子供のお尻をたたくとしても,子供は常に自分のところへ戻ってくることに親は気づくだろう」と語っています。

      すべてに勝る最善の教え

      それはあなたです。あなたの模範です。あなたはお子さんの手本です。お子さんはあなたの言うことよりもあなたの人となりに従います。聞くのは言葉ですが,見倣うのは行ないです。子供は模倣者です。では,お子さんにどんな人になってほしいと思われますか。愛のある,親切で,寛大な人,よく勉強する,聡明で,勤勉な人,イエスの弟子,エホバの崇拝者ですか。どんな人になってほしいと思うにせよ,なってほしいと思うような人にあなたご自身がなることです。

      では,お子さんの脳が急速に発達していて,思いと心のための情報や感情を吸収する幼い時分からお子さんを訓練してください。しかし,そのような重要な発育期が過ぎており,子供に敬虔な人格が養われなかった場合はどうでしょうか。あきらめてはなりません。変化は今でも生じ得ますし,現に幾百万という人に,若い人にも年老いた人にも,神の力によって変化が生じているのです。神の言葉はこう述べています。「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです」― コロサイ 3:9,10。

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