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    1989 エホバの証人の年鑑
    • そして今度は,シベリア!

      オーストリアは連合国(米国,フランス,英国,それにソ連)の軍隊によって1955年5月まで占領され,四つの占領地区に分割されていました。ドイッチュ・バグラム村はソ連地区にありました。そこにはフランツ・マリーナ兄弟が住んでいました。兄弟はロシア語の話し方を心得ていたので,極めて率直な仕方で占領軍の兵士たちに証言を行ない,兵士たちの何人かと聖書研究を司会することさえしました。さらに,ロシア語の聖書文書を入手して,それらを兵士たちの間で配布することも行ないました。

      兄弟の活動が見過ごされることはありませんでした。1948年の初めごろ,兄弟に好意的な二人の男性は,兄弟にこう警告しました。「フランツ,ここから出て行きなさい。彼らは君を逮捕したがっている。君の文書がロシア人のところから見つかったんだ」。それでもマリーナ兄弟は逃げることをせず,病身の妻と子供たちのもとに残る決意をしました。しかし,ほどなくして兄弟は逮捕されました。兄弟はソ連の地元司令官の事務所に八日間拘留され,最後にはソ連軍参謀部に移送されました。そこで6週間の滞在を余儀なくされた兄弟は,兵士や将校たちにも同じように率直に宣べ伝えて,エホバの王国について彼らに話しました。最終的に兄弟は,いまや耳慣れた表現となった,“軍隊の士気をくじいた”かどで,10年の強制労働を言い渡され,はるかかなたのシベリアへ連れて行かれました。

      ついに兄弟はウラル山脈を越えて広大な地域にたどり着きました。その地域で兄弟は,ほとんど徒歩で一つの収容所から別の収容所へと移動しました。脱出はまず不可能でした。兄弟は大抵どの収容所でも,ソ連の各地から連れて来られた兄弟たちと会いました。新しい収容所に着くと,ごく当然のように兄弟たちを捜しました。兄弟たちが見つかると,彼らはマリーナが本当にエホバの証人かどうかを見定めるために彼を試しました。そうするために彼らは,「ヨナダブの家族は元気かい」とか,「ものみの塔協会の会長はだれかね」といった質問をしました。

      マリーナが確かに兄弟であることを確信すると,兄弟たちは,収容所での厳しく,不慣れな生活に耐えられるよう,愛をもって彼を援助しました。年齢のせいもあって,彼は“お父さん”と呼ばれました。5年のあいだに,彼は30の収容所を知るようになりました。そして,1953年に,彼は恩赦を認められて,家に戻りました。彼の妻はそのころすでに亡くなっており,長女が母親の役割を引き受けていました。では,マリーナ兄弟は落胆したり,打ちひしがれたりしたでしょうか。その反対です。それから数日もしないうちに,早くも兄弟は立ち直って家から家に再び良いたよりを宣べ伝えていました。兄弟は1964年に亡くなるまでこの業を続けました。

  • オーストリア
    1989 エホバの証人の年鑑
    • [137ページの図版]

      フランツ・マリーナは,シベリアの強制労働収容所に5年間拘留された

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