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    1989 エホバの証人の年鑑
    • それでも,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルは,まずユダヤ人の住民に注意を向けようと,1911年にウィーンを訪れることにしました。

      ラッセルは列車による旅をして,ウィーンに到着しました。そこでは3月22日のために,コンチネンタル・ホテルの広い会場が借りてありました。誠実なユダヤ人に訴えるよう意図されたラッセルの話は,「預言におけるシオニズム」と題するものでした。聖書預言に関するラッセルの説明に,同地のユダヤ人の住民はどのような反応を示すでしょうか。一人のユダヤ人教師はニューヨークから長々とした電報を打って,誤った情報を伝え,当時聖書研究者として知られていたエホバの証人に気をつけるようにとユダヤ人たちに警告しました。その結果,ラッセル兄弟が演壇に上がるころには会場は満員になっていましたが,聴衆の約3分の1は自分の話を妨害する決意でいることにラッセルは気づきました。

      後日,ラッセルはこう報告しています。「私たちの話のまさに最初から,彼らは会場の至る所で大声を上げたり叫んだりし,ある者たちは悪霊につかれているように見えた。……聴衆の恐れを静めるために私たちは一言か二言話そうと努めたが,全く無駄であった。……私たちを捕まえようとやっきになっている者たちも何人かいたようだが,より良識のある人たちが強力な非常線となって,私たちの周りでバリケードを張ってくれた。私たちは何も恐れていなかったが,反対者たちをよく知っている人たちは私たちのことをとても心配しているようだった。私たちは何もできないことが分かったので,笑顔を見せながら手を振って,計画を断念したことを示し,演壇を降りた。私たちのためにバリケードを張ってくれたユダヤ人たちは,私たちの前に通路を設け,いかなる反対者も近づかせることなく,私たちを会場の外まで誘導してくれた……翌日,15人ほどがやって来て神のご計画に関する質問をさらに尋ねた」。

      真理を探し求める誠実な人々の益を図るため,ラッセルの講演の全文を新ウィーン・ジャーナル紙に掲載する取り決めも設けられました。

      ラッセル兄弟がウィーンを訪れたのは,この時が最初ではありませんでした。ラッセルはそれより20年前の1891年に,ドイツのドレスデンからウィーン経由でロシアのキシニョフに行く旅行をしたことがありました。ラッセル兄弟は自分なりに理解した当時の状況に関して,1891年11月の「シオンのものみの塔」誌上で注解し,「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった。……イタリアやトルコ,またオーストリアやドイツでも,いくばくかの収穫を期待させるようなものは何もなかった」と述べました。

  • オーストリア
    1989 エホバの証人の年鑑
    • [69ページの図版]

      C・T・ラッセルが1911年3月22日に講演を行なうことを試みた,ウィーンのコンチネンタル・ホテル

      [クレジット]

      From the Pictorial Archive of the Austrian National Library

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