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    1989 エホバの証人の年鑑
    • 集会に対する制限

      1935年以降,集会はもはや公に開くことができなくなりました。「ものみの塔」研究を行なうことは,個人の家でさえ一切禁じられていました。当局はその言い分として,公共の安全が脅かされたと述べることもあれば,別の時には,カトリックの住民たちがそのような集まりに腹を立てているのだとも言いました。しかし,神の言葉は,『集まり合うことをやめてはならない』と命じていました。―ヘブライ 10:25。

      兄弟たちは引き続き集まりました。といっても,それは個人の家のみで,しかも8人から10人ほどの小さなグループでした。集会場所は絶えず変更されたので,兄弟たちが不当な注意を引くことはありませんでした。集会で兄弟たちは「ものみの塔」誌や,「神の立琴」,「創造」,「預言」,「政府」,「光」といった他の出版物を活用して,聖書の討議を行ないました。さらに,聖書講演を録音したレコードが手元にある場合は,それらのレコードも聞きました。政府の禁令にもかかわらず,神の民はその数を着実に増し加えていました。

  • オーストリア
    1989 エホバの証人の年鑑
    • まさに懸念されていたとおり,ヒトラーの軍隊は行動を起こし,オーストリアの国境を越えました。それは,1938年3月12日のことでした。

      これより1週間ほど前,起ころうとしていた事態を予測して,ウィーンにある協会の建物は売却され,責任者の兄弟は妻と共にオーストリアを離れてスイスに向かいました。このことを知ったオーストリアの兄弟たちは,『これは一体どういうことだろう』,『どのようにして業は継続されるのだろうか』,『どこから自分たちは霊的食物を得られるのだろうか』と思案に暮れました。

      協会の事務所で働いていたアウグスト・クラーフト兄弟(クラーフツィヒとしても知られる)も,オーストリアを離れるかどうか選択の機会を与えられました。しかし兄弟は,「私は羊と共に留まりたいと思います」とはっきり述べました。兄弟は羊たちを愛をもって励まし,強め,世話しました。神を恐れ,自分たちを優しく世話してくれた牧者であるこの兄弟に,オーストリアの兄弟たちはどれほど感謝したことでしょう。自分の名前がすでにドイツのゲシュタポの指名手配者リストに載っていたにもかかわらず,兄弟はそのようにしたのです。

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