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  • 香料,黄金,改宗者,そして栄光を求めて
    目ざめよ! 1992 | 3月8日
    • 香料,黄金,改宗者,そして栄光を求めて

      「ティエラ! ティエラ!」(陸だ! 陸だ!)夜の静寂を破ってこの歓声が上がったのは,1492年10月12日のことでした。ピンタ号に乗り組んでいた一人の水夫は,一つの島のかすかな輪郭を目にしていました。サンタマリア号,ピンタ号,それにニーニャ号のいつ果てるとも知れなかった航海はついに成功し,報われました。

      夜明けとともに,コロンブスと二人の艦長および他の高級乗組員たちは,浅瀬を歩いて上陸しました。そして神に感謝をささげ,スペインの君主フェルナンドとイサベラの名によってその島を占領しました。

      コロンブスの夢は実現しました。次にコロンブスは,黄金(原住民が付けていた黄金の鼻輪は彼の注目を免れなかった)を発見してスペインへ錦を飾ることを願うようになりました。西回りのインド航路はもう自分のものだとコロンブスは考えました。過去8年間の辛苦も脳裏から消えてゆきました。

      夢が実現する

      15世紀末のヨーロッパで需要が多かった二つの商品は,黄金と香料でした。黄金は東洋の豪華な品物を買うのに必要でしたし,東方から来る香料は,長い冬の間の単調な食事に風味を添えるものでした。ヨーロッパの貿易商たちは,そういう商品が手に入る土地に直接出かけてゆくことを望んでいました。

      ポルトガルの商人と航海者たちは,アフリカとの貿易を独占することに力を入れ,ついにアフリカ喜望峰回りの東方航路を発見しました。一方,イタリアの航海者コロンブスは西に目を向けました。垂涎の的の香料が手に入るインドへの最短航路は大西洋であると信じていたからです。

      コロンブスは8年の間,幾つかの王室を次々に訪ね,ついにスペインの王と女王の後援を取りつけました。最後には,コロンブスの揺るぎない信念が,疑念を抱く君主や気の進まない水夫たちに勝ったのです。疑う人たちにはそれなりの理由がありました。コロンブスの計画にも不備なところがありましたし,コロンブス自身もあつかましく,「海洋の提督」と,自分が発見する土地全体の終身副王に任じられることを求めていました。

      しかし,反対を受けたのは主にコロンブスの計算の仕方でした。そのころには,地球が丸いということに異論を唱える学者はほとんどいなくなっていました。問題は,ヨーロッパとアジアを隔てているのはどの海かということでした。コロンブスは,ポルトガルの都市リスボンの西方約8,000㌔のところに,かつてマルコ・ポーロの中国旅行記で読んだジパング,つまり日本があると考えていました。ですから,現在のカリブ海のあたりに日本があると思っていたのです。a

      スペインとポルトガル両国の王室委員会は,コロンブスの冒険を無分別なものとして退けましたが,その主な理由は,コロンブスがヨーロッパと極東の間の距離をあまりにも少なく見積もっていたことでした。ヨーロッパとアジアの間に大きな陸地があるかもしれないということは,だれも思いつかなかったようです。

      しかしコロンブスが,スペインの宮廷にいた友人たちから支援を受けて自分の意志を曲げずにいると,事はコロンブスに有利に運ぶようになりました。カスティリャのイサベラ女王は熱心なカトリック教徒で,東方がカトリックに改宗する可能性に魅せられていました。1492年の春にグラナダがカトリックの君主たちの手に落ちると,カトリックはスペイン全体の国教になりました。宗教的にも経済的にも大きな利益をもたらす可能性のある冒険に,幾らかのお金をつぎ込める時が来たようです。コロンブスは王室の認可を受け,それと共に必要な資金も得ることができました。

      未知への航海

      3隻の船から成る小さな船団の準備が急いで行なわれました。1492年8月3日,コロンブスは総勢約90人の乗組員と共にスペインを出発しました。b カナリア諸島で物資を補給した後,船団は9月6日に西へ向けて“インド”航路を進みました。

      この航海はコロンブスにとってある種の試練でした。追い風に希望は高まり,向かい風に希望は打ち砕かれました。海鳥を見かけると期待はふくらみますが,西の水平線にはいつまでたっても何も現われませんでした。コロンブスは,土地や富を与える約束をして絶えず乗組員の決意を強めなければなりませんでした。船が ― コロンブスの「個人的な計算」によれば ― 大西洋上を約3,200㌔の地点まで進んでいた時,コロンブスが船の舵手に告げたのは2,819㌔という数字でした。その時コロンブスは航海日誌にこう書いています。「乗組員にはこの数字[3,413㌔]を知らせなかった。故郷からあまりにも遠く離れていることに気づいてぎょっとするかもしれないからだ」。(「クリストファー・コロンブスの航海日誌」,ロバート・H・フューソン訳)多くの場合,船が後戻りせずにすんだのは,ひとえにコロンブスの揺るぎない決意によりました。

      日数だけがのろのろと過ぎてゆくうちに,水夫たちはだんだん落ち着きをなくしてゆきました。「乗組員は私の決定が不服だったようだ。ぶつぶつ文句ばかり言っていた。だが私は彼らの不満にもめげず断固西へ進んだ」と,コロンブスは書いています。海へ出てから1か月以上たった10月10日ごろには,3隻の船のいずれにおいても不満が高まっていました。コロンブスは,もし三日以内に陸地にたどり着けなかったら来た道を引き返すと約束して,ようやく水夫たちを静めることができました。しかし翌日,水夫たちがまだ花のついている若枝を船に引き上げた時,提督に対する信頼は回復しました。その次の日(10月12日)の明け方,海に疲れた船乗りたちは,草木の繁茂する熱帯の島の景色を十分に楽しむことができました。この画期的な航海は目的を達成したのです。

      発見と失望

      バハマ諸島は牧歌的で美しいところでした。裸の原住民は「体格がよく,きれいな体とたいへん整った顔立ちをしていた」と,コロンブスは書いています。しかし,熱帯の果物を味わったり,人なつこい住民と物を交換したりして2週間を過ごした後,コロンブスはそこを出発しました。彼が探していたのは黄金とアジア大陸と改宗者と香料でした。

      数日後,コロンブスはキューバに着きました。「こんなに美しいところは見たことがない」と,コロンブスは島に上陸した時に言いました。それよりも前にコロンブスは,「キューバというのはジパング[日本]のインド名に違いない」と航海日誌に書いています。そういうわけでコロンブスは,カーン(支配者)のもとに二人の代表者を遣わしました。二人のスペイン人は,原住民の間にたばこを吸うという奇妙な習慣があるという報告を持ち帰りましたが,黄金も日本人も見つけることはできませんでした。コロンブスはそれでもくじけません。「この国にはきっと大量の黄金があるはずだ」と,自分に言い聞かせました。

      冒険の旅は続き,今回は東に向かいます。コロンブスはキューバの近くで,山の多い大きな島を発見し,それをラ・イスラ・エスパニョーラ(ヒスパニオラ)と名づけました。その島でスペイン人たちはついに相当量の黄金を見つけました。しかし数日後,災難に見舞われます。旗艦のサンタマリア号が砂州に乗り上げ,そこから脱出できなくなったのです。原住民は,できるだけ多くのものを引き揚げるために喜んで乗組員の手伝いを買って出ました。「彼らは自分自身のように隣人を愛する。世界一おだやかな優しい声の持ち主で,いつもほほえんでいる」と,コロンブスは言いました。

      コロンブスは,ヒスパニオラに小さな植民地を作ることにしました。しかしそれよりも前に彼は航海日誌の中で,「この人々は戦闘が非常に下手だ。……50人も部下がいれば,全島民を支配下に置き,好きなように操ることができる」と,不吉なことを書いています。コロンブスはまた,宗教面での植民地化をもくろみ,「私は主にあって大きな希望を抱いています。殿下は彼らを全員キリスト教に改宗させ,彼らはみな殿下のものとなるでありましょう」と書きました。コロンブスは,自らラ・ビヤ・デ・ラ・ナビダド(降誕の町)と名づけた場所にいったん植民地を作り上げると,残りの部下と共に,この大発見の知らせを持ってスペインに大急ぎで帰ることにしました。

      楽園の喪失

      コロンブスの発見に関する知らせがついに届くと,スペインの王室は喜びに沸き立ちました。コロンブスはあふれるほどの栄誉に浴し,できるだけ早く第2次探検を計画するように勧められました。一方,スペインの外交官は早速,コロンブスが発見した地域をすべて植民地にする権利を確保するため,スペイン系の教皇アレクサンデル6世に働きかけました。

      1493年の第2次探検隊は非常に大がかりなものになりました。17隻の船からなる艦隊には,司祭や農民や兵士を含む1,200人余りの入植者が乗り込みました。ただし,女性はいませんでした。今回の目的は,新しい土地を植民地にし,原住民をカトリックに改宗させることでした。もちろん,黄金と香料が見つかれば,それは願ってもないことです。コロンブスは今回も引き続き,インド航路を探そうと思っていました。

      プエルトリコやジャマイカなど,さらに幾つかの島は見つかりましたが,欲求不満も高まりました。先回ヒスパニオラに作った植民地ラ・ナビダドは,スペイン人同士の激しい争いで人口が激減しており,入植者たちの貪欲と不道徳に激怒した島民によって全滅させられようとしていました。そこでコロンブスは,もっと大きな新しい植民地のために適当な場所を選んでから,インド航路を探す航海を続けました。

      コロンブスはキューバの周りを一周できなかったので,ここはアジア大陸に違いない,恐らくマラヤあたりだろうと判断しました。「楽園の征服」という本に書かれているとおり,コロンブスは,「これまで海岸沿いを航海してきたが,それは……決して島の海岸ではなく,実際には『インド諸国をもって始まる大陸』であると,乗組員全員で宣誓することに」しました。それから,ヒスパニオラに戻ってみると,新しい入植者たちは,以前の入植者たちと同じほど卑劣で,女性を強姦し,少年たちを奴隷にしていました。コロンブス自身も1,500人の原住民を集め,そのうち500人を奴隷としてスペインに送ったため,原住民の敵対心は募りました。送られた人々は全員,数年以内に死にました。

      西インド諸島に向けてさらに2回航海を重ねましたが,コロンブスの人生航路はいっこうに良くなりませんでした。黄金も香料もインド航路も,すべてはかない夢と化しました。しかしカトリック教会は,あの手この手で改宗者を獲得しました。コロンブスの行政手腕は,航海者としての能力よりもはるかに劣っていました。健康の悪化と共に彼は暴君と化し,気に入らないことをする人間に対しては残酷な仕打ちを加えるほどになりました。スペインの君主たちは,コロンブスを解任し,もっと有能な副王を任命せざるを得ませんでした。コロンブスは海を征服しましたが,陸上では四苦八苦の状態でした。

      4回目の航海を終えた直後に,コロンブスは54年の生涯を閉じました。裕福ではありましたが冷淡な人でした。彼は最後までアジア航路を発見したと言って譲りませんでした。生涯を通じて熱望した永遠の栄光がコロンブスに帰せられるかどうかは,後世にゆだねられることになりました。

      しかし,コロンブスが図示した航路は,北アメリカ大陸全体の発見と植民地化に道を開くものとなりました。世界は激変していたのです。しかしそれは良い方向への変化だったのでしょうか。

      [脚注]

      a この間違いの元になったのは,二つの大きな誤算でした。コロンブスは,アジアの陸地が実際よりもはるかに東に伸びていると考えていました。また,うっかりして地球の円周を25%小さく見積もっていました。

      b サンタマリア号には40人,ピンタ号には26人,ニーニャ号には24人の乗組員がいたと見られています。

      [6ページの地図/図版]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      コロンブスの発見の旅

      スペイン

      アフリカ

      大西洋

      米国

      バハマ

      キューバ

      ヒスパニオラ

  • 文化の衝突
    目ざめよ! 1992 | 3月8日
    • 文化の衝突

      今から500年ほど前,カスティリャの中心部に位置する小さな町で,スペインの外交官とポルトガルの外交官が議論を戦わせていました。1494年6月7日までに両国は意見を調整し,正式な条約に署名しました。これがトルデシリャス条約です。今日,西半球に住む幾億もの人々がスペイン語かポルトガル語を話すのは,この条約が結ばれた結果なのです。

      この条約は,イベリア半島の二つの国の間で未踏の世界を分割することを定めた前年の教皇勅書を再確認するものでした。「カボベルデ諸島の西370リーグ(約2,000㌔)」のところに南北境界線が引かれ,スペインはこの境界線の西側で発見した地域(ブラジルを除く南北アメリカ)を,ポルトガルはその東側(ブラジル,アフリカ,アジア)のすべての地域を植民地化し,キリスト教化することができました。

      教皇の祝福を得たスペインとポルトガルは,他のヨーロッパ諸国に先がけて,海洋の制覇とそれに続く世界の制覇に乗り出しました。条約締結から50年後には,海洋を横断する航路がすでに確立し,主要な大陸が結ばれており,広大な植民地帝国が出現していました。―8ページの囲み記事をご覧ください。

      このように立て続けに行なわれた発見は,非常に大きな影響を及ぼしました。商業体制と農業体制には大変革が生じ,世界の人種や宗教の分布も変わりました。しかし,こうした情勢を動かしていたものは金でした。

      貿易の動向

      コロンブスは間違っていませんでした。コロンブス自身が見つけた金はごくわずかでしたが,確かに金はありました。ほどなくしてガリオン船が,アメリカ大陸で略奪された金銀を大量にスペインに輸送し始めました。しかしその富もはかなく消えてゆきました。貴金属が大量に流れ込んだ結果,激しいインフレが生じ,スペインの産業は楽々と儲けた過剰な資金によってむしばまれました。その一方でアメリカ大陸の金は,国際経済の成長に拍車をかけました。資金はすぐに手に入るので,外国の品物を買うことができ,それらの品物は,行き来する船で世界中に運ばれました。

      17世紀の末には,ペルー産の銀がマニラで,中国産の絹がメキシコ・シティーで,アフリカ産の金がリスボンで,北米産の毛皮がロンドンで出回っていました。ぜいたく品によっていったん道が開かれると,今度は砂糖,茶,コーヒー,綿といった基本的な商品が,大西洋やインド洋を越えて,かつてない規模で輸送されるようになりました。また,食生活も変わり始めました。

      新しい作物と新しい料理

      スイスのチョコレート,アイルランドのジャガイモ,イタリアのピザなどがあるのは,もとはと言えばインカとアステカの農民のおかげです。チョコレート,ジャガイモ,トマトの三つは,ヨーロッパに入ってきた新しい産品のほんの一部でした。新しい香辛料や果物や野菜が人気を得るには時間がかかるものですが,コロンブスとその部下たちは最初からパイナップルとサツマイモをたいへん喜んで食べました。―9ページの囲み記事をご覧ください。

      東方の幾つかの産物,例えば綿やサトウキビは新世界でも定着し,南米のジャガイモはやがてヨーロッパの多くの家庭で重要な栄養源になりました。こうした作物の交易は,単に各国の料理に変化を与えたにとどまらず,栄養状態を根本的に向上させました。19世紀から20世紀にかけて,世界人口が爆発的に増加した背景にはこうした事情があったのです。しかし,この農業革命にも暗い一面がありました。

      人種差別と抑圧

      入植者たちは,農地で働く低賃金の労働力を十分に確保できれば,綿や砂糖やたばこといった新しい換金作物によって一財産を築くことができました。そこで,労働力としてすぐ目についたのは原住民でした。

      一般にヨーロッパ人の入植者たちは原住民のことを,言葉を話す動物のようなものと考えていました。そしてこの偏見は,事実上の奴隷制度を正当化するために利用されました。1537年の教皇勅書は,「インディアン」は確かに「魂を付与された正真正銘の人間」であると結論していましたが,これも搾取を食い止めることにはほとんど役立ちませんでした。最近のバチカンの文書が指摘しているように,「人種差別はアメリカ発見と共に始まった」のです。

      「ヨーロッパの病気」がまん延した上に,過酷な仕打ちを受けたため,人口は激減しました。ある推定によれば,100年間で90%も減少したということです。カリブ海地域では,原住民が全滅に近い状態になりました。地元の住民を徴集できなくなると,地主たちは,屈強で健康な農業労働者を別の所に求めるようになりました。アフリカにすっかり定着していたポルトガル人は,卑劣な解決策を提示しました。つまり奴隷売買です。

      またもや人種偏見と貪欲が非常な苦しみをもたらしました。19世紀の末までに,(おもに英国,オランダ,フランス,ポルトガルの)奴隷船団は1,500万人以上のアフリカ人奴隷をアメリカ大陸に送り込んでいたようです。

      こうした人種差別的側面を考えれば,ヨーロッパ人のアメリカ発見に対して,多くのアメリカ原住民が根強い憤りを抱いているのも不思議ではありません。ある北米インディアンは,「コロンブスはインディアンを発見しなかった。我々がコロンブスを発見した」と言いました。同様に,チリのマプチェ族のインディオは,『本当の発見も正当なキリスト教化もなかった。ただ我々の先祖伝来の土地の侵略があっただけだ』と抗議しています。この言葉が暗示しているように,責任は宗教にもありました。

      宗教面の植民地化

      宗教面での新世界の植民地化は,政治面の植民地化と同時に進行しました。a 一つの地域がいったん征服されると,原住民は強制的にカトリック教徒にさせられました。カトリックの司祭であり歴史家でもあるウンベルト・ブロンクスが説明しているとおりです。「彼らはまず,口頭で教えることもせず,ほとんど力ずくで洗礼を施した。……異教の神殿はキリスト教の教会や修道院に変えられた。偶像は十字架に取り換えられた」。こうした強制的“改宗”が,カトリックとその土地の伝統的な宗教との奇妙な混合を生み出し,それが今日に至るまで続いているのも不思議ではありません。

      征服と“改宗”の後は,教会とその代表者に対する従順が厳しく強制されました。メキシコとペルーではそれが特に厳しく,異端審問所が設置されました。誠実な僧職者の中には,クリスチャンらしからぬ方法に抗議した人もいました。ドミニコ会の修道士ペドロ・デ・コルドバはヒスパニオラ島の植民地化を目撃し,こう言って嘆きました。「これほど善良で従順で柔和な人々なのだから,もし仮にこれらのあさましい伝道者たちが,クリスチャンたちの使った力と暴力を用いずに彼らの中に入ってさえいたなら,原始教会に劣らぬ立派な教会ができていただろうと思う」。

      異なってはいても,さほど新しくはない

      アメリカの発見と植民地化と改宗を,「二つの文化の衝突」と見る人もいれば,「搾取」とみなす人,あるいは少数ながら「強姦」という言葉であからさまに非難する人もいます。どんな判断を下すにしても,それが新しい時代の始まり,人権を犠牲にはしたものの,経済成長と技術革新の時代の始まりを画したことに疑問の余地はありません。

      1505年に,新大陸のことを説明するために「新世界」という言葉を初めて使ったのは,イタリアの航海者アメリゴ・ベスプッチでした。確かに新しい要素もたくさんありましたが,旧世界の基本的な問題は新世界でもはびこっていました。スペインの多くの征服者たちは,黄金と豊饒の国である伝説のエルドラドを見つけようとしましたが,それがすべて徒労に終わったという事実は,新大陸の発見によっても人間のかねてからの願いはかなえられなかったことを物語っています。その願いは果たしてかなえられるのでしょうか。

      [脚注]

      a 新世界をキリスト教化したいという願いは,軍事力を正当化するためにも利用されました。当時のスペインの著名な神学者フランシスコ・デ・ビトリアは,スペイン人は新世界で福音を宣明する権限を教皇からゆだねられているため,その権利を擁護し確立する目的で彼らがインディアンと戦争をするのは正しいことだと主張しました。

      [8ページの囲み記事]

      コロンブス,発見の時代の先駆者

      コロンブスのアメリカ発見後の50年間は,世界地図の改訂の時期でした。スペイン,ポルトガル,イタリア,フランス,オランダ,イギリスの航海者たちは,新しい東方ルートを探してゆくうちに,新しい海洋や新しい大陸を次々に発見しました。1542年の時点で,未発見のまま残っていたのはオーストラリアと南極大陸だけでした。

      南アメリカ 最初にコロンブス,次いでオヘダ,ベスプッチ,クエリヨが,中南米の海岸線を図示しました(1498-1501年)。

      北アメリカ カボートは1497年にニューファンドランドを発見し,ベラツァーノは,1524年に初めて北米の東海岸に沿って航海しました。

      世界周航 これを最初に成し遂げたのはマゼランとエルカノでした。彼らはまた,広大な太平洋の大航海の末にフィリピンを発見しました(1519-1522年)。

      喜望峰回りのインド航路 バスコ・ダ・ガマはアフリカの南端を回って,1498年にインドに到達しました。

      極東 ポルトガルの航海者たちは,1509年にはインドネシアに,1514年には中国に,1542年には日本に達しました。

      [9ページの囲み記事/図版]

      世界のメニューを変えた植物

      アメリカの発見は世界の食習慣に大変革をもたらしました。旧世界と新世界の間で作物が速く行き来した結果,インカ人やアステカ人によって栽培されていた多くの植物が今では世界で最も重要な食用作物に数えられています。

      ジャガイモ。スペイン人がペルーにやって来た時,インカ経済の基礎になっていたのはジャガイモでした。ジャガイモは北半球でも栽培できるため,200年足らずのうちにヨーロッパ諸国の主食になりました。この質素でも栄養豊かなジャガイモが,ヨーロッパの産業革命に伴って起きた人口急増の一因だったと言う歴史家もいるほどです。

      サツマイモ。コロンブスは最初の航海の時にサツマイモを見つけました。そしてサツマイモを,「クリ独特の風味」がある「大きなニンジン」のようなものと表現しています。現在サツマイモは,世界のかなりの場所で多くの人々の主食になっています。

      トウモロコシ。アステカ人にとってトウモロコシの栽培は極めて重要なことだったため,アステカ人はトウモロコシを生命の象徴とみなしました。現在,世界のトウモロコシの作付面積は小麦に次ぐものとなっています。

      トマト。アステカ人とマヤ人は,シトマトル(後にトマトルと呼ばれた)を栽培していました。16世紀にはすでに,スペインとイタリアでトマト作りが行なわれており,ガスパチョやパスタやピザが人々の好物になっていました。しかし他のヨーロッパ人は,19世紀までトマトの良さを認めませんでした。

      チョコレート。チョコレートはアステカの支配者モンテスマ2世が好んだ飲み物でした。コルテスがメキシコにやって来た時,チョコレートの原料になるココア豆は高く評価されていたため,貨幣として使われていました。19世紀には,風味を良くするために砂糖とミルクが添加されたので,チョコレートは飲み物としても,固形のスナックとしても,世界のヒット商品になりました。

      [図版]

      1492年にバハマ諸島に到着したコロンブス

      [クレジット]

      The Museo Naval, Madrid, (Spain), の厚意により,また Don Manuel González López の親切な許可により掲載

      [7ページの図版]

      Copy of the Treaty of Tordesillas.

      [クレジット]

      Courtesy of Archivo General de Indias, Sevilla, Spain の厚意により掲載

      [10ページの図版]

      カトリックの異端審問の犠牲になったメキシコ人

      [クレジット]

      Mural entitled "Mexico Through the Centuries," original work by Diego Rivera. National Palace, Mexico City, Federal District, Mexico

  • 発見されるのを待っている本当の新世界
    目ざめよ! 1992 | 3月8日
    • 発見されるのを待っている本当の新世界

      「名というものは頼りにならないものである。それを当てにすることはできない」。このさめた見方は,コロンブスの場合にも確かに当てはまります。

      クリストファーという名前の意味のとおりに,コロンブスは「キリストを運ぶ者」のようになろうと努力しました。そもそもスペインの君主たちがコロンブスを派遣したのは,「神への奉仕とカトリック教の拡大」のためでした。しかし,理解の遅い一部の原住民に十字を切ることとアベマリアを歌うことを教えると,その後はもっと現世的な報い,つまり黄金と見つけにくいインド航路の発見に専ら力を入れるようになりました。

      カトリック教徒の中には,それでもコロンブスを「聖人」にしようと主張する人たちがいます。コロンブスはキリスト教世界の境界を広げる点で重要な役割を演じたからです。しかし,コロンブスの発見に続いて行なわれた集団“改宗”は,新世界の人々に真実のイエス・キリストを知らせるものとはなりませんでした。真のキリスト教は常に,剣ではなく平和的手段で広められてきました。福音を広めるために武力を行使することは,イエスの教えとひどく矛盾する行為です。―マタイ 10:14; 26:52と比較してください。

      コロンブス(スペイン名,コロン)は,「植民者」という意味の姓に負けまいとする点では,いくぶん成功を収めました。新世界に最初の二つのヨーロッパ人植民地を作ったのはコロンブスでした。その二つは消滅しましたが,他の植民地はやがて定着しました。アメリカ大陸の植民地化はどんどん進んでゆきましたが,それは決して喜ばしいことではありませんでした。植民地にされた側にとっては特にそう言えました。

      西インド諸島の最初の植民地化を目撃したドミニコ会の修道士バルトロメ・デ・ラス・カサスは,『にせの正義に無実の人々が屈伏させられ,悪事を行なう者を動かす欲と野望以外には正当な原因も理由もなく人々が殺され,虐殺されていること』について,スペイン王フェリペ2世に抗議しました。

      最も悪質な虐待は後に是正されましたが,利己的な動機や残酷な手段が引き続き政策を操っていました。そのような支配が人々に反感を抱かせたのも不思議ではありません。20世紀までに,アメリカ大陸のほとんどの国は植民地としての束縛を振り捨てました。

      諸大陸をキリスト教世界に変え,非常に多くの部族や民族に公正な支配を行なうのは,確かに大変困難な仕事です。コロンブスが海を渡り,いわゆる「二つの世界の衝突」を開始した時に図らずも手を染めた大事業の失敗を,すべてコロンブスのせいにするのは公平なことではないでしょう。

      カークパトリック・セイルは,自著「楽園の征服」の中でこう指摘しています。「確かにかつては好機があった。ヨーロッパ人には,新しい国,彼らが地上の楽園とおぼろげに感じていた国に新しい投錨地を見つけるチャンスがあった」。しかし新世界を発見することと,新世界を作ることとは別問題です。新世界を作る試みが失敗したのはそれが初めてではありませんでした。

      もう一つの大旅行

      コロンブスが航海に出た時よりも2,000年ほど前に,約20万の人々が別の大旅行に出発しました。それは海を渡るのではなく,砂漠を渡る旅だったようです。彼らも西に向かっていました。大半の人がまだ見たことのない故国イスラエルに向かっていたのです。自分たちと,自分たちの子供のために新しい世界を築くこと,それが彼らの目的でした。

      バビロン捕囚から解放された人々のこの旅行は,預言を成就するものでした。それより200年前に,預言者イザヤは彼らの帰還をこう予告していました。「いまわたし[主権者なる主エホバ]は新しい天と新しい地を創造している……。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない」。―イザヤ 65:13,17。

      「新しい天と新しい地」は,新しい政権と人々の新しい社会を指す象徴的な表現です。そのようなものが必要だったのは,本当の新世界には新しい植民地以上のものが求められるからです。それには,統治者と被統治者の新しい利他的な精神が必要なのです。

      バビロンから帰ってきたユダヤ人で,そのような精神を持っていた人はごくわずかでした。当初はいくらか成功したものの,帰還から100年たったころ,ヘブライ人の預言者マラキは,その国の中で利己心と貪欲がいかに強力な動因になっていたかを嘆きながら説明しています。(マラキ 2:14,17; 3:5)ユダヤ人が新しい世界を築くまたとない好機は無駄になってしまったのです。

      前途にある新世界

      しかし,過去に新世界の建設が失敗したからといって,その実現が絶望的だということではありません。使徒ヨハネは啓示の書の中で,イザヤと同じ言葉を使って,次のような劇的な場面を描写しています。「わたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去って(いた)。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:1,4。

      この言葉は,神ご自身が,全世界を支配する新しい政府と,神の支配にこたえ応じる人々の新しい社会をつくる決意をしておられることを保証しています。その益は計り知れないものとなるでしょう。それこそ本当の新世界なのです。

      神がお作りになる新世界など,とてもありそうにないことに思えるかもしれません。しかし,西方に大陸が横たわっているというコロンブスの信念も同様に,当時の多くの人にとっては信じ難いことに思えました。神が約束された新しい世界に関する説明も絵空事のように聞こえるかもしれませんが,15世紀の学者たちの中で,地表の陸地の3分の1が科学的に知られていなかったことを想像できた人がはたしてどれほどいたでしょうか。

      コロンブスの時代には科学的知識が不足していたため,新世界の発見は非常に意外なこととして受け止められました。同様に,神の目的と神の力に関する知識が不足していると,神の約束された新しい天と新しい地に対する確信を持つことはできないかもしれません。しかし全能の神は,その説明の後で念を押すかのように,「見よ! わたしはすべてのものを新しくする。……書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである」と述べておられます。―啓示 21:5。

      全人類が何らかの新しい世界を熱望していることに疑問の余地はありません。メキシコの著述家カルロス・フエンテスは次のように述べました。「ユートピアは過去のものであり,未来のものでもある。一方では,かつてはあったが今はないより良い世界の記憶であり,他方では,そのより良い世界,正義と平和のいっそう宿る世界がいつの日か実現するという希望である」。聖書を研究している人々は,想像上のユートピアではなく,より良い世界が確かに実現することを確信しています。なぜなら,それを約束されたのは神であり,神はそれを実現させる力をお持ちだからです。―マタイ 19:26。

      新世界は間近い

      コロンブスが乗組員たちに,陸地が近づいていることを納得させようとした時には,信仰以上のもの,何らかの有形の証拠が必要でした。新しい草木が海面に浮かび,陸地にすむ鳥たちの数が増し,ついには花をつけた木の枝が水面に漂うのを見た時,提督に対する水夫たちの信頼は回復しました。

      今日でも,新しい世界が近づいていることを示す目に見える証拠があります。歴史上初めて人類の生存そのものが危ぶまれる事態になっているという事実からすると,人間による支配に対する神の辛抱は急速に終わりに近づいているに違いありません。神は遠い昔に,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」ことを約束されました。(啓示 11:18)貪欲と利己心は,解決不能の地球的問題を数多く引き起こしてきました。そうした問題は,神による介入が近いことを示す事態の進展として,聖書が前もって克明に描写していた事柄なのです。a

      今から500年前に初めてキューバ島の土を踏んだ時,コロンブスは感嘆のあまり,「ここでいつまでも暮らしたい!」と叫んだと言われています。神の新しい世に足を踏み入れる人々は,それと全く同じように感じることでしょう。そしてその時には,その願いはかなえられるのです。

      [脚注]

      a 神の新しい世が間近に迫っていることを示す聖書的証拠の分析については,ものみの塔聖書冊子協会発行の,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本の18章をご覧ください。

      [13ページの図版]

      新世界を発見することと,新世界を作ることとは別問題

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