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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1995
塔95 4/15 10–14ページ

強い影響を残した印刷業者

聖書の中のある語句を探したいのに,それがどこにあるか思い出せなかったことがありますか。それでも,ただ一つの単語を覚えていただけで,聖書の用語索引を用いてその聖句を探し当てることができたでしょう。あるいは,クリスチャンの集まりに出席されたことがあるかもしれません。そのような集まりには数百人,時には数千人が出席しますが,読むべき聖句を示されると,出席者は数秒で自分の聖書を開くことができます。

どちらの場合にしても,あなたには恐らくなじみのないある人物の恩恵を幾らか受けているのです。その人は,あなたが聖書の研究をしやすいようにしたのです。現在わたしたちは正確な聖書を持っていますが,それを可能にする点でもその人物は一役果たし,また多くの聖書の構成にさえ影響を及ぼしたのです。

その人物とはロベール・エティエンヌです。a 彼は16世紀の初めに,フランスのパリで印刷業を営んでいた人の息子として生まれ,自らも印刷業者になりました。時あたかもルネッサンスと宗教改革の時代で,印刷機は両者のための伝達手段となりました。ロベールの父アンリ・エティエンヌは,名の知れた印刷業者で,ルネッサンス期の最も優れた書籍の幾つかを出版しています。彼の仕事には,パリ大学および同大学の神学部であるソルボンヌの学術書や聖書関係の著作が含まれていました。

しかし,わたしたちは息子のロベール・エティエンヌのほうに注目することにしましょう。彼が正式な教育をどれほど受けたのかはあまり知られていません。それでも,若くしてラテン語を習得し,その後すぐにギリシャ語とヘブライ語も学んでいます。父親からは印刷技術を習いました。1526年に父アンリの仕事を引き継いだ時に,ロベール・エティエンヌはすでにかなりの言語学者として知られていました。ラテン語の文学作品や他の学術書の本文校訂版も出版しましたが,彼が何よりも聖書に傾倒していたことは明らかです。エティエンヌは,ラテン語の古典に関してすでに行なわれていた事柄を,ラテン語の聖書のために成し遂げることに情熱を傾け,5世紀のヒエロニムスのラテン語ウルガタ訳の原文を,可能な限り回復することに着手しました。

純化されたウルガタ訳

ヒエロニムスは,聖書を原語のヘブライ語とギリシャ語から翻訳していましたが,エティエンヌの時代には,そのウルガタ訳が出てからすでに1,000年も経過していました。何世代にもわたって書き写されてきた結果,ウルガタ訳にはたくさんの誤りや改悪が入り込んでいました。そのうえ,中世には,いかにも中世的な伝説,言い換え,にせの書き込みなどの絡み合ったものが,神の霊感による聖書の言葉の中に多く見られるようになっていました。それらは,聖書の本来の文とすっかり混じり合っていたため,霊感を受けて書かれたものとして受け入れられるようになりました。

原文にはない箇所をすべて取り除くため,エティエンヌは古典文学の研究に用いられた本文批評の方法を応用しました。彼は当時手に入る限りの古くて良い写本を幾つか探し出しました。パリとその周辺の図書館で,またエブルーやソアソンのような場所で,古い写本を幾つか発見しましたが,そのうちの一つは6世紀のものだったようです。エティエンヌはいろいろなラテン語写本を語句ごとに注意深く比較し,最も権威があると思われるものだけを選びました。その仕事はエティエンヌ版聖書という形で実を結び,まず1528年に出版され,聖書本文の正確さを高める点で重要な一歩となりました。エティエンヌはその後も次々に改善された版を出します。彼以前にもウルガタ訳の訂正を試みた人々がいましたが,有用な批評資料を付記したのはエティエンヌの版が最初でした。エティエンヌは欄外に,疑わしい語句を削除した箇所や,他の読み方が可能な箇所を示しました。またそれらの訂正が権威あるものであることを裏づける他の読み方の写本資料を付記しました。

エティエンヌはこのほかにも,16世紀にしてはかなり斬新な事柄を数多く導入しています。彼は聖書外典と神の言葉とを区別しました。使徒たちの活動の書を,四福音書の後,そしてパウロの手紙の前に置きました。各ページの上部に,読者が特定の章句を探すのに役立つ幾つかのキーワードを記しました。これは,現在一般にランニングヘッドと言われているものの最初の例です。エティエンヌは肉太のゴシック体,つまりドイツで使い始められた黒字体ではなく,現在一般的になっている細くて読みやすいローマン体活字で聖書全巻を早くから印刷した人の一人でした。彼はまた,特定の語句を明確にする助けとして数多くの相互参照や言語学上の注を付しました。

多くの貴族や高位僧職者はエティエンヌの聖書を高く評価しました。ウルガタ訳の他のどの印刷版よりも優れていたからです。体裁の良さ,印刷の出来栄え,使いやすさの点で彼の版は標準となり,すぐにヨーロッパ中で模倣されるようになりました。

王室の印刷係

箴言 22章29節には,「あなたは自分の仕事に熟練した人を見たか。その人は王たちの前に立ち,凡庸な人たちの前には立たない」とあります。エティエンヌの革新的な技術と言語能力は,フランス王,フランソワ1世の目に留まらずにいることはありませんでした。エティエンヌは王室のラテン語,ヘブライ語,ギリシャ語文書の印刷係となりました。そのような立場を得たエティエンヌは,今なおフランスの活版印刷の傑作とみなされている書物の幾つかを出版しました。1539年には,フランスで印刷された最初の,そして非常に優れたヘブライ語聖書全巻を印刷する仕事に着手しました。1540年には,自分が印刷するラテン語聖書に挿絵を導入しました。中世には聖書中の出来事を空想して描いた絵を用いるのが一般的でしたが,エティエンヌは考古学的証拠,また聖書そのものの中に記されている物の大きさや描写に基づく啓発的な絵を載せました。これらの木版刷りは,契約の箱や大祭司の衣服,幕屋やソロモンの神殿などを詳細に描写するものでした。

王の収集した写本を印刷するために注文してあった特別なギリシャ語書体一式を使って,エティエンヌは,クリスチャン・ギリシャ語聖書の最初の本文批評版の作成にも取りかかりました。エティエンヌのギリシャ語本文の最初の二つの版は,デシデリウス・エラスムスの校訂版とさほど変わりませんでしたが,1550年の第3版でエティエンヌは,5世紀のベザ写本やセプトゥアギンタ訳聖書をはじめとする15ほどの写本をもとに校合を行ない,注記や参照を加えました。エティエンヌによるこの版は広く受け入れられ,後に,テクストゥス レケプトゥス,あるいは「公認本文」と言われるものの基礎となりました。1611年のジェームズ王欽定訳も含めて,後の多くの翻訳はこれを基礎にして行なわれました。

ソルボンヌ対宗教改革

ルターや他の宗教改革者の思想がヨーロッパ全土に広まるにつれ,カトリック教会は,読み物を規制することによって人々の考えを統制しようとしました。1520年6月15日に教皇レオ10世は大勅書を発布して,カトリックの国では“異端”を含む本を印刷したり,販売したり,読んだりしてはならないと命じ,世俗の権力者たちに自分の領内でその大勅書を施行するよう要求しました。英国では,ヘンリー8世が検閲の仕事をカトリックのカスバート・タンスタル司教に任せました。しかしヨーロッパのほとんどの地域において,教理の問題に関して教皇に次ぐ権威を有していたのは,明らかにパリ大学,つまりソルボンヌの神学者たちでした。

ソルボンヌは,カトリックの正統派的信仰の代弁者で,何世紀もの間,カトリック教の防壁と目されていました。ソルボンヌの検閲者は,ウルガタ訳の本文批評版や,ウルガタ訳を他言語に訳したものにすべて反対しました。そうしたものは「教会にとって役に立たない[ばかりか]有害」であると考えたのです。宗教改革者たちが聖書の権威に基づかない教会の教理や儀式や伝統に不信感を表明していた時期でしたから,それも驚くには当たりませんでした。しかし,ソルボンヌの多くの神学者たちは,教会が信奉している教理は,聖書そのものの正確な読み方よりも重要であると考えました。ある神学者は,「ひとたび教理が定められたなら,聖書は壁が建てられた後に取り除かれる足場のようなものだ」と言いました。教授陣の多くはヘブライ語もギリシャ語も知りませんでしたが,聖書で使われている単語の本来の意味を徹底的に調べていたエティエンヌや他のルネッサンスの学者たちの研究を見くびっていました。ソルボンヌの一教授は,「ギリシャ語とヘブライ語の知識を普及させることは,全宗教の滅びにつながる」とさえ言いました。

ソルボンヌからの攻撃

エティエンヌによるウルガタ訳の初期の版は,その教授陣の検閲を通過しましたが,論争がなかったわけではありません。13世紀にさかのぼってみれば,ウルガタ訳は同大学の公式聖書として大切にされ,多くの人にとってその本文は不謬のものでした。教授陣は,ウルガタ訳に関連した仕事となると,高名な学者エラスムスをさえ非難したのです。それなのに,地元の平信徒の印刷業者が大胆にも公式の本文を訂正しようというのですから,一部の人は危惧を感じました。

何よりもその神学者たちを心配させたのは,エティエンヌの欄外注記だったでしょう。その注記は,ウルガタ訳の本文の正当性に疑問を投げかけました。幾つかの語句を明確にしたいというエティエンヌの願いは,神学の領域に侵入したとして非難される結果になりました。彼は非難を受ける理由のないことを示し,自分の注記は短い要約か,または言語学的な性質のものにすぎないことを主張しました。例えば,創世記 37章35節に関する注記は,「地獄」[ラテン語,インフェルヌム]という言葉がそこでは,悪人の罰せられる場所とは理解できないことを説明するものでした。教授陣は,魂の不滅性と“聖人”の執り成しの力を否定したと非難しました。

しかし,エティエンヌは王の好意と保護を受けていました。フランソワ1世はルネッサンスの研究に,そして特に王室印刷係の仕事に深い関心を抱いていました。伝えられるところによると,フランソワ1世はエティエンヌのところに出向き,彼が本文に最後の訂正を加えるまで辛抱強く待つことさえあったということです。王の支持を得たおかげで,エティエンヌはソルボンヌの攻撃に耐えることができました。

神学者たちはエティエンヌの聖書を発禁にする

しかし1545年には,様々な出来事が原因となって,ソルボンヌの教授陣の激しい怒りがエティエンヌに集中しました。宗教改革者たちに対して共同戦線を張るのが得策と見たカトリックの各大学,すなわちケルン大学(ドイツ),ルーバン大学(ベルギー),パリ大学は,非正統的教義の検閲に協力することで,早くから合意を見ていました。ルーバン大学の神学者たちがソルボンヌに手紙を送り,エティエンヌの聖書がパリ大学の禁書の表に載っていないことに驚きを表明したところ,ソルボンヌは偽って,もしエティエンヌの聖書を見たのであれば,我が大学はそれらを言うまでもなく禁書にしていたであろう,と答えました。そこで,教授陣の中にいたエティエンヌの敵対者たちは,ルーバン大学とパリ大学の教授陣の勢力を結集すれば,フランソワ1世に,王の印刷係の誤りを確信させるに十分だという自信を持ちました。

一方,敵対者たちの意図について警告を受けていたエティエンヌは,神学者たちよりも先に王のところに行きました。そして,もし神学者たちの発見した誤りがあってその一覧表を作成するのであれば,その表を,神学者たちがそれに加えた訂正も添えて印刷するし,販売される各聖書にも喜んで含めると述べました。この解決策は王の好意を得ました。王は王室の読師ピエール・デュ・シャステルに,この件を扱うよう依頼しました。1546年10月に,教授陣はデュ・シャステルに,エティエンヌの聖書は,「我々の信仰を否定し,当世流行の……異端を支持する者たちのための糧」であり,「完全な滅びと根絶」に値する誤りに満ちている,と手紙で抗議しました。納得しかねた王は,今度は自ら教授陣に,エティエンヌの聖書に印刷できるように譴責箇所をまとめた書面を作成するよう命じました。教授陣はこれに同意しましたが,実際には,誤りとされる箇所の詳細な一覧表を作成しなくてもよいように,あらゆる手を尽くしました。

フランソワ1世は1547年3月に没し,エティエンヌはソルボンヌに対抗する最も強力な味方を失いました。アンリ2世は即位後,父王が教授陣に対して出していた譴責書作成命令を更新しました。しかし,ドイツの諸侯が宗教改革を政治目的に利用しているのを見たアンリ2世は,フランスをカトリックとして保ち,その新しい王のもとに一致させることのほうに関心を向けて,王室の印刷係の聖書にあるとされる利点や弱点にはそれほど関心を示しませんでした。1547年12月10日に王の諮問機関は,エティエンヌの聖書の販売を,神学者が譴責書を作成するまで禁止することに決定しました。

異端者と非難される

教授陣は今や,異端審問のために新たに設けられていた特別な審問所にエティエンヌの件を引き渡す方法を探りました。エティエンヌは自分の身が危険にあることを,注意されるまでもなくよく知っていました。その審問所は発足後2年もたたないうちに,シャンブル・アルダント,つまり“燃える部屋”として知られるようになりました。60人ほどの犠牲者が火刑に処されましたが,その中には,エティエンヌの家の玄関から徒歩で数分の所にあるプラス・モベールで生きながら火あぶりにされた印刷業者や書籍販売業者もいました。エティエンヌの家は,彼に不利となるわずかな証拠をも見逃さないよう,繰り返し捜索されました。80人余りの証人が尋問を受けました。通報者には,もしエティエンヌが異端として有罪を宣告されることになれば,その財産の4分の1を与えるという約束がなされていました。それでも,彼らが提出した証拠は,エティエンヌが出した聖書の中に公然と印刷されていた事柄以外にはありませんでした。

王は再度,教授陣に譴責箇所のリストを王の諮問機関に提出するよう命じました。頑固な教授陣は,『神学者たちがある事柄を異端と断定した場合,その理由を文書に記す習慣はなく,口頭で答えるにとどまります。その言葉を信ずべきであります。さもなければ書くことに際限はありません』と答えました。アンリは黙諾しました。最終的に禁令が科されました。エティエンヌがそれまでに作った聖書に関連した出版物はほとんどが禁書とされました。プラス・モベールでの火刑は免れましたが,自分の聖書が全部発禁となり,さらに虐待されるおそれもあったので,エティエンヌはフランスを離れることを決意しました。

故国を去った印刷業者

1550年11月,エティエンヌはスイスのジュネーブに移住しました。教授陣は,フランスでウルガタ訳以外の聖書を出版することを違法としていたのです。望むものを何でも出版できるようになったエティエンヌは,1551年にギリシャ語「新約聖書」を再版しました。それはさらに二つのラテン語版(ウルガタ訳とエラスムス訳)を二欄に並べて印刷したものでした。これに続いて1552年には,ギリシャ語聖書のフランス語訳と,その横にエラスムスのラテン語本文を並べて印刷した聖書も出版しました。これらの二つの版にエティエンヌは,聖書本文を章節の番号で分ける方法を導入しました。それは現在全世界で用いられているのと同じ方法です。それ以前にも章節に分ける別の方法を試みた人たちもいましたが,エティエンヌのものが受け入れられた形式となりました。エティエンヌの1553年のフランス語聖書は,章節の区分のある最初の全訳聖書です。

エティエンヌが1557年に出版した二つのラテン語版を並べた聖書も,そのヘブライ語聖書の部分の中で一貫して神の固有の名エホバを用いている点で注目に値します。エティエンヌは詩編 2編の欄外に,ヘブライ語の四文字の語<テトラグラマトン>(יהוה)の代わりにアドーナーイを用いるのは単にユダヤ人の迷信に基づくものであるから退けるべきであることを注記しました。この版でエティエンヌは,ヘブライ語の意味を明確に伝えるために加えられたラテン語の語句にはイタリック体を用いました。この方法は後には他の聖書でも採用されていて,イタリック体を強調のために用いる現代の用法に慣れている読者をしばしば戸惑わせています。

エティエンヌは,自分が学んだ事柄を他の人のために役立たせることを決意していたので,その生涯を聖書の出版にささげました。今日,神の言葉の価値を認める人々は,彼の努力と,当初書き記された聖書の語句を明らかにするために懸命に努めた他の人々の労苦に感謝することができます。古代の言語のより正確な知識と,神の言葉のより古い,より正確な写本の発見とにより,彼らが開始した作業はさらに進展してゆくことになります。エティエンヌは死(1559年)の少し前に,ギリシャ語聖書の新しい翻訳に着手していました。「だれがそれを買うのか。だれがそれを読むのか」と尋ねられた時に,エティエンヌは自信をもって答えました。「敬虔な専心を示す博学な人すべてがそうするでしょう」。

[脚注]

a ラテン語化したステファヌス,英語風のスティーブンスという名でも知られています。

[10ページの図版]

ロベール・エティエンヌの努力は,多くの時代にわたって人々の聖書研究に役立ってきた

[クレジット]

Bibliothèque Nationale, Paris

[12ページの図版]

エティエンヌの啓発的な挿絵は,多くの時代にわたって手本にされてきた

[クレジット]

Bibliothèque Nationale, Paris

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