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東ヨーロッパのエホバの証人目ざめよ! 1991 | 1月8日
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東ドイツをはじめとする多くの国の証人たちが出席した一つの大会の会場は,当時西ベルリンにあったオリンピア競技場でした。出席者4万4,532人のうち,およそ3万人は東ドイツからの出席者だったと推定されています。ベルリナー・モルゲンポスト紙が伝えたところによると,新たに証人となった1,017人がオリンピア競技場の競泳用プールでバプテスマを受けました。それは全身を水中に浸す浸礼でした。この方法によって「関係者は原始キリスト教の型を固く守る」のです。
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東ヨーロッパのエホバの証人目ざめよ! 1991 | 1月8日
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ついに与えられた信教の自由!
次に挙げるのは,1990年7月にベルリンで開かれた「清い言語」大会に元の東ドイツから出席した証人たちの言葉です。
「わたしの名前はリディアです。8歳です。ドイツ民主共和国から来ました。この地域大会に出席できて本当にうれしいです。だって1年前には国境が開いてなかったんですもの。記念式は内緒で祝わなければなりませんでした。でもこんどは自由です。みんなが歌を歌い始めたとき,涙が出ました。本当にうれしくて,学校で話さずにはいられないと思います」。
「私たちは,ここベルリンにおける国際的な兄弟関係のただ中にエホバの客として招かれ,心は喜びと感謝でいっぱいです」― ベルント。
「ドイツ民主共和国の兄弟たちもプログラムに組み込まれていたということは,ある特別な面を強調しています。つまり,エホバはご自分の民が禁令下にある時でさえ彼らを訓練し,彼らが資格を得るようにされるということです」― ゴットフリート。
「拍手や歌声から,みんなが幸福な気持ちでいることが分かりました。それは人の心を揺さぶる大音響でした。エホバは大いに喜ばれたに違いありません」― エゴン。
「バプテスマを受けたあと,幾人かの兄弟たちから水がとても冷たかったんじゃないかと尋ねられましたが,そんなことは分からなかったと答えるしかありませんでした。エホバの祝福が非常に温かかったので,水の温度などほとんど気にもしなかったのです」― ハイドルン。
「宿舎の雰囲気はもう信じられないほどでした。デンマーク,モザンビーク,英国,カリフォルニア,ドイツ南部,スペイン,ドイツ民主共和国などから来た仲間です。私たちは皆一緒に歌を歌い,全員が『清い言語』を話していました」― ユッタ。
「私たちは,出席できた1958年大会や最後の大会である1960年のベルリン大会の思い出をいつも子供たちに話して聞かせました。しかし,今私たちが経験している事柄は,私たちの思い出や期待をすべて超越しているのです」― ウォルフガング。
「一番感激したのは,何万もの人々が起立してエホバに賛美の歌を歌った時です。閉会の歌と祈りの時は特に感動しました。涙をこらえることはできませんでした」― モニカとラインハルト。
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東ヨーロッパのエホバの証人目ざめよ! 1991 | 1月8日
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ベルリン大会でノートを取る人々;
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東ヨーロッパのエホバの証人目ざめよ! 1991 | 1月8日
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ベルリン大会で「神を探求する人類の歩み」の本を手にする家族;
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