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妊娠中絶 ― 分裂した世界目ざめよ! 1987 | 4月8日
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根本的な論争
古代には人口抑制という問題はありませんでした。どの民族もどの国も人口の増加を歓迎しましたし,婦人たちが自分の家族の大きさを制限しなければならない理由はまずありませんでした。中絶は大抵の場合,違法行為でした。しかも姦淫や淫行の結果でした。
それとは対照的に,今日では中絶処置は政府の支持を得ているかもしれません。人口爆発の危険のある国々では,そのような手段によって出生率が抑えられている場合もあります。
西欧の多くの国にはそうした危険はないものの,中絶件数はやはり上昇しています。なぜでしょうか。ニューヨーク市の妊娠中絶権擁護宗教者連合の女性スポークスマンは,「もしわたしたちが女性の自由を信じているのであれば,女性には自分で道徳上の選択をする権利がある,と信じなければならない」と力説しています。
しかし,いったん妊娠したなら,その女性には母親としての役割を拒否する,つまり堕胎する明白な権利があるのでしょうか。そのような行動は容認できるものでしょうか。これが今日の中絶是か非かの論争の争点です。その答えは何でしょうか。
非常に多くの事柄が定義いかんにかかっています。生命とは何でしょうか。生命はいつ始まるのでしょうか。胎児には法的な権利があるのでしょうか。
命はいつ始まるか
男性の精子の23の染色体が女性の卵子の同数の染色体と結合する時,一人の新しい人間の命が宿されます。この受胎の時点を過ぎると,性別および詳細な個人的特徴は決まってしまい,決して変わりません。唯一の変化といえば,妊娠9か月間に見られる成長だけです。「あなたはかつて一個の細胞だったという言葉は,生物学的な事実を言い得ている」と,ジョン・C・ウィルク博士は書いています。そうすると,命は受胎の瞬間から始まるのでしょうか。多くの人は簡単にそのとおりであると答えます。そのように考える人々にとっては,中絶はどの時点においても殺人に等しいものになります。
一方,『生命は受胎した時点から約20週後に始まる』と主張する人々もいます。なぜそのようにみなすかというと,母親が胎児の動きを感じるようになるのはそのころだからです。この時期は“胎動期”と呼ばれることもあります。20週を過ぎると子供が生きて生まれてくることがあるので,中絶は普通,妊娠24週までの間に行なわれます。この妊娠24週というのが,一般に受け入れられている時間の要素です。では,法律上胎児が生きた人間とみなされるのはこの時点からなのでしょうか。
英国の法律では,胎児は一人の人間とは認められません。そのような状況の下では,いつ中絶しようと法律的には殺人とはなりません。しかし,いったん胎児が母体を離れたなら,たとえへその緒でつながっていようとも,その子供を殺せば刑事犯となります。その時点では子供は法的な権利を有しているのです。ですから法律的には,この見地からすれば,生命は誕生時に始まるということになります。
英国在住のユダヤ人社会の首長の言葉によると,ユダヤ教の見解もそれと同じです。生命は「誕生の瞬間に至って初めて」存在するようになるのだから,「我々は,胎児を処理することを殺人とは考えない」と,そのラビは述べました。では,胎内で成長している胎児については何と言えるのでしょうか。ニューヨークのラビ,デービッド・M・フェルドマンは,「ユダヤ教の律法における夫婦関係,産児調節,および妊娠中絶」という著書の中で,「胎児は未知のものであり,将来のもの,潜在的なもの,『神の秘義』の一部である」と述べました。
考え方の不一致
このことから,中絶は宗教的に受け入れられると推論することは容易ですが,どの宗教もみな同じように考えているわけではありません。ローマ・カトリック教会の公式見解を考えてみましょう。
ピウス9世は1869年に,どの発育段階にある胎児であろうとこれを堕胎した者に対しては破門という罰を言い渡すことにしました。1951年にピウス12世はその原則を再び述べ,「すべての人間は,母親の胎内の子供でさえ,生きる権利を両親からではなく神から直接授かっている」と語りました。ヨハネ・パウロ2世は,1985年にケニアで話をした際,「避妊や中絶といった行為は間違っている」と率直に言明しました。
しかし今日,カトリック教徒の中には,そのような態度は時代遅れで,改められなければならない,と主張する人が少なくありません。その結果,ローマ・カトリック教会はその問題で分裂しています。その事実を二,三挙げましょう。
ローマ・カトリック教会のジレンマ
中絶合法化反対アメリカ司教委員会の議長であるバーナーディン枢機卿は,中絶は道徳的に悪いことであり,教会の公式の立場は全ローマ・カトリック教徒を拘束するものであると主張しています。米国ノートルダム大学の道徳神学の教授でローマ・カトリック教徒のジェームズ・T・バーチャルは,1982年に,「私は単刀直入に申し上げます。中絶は殺人行為です。子供の命を奪うことです」と書いています。ところが4年後に,同大学の神学部の部長であるリチャード・P・マクブライアン司祭は,中絶がカトリック教会の決定された教理ではないことを説明しました。a この見解によれば,中絶に同意するカトリック教徒は,不忠節と見られるかもしれませんが,破門されることはないはずです。
教会内の権威者たちの態度がこのようにあいまいであるため,多くの著名なカトリック教徒は,あからさまに中絶に賛成の発言をしています。米国では司祭たちもそのような人たちの中に含まれています。修道女たちも幾人か含まれており,中には議論の的になっている中絶新聞広告を認めたため,その修道会から除籍すると脅された人たちもいました。
さらに,カトリックの平信徒たちは今や,中絶賛成の活発な圧力団体を形成しています。NOW(全米女性機構)の会長,エリナ・C・スミール女史は,米国ワシントンのコロンビア特別区で開かれた中絶擁護集会の際,「自分はカトリックの平信徒思想の主流をくんでいる」と断言しました。ニューヨーク・タイムズ紙によると,その同じ時に同女史は,中絶する権利を支持するならローマ・カトリック教会から破門されるかもしれない,という忠告を無視しました。
ローマ・カトリック教会は,教会員の間に見られるそのような見解の対立を解決するのがますます難しくなっていることに気づいています。
堕胎の危険
法律を制定したり勅令を出したりすることと,最善の動機によるにせよ何らかの権威筋が中絶に関する決定を押しつけることとは全く別問題です。これには人々が深い個人的なかかわりを持っています。圧力をかけられると,人々のすることは予測できないことがあります。
もし中絶反対の圧力団体が政府に働きかけて中絶合法化の阻止,あるいは現行の法律の廃止に成功すればどうなるでしょうか。それによって問題が幾らかでも解決されるでしょうか。「女性は[堕胎する]方法を見つけるでしょう。そのために自分の命を失うということも起きるかもしれません。政治家であろうと法律であろうと,それをやめさせる方法はありません」と,ニュージーランドの国会議員の中絶賛成派,マリリン・ウェアリングは述べました。これは強力な論拠です。中絶を擁護する人たちは,『どちらがいいのか』と問いかけます。
中絶が合法化されているところでは,依然として死者は出るものの,中絶は厳重な医学的監督のもとに行なわれています。他方,違法な“やみ”中絶は無資格者が不衛生な状態のもとで行なうことが多いため,妊婦の死亡するケースは驚くほど高い比率になっています。例えばバングラデシュでは,そのような中絶の結果として毎年1万2,000人の女性が死亡しているということです。
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妊娠中絶 ― 分裂した世界目ざめよ! 1987 | 4月8日
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代わりの呼び方
多くの場合,中絶に賛成する人たちは,人工中絶選択賛成の運動家と呼ばれることを好みます。それはちょうど中絶に反対する人たちが,自らを人工中絶合法化反対の活動家と呼ぶ場合が多いのと同じです。この一連の記事では,分かりやすくするために,中絶に賛成および中絶に反対という表現が一貫して用いられています。
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